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世界の端に、海と空の境界があると言われている。
波は空を映し、雲は海に溶け、どちらが上で下なのか分からなくなる場所。
青年は、そこに立っていた。
足元に広がるのは凍りついた水面。
空からは白い粒子が静かに舞い落ち、羽のように肩に積もる。
背中に広がる六枚の翼が、淡い光を放ちながらゆっくりと揺れていた。
それは生まれつきのものではない。
彼が選んだ代償だった。
青年はフードを深くかぶり、遠くを見つめる。
浮遊する島々が空に影を落とし、その向こうで黒い稲妻が瞬いた。
――また、来る。
彼の胸の奥で、冷たい鐘の音のような予感が鳴った。
⸻
青年の名は、レイン。
だがその名を呼ぶ声は、もう世界に存在しない。
港町ルーシェは、海に寄り添うように生きていた。
潮の匂い、木の軋み、朝の鐘。
それらが重なり、町は今日も生きていることを思い出す。
レインが目を覚ますのは、いつも鐘より少し前だった。
父の残した小舟を、海に出すためだ。
父は、五年前の嵐で帰らなかった。
母は、その翌年、静かに眠るように死んだ。
理由は誰も口にしない。
レインも聞かなかった。
「海が連れていったんだよ」
そう言ったのは、網職人の老人ガルドだった。
それ以上、誰も何も言わない。
レインは、父の舟を直しながら生きていた。
直すことで、まだ父がそこにいる気がした。
彼が海へ行くのは、魚のためだけではない。
帰る場所を確かめるためだった。
沖へ出て、振り返ったとき、
ルーシェがそこにあること。
それが、何より大事だった。
「お兄ちゃん、また確認?」
桟橋の端で、エリナが笑った。
髪は海風で跳ね、目は空の色を映している。
「心配性だな」
「違うよ。お兄ちゃんがいなくなると、町がなくなる気がするんだもん」
レインは、その言葉を冗談だと思った。
今思えば、予言だった。
エリナの“おかしさ”
エリナは、時々、海に話しかけていた。
波に向かって手を振り、
誰もいない場所に微笑む。
「誰と話してる?」
「海の向こうの人」
「……誰だそれ」
「分からない。でも、優しいよ」
その声を、風が攫った。
夜、エリナはよく同じ夢を見る。
「空が回ってる夢」
目を覚ましたあと、決まって熱を出した。
母が生きていた頃、
「この子は、遠い音を聞くの」
そう言って、胸を撫でていた。
魚屋のミナは、毎朝パンをくれた。
「兄妹はよく働くねえ」と笑って。
酒場の主人トルクは、
「エリナが来ると店が明るくなる」と言った。
鍛冶屋のラズは、レインの舟の釘を無償で打ち替え、
「父さんに似てきたな」と背中を叩いた。
誰もが、兄妹を知っていた。
誰もが、見守っていた。
だから――
誰も、逃げられなかった。
あの日の夜
空が裂けた音は、
母の棺を閉じたときの音と、同じだった。
黒い霧が、海から這い上がる。
波が、悲鳴のように打ち寄せる。
レインはエリナを抱き、走った。
「お兄ちゃん、ミナさんは?」
「後だ!」
「トルクさんは?」
「走れ!」
名前を呼ばれるたび、胸が裂けた。
答えられなかった。
最後の角を曲がった瞬間、
