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空は赤黒かった。
夕焼けではない。
血が乾いた色――この街の空は、そう呼ぶのがふさわしかった。
レインが降り立ったのは、石造りの城壁に囲まれた交易都市だった。
だが、門は開いているのに、誰一人として迎えに来ない。
翼を畳むと、背中の痛みが脈打った。
力を使った後は、いつもこうだ。
まるで「まだ足りない」と、体そのものが要求してくるように。
通りに足を踏み入れた瞬間、匂いが鼻を刺した。
鉄。腐敗。祈りが失敗した後の匂い。
「……遅すぎたか」
地面には、黒く固まった血の跡。
引きずられた痕、爪で引っ掻いた跡、逃げた痕。
それらが街の中心へと続いている。
。。。
広場に足を踏み入れた瞬間、
レインの呼吸が止まった。
杭に打ち付けられた遺体が、七つ。
吊るされるように並び、
胸には同じ刻印が焼き付けられている。
円環と翼――
かつて、彼が背負ったものと同じ印。
焼けた肉の匂いが、風に乗る。
血は乾き、石畳の隙間に染み込んでいた。
「……俺の、せいか」
声は、祈りのようにかすれていた。
違うと否定したかった。
だが、その言葉は喉に詰まる。
否定する理由が、もう残っていなかった。
この刻印は、選ばれた者の証であり、
同時に――狩られる印だった。
守護者が現れる場所に、災厄は寄ってくる。
災厄が現れる場所は、いずれ滅ぶ。
ならば人々は、どうするか。
答えは、目の前に吊るされていた。
背後で、乾いた拍手の音が響いた。
一人分の、軽い拍手。
「感動的な自己嫌悪ね」
振り返ると、瓦礫の上に少女が座っていた。
足をぶら下げ、楽しげに揺らしている。
年は十五ほど。
だが目は、深夜の海のように暗い。
光を映さず、底が見えない。
「誰だ」
声に、力が入らない。
「生き残り。あるいは、失敗作。
好きな方で呼んで」
少女は立ち上がり、血だまりの上を裸足で歩いた。
赤い足跡が、石畳に残る。
痛みを感じていない。
それが、何より異常だった。
「守護者が現れると、災厄が寄ってくる。
災厄が来ると、街は滅ぶ。
だから人々は、守護者を殺す」
淡々と、事実を並べる声。
怒りも、悲しみも、ない。
「……なら、この街は」
「あなたを呼ぶために、準備したの」
少女は遺体を見上げた。
「この人たち、最初は英雄だったのよ。
災厄を退けた、世界の守り手。
でもね――」
少女の唇が、歪んだ。
「一度でも街が救われると、人は考える。
“次も来る”って」
レインの胸が、締め付けられる。
「だから、餌を置いた。
あなたが来るように。
災厄が来るように」
「……狂ってる」
「ええ。正しい形で」
少女は、初めて笑った。
その笑みは、子どものものではなかった。
「あなたが来たことで、この街はもう助からない。
でもね、これで“循環”は完成する」
循環――
その言葉が、骨に触れた。
「あなたはまだ知らない。
自分が何を“守っている”のか」
少女は一歩、近づいた。
「守護者は盾じゃない。
鍵なのよ」
レインの背中で、翼が震えた。
冷たい風が吹き抜け、
広場の遺体が、きしむ。
この街は、救われるために死んだのではない。
呼び寄せるために死んだ。
その事実が、
彼の心を、静かに壊した。
⸻
広場の空気が、重く沈んだままだった。
少女――リゼは、杭に打たれた遺体を一つ一つ見上げていく。
まるで、数を確かめるように。
「七人。ちょうどいい」
「……何がだ」
レインの声は、低く擦れていた。
「この街を守るための代価。
あなたを呼び、災厄を呼び、世界を一巡させるにはね」
翼が、無意識に広がりかける。
だが、レインはそれを抑えた。
初めてだった。
戦おうとしない自分に、気づいたのは。
「災厄はどこだ」
「もう来てるわ」
リゼが指を鳴らす。
遠くで、地鳴りがした。
家屋が崩れ、鐘が落ち、悲鳴が立ち上る。
空が、ゆっくりと裂け始めていた。
だが――
レインは動かなかった。
胸の奥で、何かが叫んでいる。
行け。守れ。いつも通りに。
だが、別の声が囁く。
――守れば、また同じことが起きる。
この街は救われるために生きていない。
彼を呼ぶために、死んだ。
ならば。
「……俺は、行かない」
リゼの目が、わずかに見開かれた。
「それは、“選ばれた者”の言葉じゃない」
「知るか」
レインは、遺体から目を逸らさなかった。
「守るために力を使うと誓った。
だが、利用されるために誓った覚えはない」
空の裂け目が、さらに広がる。
影が垂れ落ち、街が悲鳴を上げる。
「人が死ぬわよ?」
「……もう、死んでる」
その言葉は、刃のように自分を切った。
