第10話 群衆の中の視線
(ぐんしゅう の なか の しせん)
メールは、ある日を境に止まった。
それまで三通。
件名なし。
差出人なし。
だが内容は、正確すぎた。
君は変わった。
最初に気づいたのは僕だ。
前は空っぽだった。
今は違う。
“誰か”がいる。
アオイは削除していない。
削除すれば終わる気がしたからだ。
終わっていないものを、終わったことにするのは怖かった。
「止まったのは、諦めたからじゃない」
イオンは言った。
「近づいたからだ」
その一言で、部屋の温度が下がった気がした。
スタジオに入るとき、
エレベーターの鏡に映る自分の背後を、
無意識に確認するようになった。
スタッフの名札。
カメラの配置。
出入口の位置。
視線は、ある。
だが“特定”できない。
一瞬だけ長く続く目線。
撮影の合間に逸らされる視線。
スマホを向けているはずなのに、画面を見ていない目。
「感じるか?」
イオンが低く聞いた。
「……うん」
鼓動が速い。
「彼は、君を観察している」
「ファンとしてじゃない」
「違和感の原因として」
夜、アオイは三通目のメールを開いた。
送信時刻。
それは――
彼女が生放送に出演していた時間と、ほぼ同じだった。
「見てた……?」
喉が乾く。
「リアルタイムでな」
イオンの声が冷える。
「しかも、君の“間”を見ている」
それは君のものじゃない。
カーソルがその一文の上で止まる。
「もし……」
アオイは言いかける。
「言うな」
イオンが止めた。
「想像は、相手の武器になる」
数日後。
公開リハーサルの終了後。
楽屋へ戻る廊下。
非常口の緑色の灯りの下に、
“立っている人影”があった。
帽子を深くかぶり、
黒いマスク。
スタッフ用パスを下げているが、
首から下げる向きが逆だった。
不自然。
その人物は、動かない。
ただ、見ている。
アオイの足が止まる。
「視線を外すな」
イオンの声が鋭くなる。
「だが、距離を保て」
アオイはゆっくり顔を上げた。
目が合う。
一瞬。
だが、その一瞬で分かった。
――知っている目だ。
歓声を送るファンの目ではない。
尊敬でも憧れでもない。
確かめる目。
まるで、
「中身」を探しているような。
その人物の唇が、わずかに動いた。
音は聞こえない。
だが、形は読めた。
「やっぱり」
背筋が凍る。
次の瞬間、
スタッフが通りかかり、視界が遮られる。
再び見たときには、もういない。
「逃げた……?」
アオイの声はかすれていた。
「違う」
イオンは即答する。
「満足しただけだ」
「何に?」
「確信した」
その夜。
カーテンを閉める前、
アオイは窓の外を見た。
普通の街。
車のライト。
向かいのマンションの窓。
だが、どこかにいる。
“観察している何か”が。
スマートフォンが震えた。
通知。
新着メール。
差出人なし。
アオイの指が止まる。
ゆっくり開く。
本文は、一行だけ。
今は、はっきり見える。
心臓が強く打つ。
イオンが低く言った。
「彼は確信した」
「何を……?」
数秒の沈黙。
そして。
「君の中に、二人いることを」
部屋の空気が重く沈む。
アオイは、ゆっくり息を吸った。
群衆は、いつも味方だった。
歓声は盾だった。
だが今は違う。
群衆の中に、
一人だけ――
笑わずに、
拍手もせずに、
ただ“理解しようとしている”者がいる。
そして、それが一番危険だと、
アオイはようやく理解した。