エリナの手が、消えた。
声も、温度も、重さもない。
ただ、空白。
「……エリナ?」
霧の中から、誰の声も返らない。
翌朝、町は消えていた。
舟も、家も、鐘も。
名前のあった人々すべて。
レインだけが、取り残された。
このときすでに、運命は決まっていた。
エリナは、災厄に選ばれ、
レインは、それを追う者になる。
だがその時、彼はただ――
妹の名を呼び続ける、普通の兄だった。
。。。
目を覚ましたとき、彼は氷の大地に倒れていた。
冷たさが、骨の奥まで染みている。
息を吸うと、白い霧が肺から抜けていく。
空は広すぎて、怖かった。
地平はどこまでも続き、終わりが見えない。
――ここで、終わるのか。
そう思った瞬間、安堵が胸を満たした。
何もしなくていい。
守れなかった責任も、選べなかった後悔も、
すべて凍らせてしまえばいい。
「もう……疲れた」
言葉にした瞬間、涙がこぼれた。
寒さで凍る前に、頬を伝った。
そのとき、声がした。
「守りたいか」
それは外からではない。
氷の下、空の奥、そして自分の心臓の裏側から響いた。
風が鳴り、星が軋み、時間が逆流する音。
世界そのものが、彼に問いかけている。
「代償は重い。
お前は、戻れない」
戻れない――
その言葉が、刃のように胸を裂く。
戻りたい場所が、脳裏に溢れ出す。
港町の朝。
濡れた板の匂い。
エリナの笑い声。
「お兄ちゃん、手、離さないでね」
――離した。
思い出が、歪む。
エリナの声が、近くで聞こえた。
「……お兄ちゃん?」
振り返る。
誰もいない。
だが、背後に確かな気配がある。
「帰ろうよ」
優しい声。
あの日のままの声。
彼は、崩れ落ちた。
「無理だ……」
喉から、嗚咽が漏れる。
「帰ったって……
俺の顔を見たら、みんな思い出す……
守れなかった俺を」
頭を抱える。
逃げたい。
何もかもから。
この声に応えなければ、すべて終わる。
それが、どれほど魅力的だったか。
「なら、終わらせればいい」
声が囁く。
優しい。
エリナの声と、同じ高さで。
「眠れば、楽になる。
何も選ばなくていい」
その瞬間、彼は理解した。
この声は、救いの顔をした絶望だ。
「……違う」
震える声で、彼は言った。
「それは……エリナじゃない」
風が、止まった。
空が、軋んだ。
「では、何を選ぶ」
声が、低くなる。
世界が、怒っているようだった。
彼の胸に、醜い感情が湧き上がる。
――怖い。
――逃げたい。
――でも、俺だけが逃げるのは、許せない。
歪んだ決意だった。
正義でも、勇気でもない。
罪から逃げないための選択。
彼は顔を上げた。
涙で滲んだ視界の向こう、氷の空に“何か”が見えた。
巨大な輪。
回り続ける、世界の傷口。
「構わない」
声が、折れそうになる。
「戻れなくていい。
人じゃなくなってもいい。
……俺が、罰を受ける」
沈黙が落ちた。
そして、世界が笑った。
「それでこそ、守護者」
背中が、焼けた。
悲鳴は、音にならない。
魂が引き裂かれ、何度も生まれ変わらされる感覚。
過去も未来も、同時に流れ込む。
彼は見た。
守護者が死に、災厄が生まれ、
世界が壊れて、また始まる光景を。
――これを、回しているのは誰だ?
