第9話 時間を気にしなくていい場所
マネージャーには何も言わず、アオイは神社へ向かった。
禁止されていることをするつもりだったわけじゃない。
ただ、説明したくなかっただけだ。
ときどき、人は「何も求められない場所」に行く必要がある。
神社は古い住宅街の奥にあった。観光客向けの店もなく、賑やかな声もない。鳥居と細い参道、そして足音がやけに大きく聞こえる静かな境内。
アオイは靴を脱ぎ、鳥居をくぐった。
その瞬間、空気が少し軽くなった気がした。
「本当にいいの?」とイオンが聞いた。
「うん。ただ、ここにいたいだけ」
「じゃあ、邪魔はしない。そばにいるけど、黙ってる」
彼は嘘をつかなかった。
いつも約束は守ってきた。
境内には誰もいなかった。
風が木の葉を揺らし、どこか遠くで鈴の音がした。
アオイは拝殿の前で立ち止まった。
何を言えばいいのか分からなかった。
そもそも、言葉が必要なのかも分からなかった。
だから、ただ手を合わせて、目を閉じた。
――疲れた。
――怖い。
――この先、どうすればいいのか分からない。
お願いではなかった。
ただ、心の中にあるものを、そのまま置いただけだった。
「いい時に来たね」
背後から声がした。
アオイは驚いて振り返った。
そこに神職が立っていた。
いつからいたのか分からない。
背が低く、年配で、質素な装束。怖さはないのに、妙に落ち着かない存在感だった。
「すみません、気づかなくて……」
「ここでは、気づかないものだよ」
彼は静かに言った。
「人は、外じゃなくて内側を見るために来るからね」
その視線は、アオイ本人ではなく、少し横――
彼女と何かの“間”を見ているようだった。
イオンが黙った。
「君は一人で来た」
神職は言った。
「でも、一人で立ってはいない」
喉が乾いた。
(……見えてる)
(ああ。たぶん、そうだ)
神職は袖に手を入れた。
「一人は、この身体で生きている」
「もう一人は、まだ一歩を踏み出していない」
「どういう意味ですか?」
アオイは慎重に尋ねた。
「“間”に長く留まる場所じゃない」
神職は言った。
「ここは、通るための場所だ」
そう言って、視線を少しずらした。
「君は死んでいない」
イオンに向けて、はっきりと。
「だが、ここにもいない」
イオンの気配が強くなった。
「俺の身体は……」
「待っている」
神職は即座に答えた。
「息はある。だが、歩いていない」
アオイの心臓が早く打ち始める。
「どうして彼は、私と一緒に?」
「どうして、ここに?」
神職は境内を見渡した。石、木、地面。
「道は、都合のいい場所を通らないことがある」
「“空き”のあるところを通るんだ」
「どうすれば戻れる?」
イオンが問う。
しばらく、答えはなかった。
「戻るのは、離れた者だ」
「君は……留まっている」
神職は一歩下がった。
「歩みが揃えば」
「一人は目を覚まし」
「もう一人は、掴むのをやめる」
遠くで、低く雷が鳴った。
大きな音ではなかった。思い出させるような響きだった。
アオイが瞬きをした、その時――
神職の姿は、もうなかった。
去った、というより、
“役目が終わった”だけのように。
境内には再び静けさが戻った。
風が葉を揺らし、神社はただの古い神社に戻っていた。
「もし、あの人の言う通りなら……」
アオイが呟く。
「俺がここにいるのは、偶然じゃない」
イオンが答えた。
足元の石を見る。
「もし、あなたがいなくなったら?」
「君は一人で進む」
「でも、もう前と同じじゃない」
アオイは、ゆっくり息を吸った。
神社は、ただそこにあった。
特別な声も、啓示もない。
それでも――
神職の言葉は残った。
まだ芽を出していない、
けれど確かに土を変えてしまった、
一粒の種のように。




