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第5話 風呂場のシーン

アオイは、明かりをつけずに、長いあいだ浴槽の縁に座っていた。


タイルは冷たい。

その冷たさが、逆に彼女を現実につなぎとめていた。


――彼は、いる。


隣ではない。

向かいでもない。

内側。

本来、誰もいないはずの場所に。


「……無理だ」


そう思った。

胸の奥が重くなる。


イオンはすぐには答えなかった。


今、声を出せば、彼女が閉じてしまうことを知っていたから。


「怖いんだな」


静かな声だった。


「あなたが誰か、じゃない」

アオイは噛みつくように返した。

「“信じろ”って言われることが、怖いの」


言葉が止まらなかった。


「何度も言われた。

中学のとき、好きだった人にも。

笑ってくれてた友だちにも。

“仲間だ”って言ってた仕事の人たちにも」


息が乱れる。


「でも、みんな消えた。

背を向けた。

私が見せたものを、利用した」


指先に力が入る。


「保証はあるの?」

思考が揺れた。

「あなたは人間ですらない。体もない。

失うものがない人を、どうやって信じればいいの?」


内側の沈黙が、重くなる。


「アオイ」


イオンが名前を呼んだ。

ただの呼びかけじゃない。

聞いてほしい、という響きだった。


「俺も、これを選んだわけじゃない」


アオイは動けなくなった。


「どうやってここに来たのか、わからない。

最後に覚えてるのは、痛みと暗闇だけだ。

その次にあったのが……君だった」


少し間があく。


「体がないって、楽だと思うか?

重さも、動きも、感覚もない。

自分が、誰かの人生の“エラー”だって理解しながら生きるんだ」


声が低くなる。


「正直に言う。

完全に死ぬか、元に戻れるなら、そのほうがいい。

これは生きてるって言えない。

ただ、待ってるだけだ」


アオイは喉を鳴らした。


「俺が話せるのは、君だけだ」

イオンは続けた。

「君は外に出られる。人と話せる。

でも、俺には君しかいない」


沈黙。


「もし俺が君を傷つけたら」

彼はゆっくり言った。

「俺はここに残る。永遠に。

憎まれたまま、独りで」


もう一拍。


「君も、余計な重荷を抱えたまま生きることになる」


涙が、こみ上げてきた。


鋭くない。

重たい。

ずっと我慢してきた人の涙。


――また、賭け。

――また、選択。


そのとき、アオイは温かさを感じた。


言葉じゃない。

考えでもない。


触れない距離で、誰かがそばにいるような感覚。


「抱きしめることはできない」

イオンは、とても静かに言った。

「でも、寒くならないように、ここにいられる」


涙が落ちた。


アオイは顔を覆い、そのまま泣いた。


「……信じてない」


嗚咽の奥で、そう思った。


「わかってる」

イオンは答えた。

「それでいい」


しばらく、時間が流れた。


「……じゃあ」

アオイは息を整えて言った。

「お試し期間、ってことで」


イオンはすぐに返さなかった。


「後悔させないようにする」

誓いではなく、事実のように。


アオイは深く息を吸う。


「約束を破らなかったら……」

少し迷ってから、続けた。

「私が落ち着ける場所を、教える。

ひとりで、ちゃんと自分に戻れる場所」


それが大切なことだと、イオンは理解した。


「待つよ」

「必要なだけ」


アオイは水を出した。


音が浴室を満たし、残った不安を切り離していく。


二人は近づいたわけじゃない。

友だちにもなっていない。


ただ、壊さずに生きていくための、

かすかな合意が生まれただけだった。

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