答えは、彼自身の中に刻まれた。
羽が、生まれた。
冷たく、重く、逃げ場のない鎖。
同時に、心に刻まれる言葉。
――守護者となれ。
それは命令であり、
呪いであり、
神の輪に組み込まれる契約だった。
彼は、膝をつきながら立ち上がる。
エリナの声は、もう聞こえない。
代わりに残ったのは、
回り続ける音。
世界が壊れて、また始まる音。
彼はまだ知らない。
この輪を、いつか自分の手で壊すことになることを。
だがその時、確かに思った。
――生きている限り、逃げない。
それが、彼の最初で最後の、自由な選択だった。
。。。
それから何年が過ぎたのか、レイン自身にも分からなかった。
季節は巡り、国は変わり、
海だった場所に砂漠が広がり、
森だった場所に墓標が立った。
だが、彼の体は変わらない。
老いも、疲れも、眠りもない。
時間は、彼の上だけを通り過ぎていった。
災厄の兆しが現れると、胸が痛む。
それは予兆ではなく、呼び声だった。
世界の傷が、彼を引き寄せる。
彼は現れ、斬り、去る。
それだけを繰り返した。
救われた村で、石を投げられたことがある。
「化け物」
「次はお前が災厄を呼ぶ」
それでいいと、彼は思った。
そう思わなければ、自分が何者か分からなくなる。
彼は人のために生きていない。
それは、言い訳だった。
本当は、
生き続ける理由が欲しかっただけだ。
⸻
ある夜、空気が震えた。
皮膚が粟立つ。
風が、逆流する。
「……来たな」
呟いた声は、もう人のものではない。
空が裂け、黒い裂け目が開く。
影が、世界に滴る。
レインは翼を広げた。
光が冷たく、無感情に体を包む。
だが、彼の心は違った。
――また、守れなかった場所だ。
足元に見えるのは、小さな村。
灯りは少なく、人の気配は弱い。
「遅かったか……」
その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
何度も繰り返した感覚。
間に合わなかった後悔。
それでも、飛ぶしかない。
⸻
空が、裂けた。
音はなかった。
ただ、空気が逆流し、世界が裏返るような感覚だけが走る。
レインはすでに空にいた。
翼が自動的に広がり、体が戦場へ引き寄せられる。
裂け目から落ちてきたのは、
人の形をした災厄の眷属だった。
腕は多く、顔は一つ、目はない。
口だけが、無数の声を吐き出している。
「……返して……」
その声に、心臓が跳ねた。
エリナの声と、同じ高さだった。
「違う……」
レインは自分に言い聞かせ、光を纏う。
翼が振り下ろされ、空が凍った。
眷属の腕が砕け、霧となって散る。
だが霧は、また形を成す。
災厄は、殺せない。
ただ、押し戻すことしかできない。
レインは知っていた。
それでも、止めるしかない。
何度も、何度も斬る。
斬るたびに、胸の奥で何かが欠けていく。
最後に、裂け目そのものへ突っ込む。
翼を畳み、光を凝縮し、
自分ごと封じるように。
空が閉じた。
その瞬間、力が抜け、地面に叩きつけられる。
戦いが終わると、空は元に戻り、
世界は何事もなかったかのように動き出した。
⸻
助けたはずの村は、静かだった。
家は残り、人も生きている。
だが、誰も近づかない。
老女が、震える手で石を拾った。
それが合図だった。
「出ていけ……」
「また来る……」
「お前がいるからだ……」
石が、飛んだ。
肩に当たっても、痛みはない。
だが、胸の奥が焼けた。
レインは、何も言わなかった。
言えば、
自分がまだ人だと信じてしまうから。
翼を広げる前に、子どもと目が合った。
怯えた目。
それが、答えだった。
彼は、飛び去った。
空から見下ろす村は、
小さく、弱く、そして――
守りたいと思えないほど、遠かった。
夜。
荒野で、ひとり座る。
焚き火はない。
必要がない。
静かだ。
怖くない。
そのことに、ふと気づいた。
以前は、夜が怖かった。
波の音が、妹の声に聞こえて眠れなかった。
今は、何も聞こえない。
レインは、自分が孤独に慣れたことを理解した。
それは、救いだった。
そして、終わりだった。
「……エリナ」
呼んでも、返事はない。
それでも、胸は痛まなかった。
その事実が、彼を震わせた。
――これでいい。
これで、戦える。
帰る場所など、もうない。
それでも、足は止まらない。
なぜなら、彼は知っている。
災厄の正体も、
翼の真の意味も、
妹が消えた理由も――
すべてが、世界の“循環”に繋がっていることを。
まだ言葉にできないだけで、
彼の魂は、すでにそれを感じていた。
そして、確かなことがひとつある。
この旅は、希望のためではない。
救済のためでもない。
終わらせるための旅だ。
誰かを守るために力を使う青年が、
やがて神を殺す者になるまでの、
長く、静かな地獄の道。
その一歩目を、彼はすでに踏み出していた。
彼は立ち上がる。
また、どこかで空が裂ける。
それに応えるために。
孤独を鎧にした守護者は、
ゆっくりと空へ消えていった。




