表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/9

第9話 時間を気にしなくていい場所

マネージャーには何も言わず、アオイは神社へ向かった。


禁止されていることをするつもりだったわけじゃない。

ただ、説明したくなかっただけだ。


ときどき、人は「何も求められない場所」に行く必要がある。


神社は古い住宅街の奥にあった。観光客向けの店もなく、賑やかな声もない。鳥居と細い参道、そして足音がやけに大きく聞こえる静かな境内。


アオイは靴を脱ぎ、鳥居をくぐった。


その瞬間、空気が少し軽くなった気がした。


「本当にいいの?」とイオンが聞いた。

「うん。ただ、ここにいたいだけ」


「じゃあ、邪魔はしない。そばにいるけど、黙ってる」


彼は嘘をつかなかった。

いつも約束は守ってきた。


境内には誰もいなかった。

風が木の葉を揺らし、どこか遠くで鈴の音がした。


アオイは拝殿の前で立ち止まった。


何を言えばいいのか分からなかった。

そもそも、言葉が必要なのかも分からなかった。


だから、ただ手を合わせて、目を閉じた。


――疲れた。

――怖い。

――この先、どうすればいいのか分からない。


お願いではなかった。

ただ、心の中にあるものを、そのまま置いただけだった。


「いい時に来たね」


背後から声がした。


アオイは驚いて振り返った。


そこに神職が立っていた。

いつからいたのか分からない。

背が低く、年配で、質素な装束。怖さはないのに、妙に落ち着かない存在感だった。


「すみません、気づかなくて……」


「ここでは、気づかないものだよ」

彼は静かに言った。

「人は、外じゃなくて内側を見るために来るからね」


その視線は、アオイ本人ではなく、少し横――

彼女と何かの“間”を見ているようだった。


イオンが黙った。


「君は一人で来た」

神職は言った。

「でも、一人で立ってはいない」


喉が乾いた。


(……見えてる)

(ああ。たぶん、そうだ)


神職は袖に手を入れた。


「一人は、この身体で生きている」

「もう一人は、まだ一歩を踏み出していない」


「どういう意味ですか?」

アオイは慎重に尋ねた。


「“間”に長く留まる場所じゃない」

神職は言った。

「ここは、通るための場所だ」


そう言って、視線を少しずらした。


「君は死んでいない」

イオンに向けて、はっきりと。

「だが、ここにもいない」


イオンの気配が強くなった。


「俺の身体は……」


「待っている」

神職は即座に答えた。

「息はある。だが、歩いていない」


アオイの心臓が早く打ち始める。


「どうして彼は、私と一緒に?」

「どうして、ここに?」


神職は境内を見渡した。石、木、地面。


「道は、都合のいい場所を通らないことがある」

「“空き”のあるところを通るんだ」


「どうすれば戻れる?」

イオンが問う。


しばらく、答えはなかった。


「戻るのは、離れた者だ」

「君は……留まっている」


神職は一歩下がった。


「歩みが揃えば」

「一人は目を覚まし」

「もう一人は、掴むのをやめる」


遠くで、低く雷が鳴った。

大きな音ではなかった。思い出させるような響きだった。


アオイが瞬きをした、その時――


神職の姿は、もうなかった。


去った、というより、

“役目が終わった”だけのように。


境内には再び静けさが戻った。

風が葉を揺らし、神社はただの古い神社に戻っていた。


「もし、あの人の言う通りなら……」

アオイが呟く。


「俺がここにいるのは、偶然じゃない」

イオンが答えた。


足元の石を見る。


「もし、あなたがいなくなったら?」


「君は一人で進む」

「でも、もう前と同じじゃない」


アオイは、ゆっくり息を吸った。


神社は、ただそこにあった。

特別な声も、啓示もない。


それでも――


神職の言葉は残った。

まだ芽を出していない、

けれど確かに土を変えてしまった、

一粒の種のように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