だが、引き返さなかった。
沈黙の中、初めてレインは知る。
守護者でいることよりも、
守護者であることを拒む方が、ずっと痛いと。
リゼは、静かに笑った。
「やっと、神殺しの顔になったわね」
「何だと……?」
「あなたはまだ知らない。
でも、今の選択で決まった」
少女は後ろへ下がり、裂け目の闇に溶ける。
「この世界を救うには、
あなたが神を殺すしかない」
その声が消えた瞬間、
街は崩れ落ちた。
レインは、飛ばなかった。
戦わなかった。
救わなかった。
ただ、瓦礫の中で立ち尽くし、
自分の翼が初めて重く感じるのを知った。
その夜、彼は理解した。
守護者とは、世界の盾ではない。
世界が壊れ続けるための装置なのだと。
そして、
その装置を壊せるのは――
装置そのものしかいないのだと。
⸻
街を滅ぼした夜から、レインは飛ばなくなった。
翼は畳んだまま、地を歩いた。
足の裏に伝わる冷たさだけが、彼がまだ世界に触れている証だった。
三つ目の廃都で、彼は“教団”を見た。
白い布を纏い、顔を隠した者たち。
その胸には、円環と翼の紋章。
守護者を崇め、同時に狩る者たち。
「循環は正しい」
「世界は繰り返されるべきだ」
彼らの祈りは、呪文だった。
祭壇の中央には、少女がいた。
鎖で繋がれ、空を見上げている。
その目を見た瞬間、レインの心臓が止まった。
エリナに、似ていた。
声を上げる前に、力が溢れた。
翼が勝手に開き、空気が凍る。
――やめろ。
胸の奥で、誰かが囁いた。
それは、あの氷の大地で聞いた声と同じだった。
「戻れ。まだ間に合う」
初めて、レインは理解した。
この声は、導きではない。
監視だ。
「……黙れ」
彼は、声を拒んだ。
その瞬間、世界が軋んだ。
祭壇の鎖が砕け、少女が崩れ落ちる。
教団の者たちは悲鳴を上げ、逃げ惑う。
だが空が、裂けない。
災厄が、来ない。
「……?」
レインは、呆然と立ち尽くした。
守らなかったのに。
循環を壊したのに。
世界は、続いている。
「見て。あなたはもう、神の外にいる」
背後で、リゼの声がした。
「選択したのよ。守護者じゃなく、破壊者になることを」
「俺は……ただ、守らないと決めただけだ」
「それが一番、神にとって許せないの」
リゼは、初めて真剣な目をしていた。
「神は循環そのもの。
災厄も、守護者も、犠牲も、すべて同じ歯車」
レインの胸が、熱を帯びた。
「なら、壊す」
声は、低く、確かだった。
その瞬間、翼が変わった。
光が黒へ、白が夜へ。
守護者の翼は、神殺しの翼へ。
空が、彼を拒絶した。
そして――
遠くで、誰かが笑った。
それは、エリナの声だった。
⸻
レインは夢を見る。
海の匂い、港町、朝の鐘。
「お兄ちゃん」
振り返ると、エリナが立っている。
あの日と同じ、笑顔で。
「もう、守らなくていいよ」
目が覚めると、翼が痛んだ。
彼は理解する。
妹は、生きていない。
だが、消えてもいない。
エリナは、循環の核に組み込まれている。
世界を回すために、選ばれた存在。
だから災厄は起き、
守護者は現れ、
世界は何度も滅びる。
「取り戻す」
その言葉は、祈りではなく、宣戦布告だった。
彼は、神のいる場所へ向かう。
空の果て、時間の外、すべての始まりへ。
そこでは、声が待っている。
「お前が来ることは、最初から決まっていた」
氷と星と風が混ざった声。
循環の神。
「守りたいと言ったな」
レインは、答えない。
「今も、そうか?」
彼は、翼を広げた。
「……ああ。だから、殺す」
神が、初めて沈黙した。
⸻
神のいる場所には、地も空もなかった。
時間すら、流れていない。
白い円環が幾重にも重なり、
その中心に“声”があった。
氷、風、星、祈り、悲鳴――
すべてが混ざった、世界の始まりの残響。
「レイン」
名前を呼ばれた瞬間、胸が痛んだ。
それは、母が呼ぶ声に似ていた。
「お前は、守った。
世界を、何度も」
「……壊した」
「それも、循環だ」
レインは笑った。
初めて、心から。
「じゃあ、俺が選ぶのも、循環か?」
沈黙。
神は答えなかった。
レインは、翼を広げる。
黒く、重く、血のように脈打つ翼。
その瞬間、彼の中に、すべてが流れ込んだ。
守った街。
滅んだ街。
救えなかった子ども。
感謝しなかった大人。
そして――エリナ。
世界を回すために、
妹は“核”にされた。
守るために、犠牲にされた。
「……もう、終わりだ」
彼は前に進む。
神が初めて、恐れた。
「殺せば、お前も消える」
「知ってる」
「世界は壊れる」
「いい」
「循環は――」
「要らない」
翼が、神を貫いた。
光が砕け、音が消え、
世界が一度、完全に無音になった。




