第4話
――ライザは、じっと目の前の男を観察していた。
相手は、どこかの王国で騎士長を務めていたという話だった。
それなりに名のある剣士だとも。
しかし、今この場に立っている男がその人物だとは、とても思えない。
平民のような服を着て、武器も持たず、舞台を間違えた素人といった風情。
それでもここは名の知れたカノア闘技場だ。
観客がうっかり迷い込むような場所ではない。
ならば、この男は紛れもなく“対戦者”として、この場に立っているということだ。
――ならば、受けて立つだけだ。
たとえ相手がどれだけ愚かで無謀に見えようとも。
ライザはこれまでも、女だからと侮って挑んできた者たちを幾度となく退けてきた。
名声を得てなお、「たかが女」と見くびる者は後を絶たなかったから。
だが、彼らは皆、無残に叩き伏せられ、ライザを甘く見たことを悔いながら、静かに表舞台から消えていった。
それでもさすがに武器も持たず挑んでくる馬鹿は、今まで一人もいなかった。
開始の合図が鳴り響く。
ライザは初手から全力だった。
――豪速の一閃。
ライザの剣は、常人では目で追うこともできない。
肉体の動きから先読みできたとしても、対処のしようがない速さだ。
熟練の剣士であれば受け止められるかもしれないが、凡人がどれほど努力を積み重ねようと、初見でかわすなど不可能な代物だった。
だが――その一撃を、男はすり抜けた。
それは避けたというよりも、風に舞う紙のように、自然と刃の流れを受け流したような動きだった。
意図も力も感じられず、ただ、そこにいた存在が、いつの間にか“いなかった”。
ライザは驚いたが、即座に体勢を立て直し、二撃目を放つ。
魔石を組み込んだ特製の剣が、唸りを上げる。
魔導機構により増した斬撃の鋭さ、ライザの剛腕が加わったその一撃は、幾多の戦士を一太刀で屠ってきた。
それが当たる直前――またも男の姿が蜃気楼のようにかき消えた。
次の瞬間、踏み込んだライザの左側に、いつの間にか男が立っている。
「なっ……!」
さすがに動揺を隠せず、ライザはバックステップで距離を取った。
観客席は水を打ったように静まり返る。
誰もが、目の前で起きた現象を理解できずにいた。
中でも一番困惑していたのは――他でもない、ディラン本人だ。
初撃を見た瞬間、ディランは悟った。「あ、死んだな」と。
だが、死は訪れなかった。
目の前を斬撃がかすめるどころか、まるで空気のようにすり抜けた。
体がふわりと浮いたような奇妙な感覚のあと、気がつけば剣は空を斬り、ライザの姿が少し離れた位置に見えた。
二撃目も同様だった。
恐怖が凝縮されたような一閃。
空気すら切り裂く剣に、ディランは確実に終わりを覚悟した。
だが――気づけばまたしても、彼は別の場所に立っていた。ライザのすぐ横に。
訳が分からない。自分の体が勝手に動いたような気さえする。
足元がふらつき、まるで馬車酔いのような不快感が湧き上がった。
目の前のライザは、さきほどまでの軽やかな表情を消し去り、獣のような目でこちらを見ている。
もはや戯れや余裕はない。真剣な殺意を、その瞳に宿していた。
✲ ✲ ✲ ✲ ✲ ✲
――9つあるうちの9番目。それは、帝国時代以前に発掘された古代の遺物を指す。
何らかの理由で滅びた、古代超魔導文明。
その名残が“アーク”と呼ばれる、原理の解明されない謎の力を秘めた魔装具。
それは帝国史の中で次々と権力者の手に渡り、帝国の崩壊後、歴史の影に消えた。
今では、実在したことすら定かではない。
だが、アークは確実に存在する。
大陸各地に散逸していたそれらは、徐々に、歴史の表舞台へと引きずり出されていた。
そのひとつ。
9番目のアークこそが、今まさにディランの左腕に装着されている腕輪である。
このアークが宿す力は、“エンリルの加護衣”と呼ばれるもの。
風の神・エンリル──太古の人類が信仰したとされる神格。
その加護を宿すこの魔装具は、装着者に迫るあらゆる攻撃を、自身が風となってすり抜け、無力化する。衣のように纏う風がすべての敵意を受け流し、その身に一切の傷を許さない。
そして“加護衣”は、持ち主に危機が迫ったときに自動で発動する仕様となっていた。
たとえ、ディラン自身がライザの動きを視認できなかったとしても──その肉体は風のように舞い、斬撃を避け続ける。
✲ ✲ ✲ ✲ ✲ ✲
ライザは冷静に、次の攻め手を思案していた。
この男が単なる傲慢ゆえに無防備な格好をしているのではないと、先の二手で理解した。
初撃を避ける者は過去にもいたが、二撃目まで無傷でかわす者など、これまで見たことがない。
只者ではない──そう確信したことで、むしろ彼に対する興味が湧いていた。
だが、負けるわけにはいかない。
ライザはこの試合に、とても理不尽な“条件”を自ら課している。
それは、「敗北したならば、妻として勝者に嫁ぐ」という、傍から見れば馬鹿げた誓い。
そして美しい容姿を備えたライザだからこそ成立する誓いだ。
自分でも狂気じみていると理解している。
もし人格破綻者にでも負けてしまえば、後の人生などたやすく地獄に変わるだろう。
それでも、この場に立ち続けるためには必要な誓いだった。
「女」である自分が、真剣勝負の場で対戦相手を得るために──強者を装った凡夫たちに“戦う理由”を与えるために、撒いた餌。
すべては、戦いという刹那の時のために。
命を懸け、血を流し、泥にまみれる。そんな戦いのなかにだけ、自分の存在意義を見出せるのだ。
戦場だけが、心を熱くし、研ぎ澄まし、生きている実感をくれる。
父には何度も止められたが──こればかりはやめられない。
ライザは風の魔法を剣にまとわせ、必殺の一撃を放つ準備を始めた。
魔石に魔力を注ぎ込む。剣先を中心に、渦巻く風が舞う。
“風を穿つ雨”。
剣技と魔法の融合によって編み出された、師より授かった最強の技。
全方位から無数の風刃が襲いかかり、回避は不可能とされる。
どれほど手強い対戦者であっても、例外なくこの技で倒れてきた。
だが──
その嵐のような斬撃のすべてを、ディランは回避した。
厳密には、ディランの意志ではない。
“エンリルの加護衣”が、すべての斬撃を自動的に躱してしまった。
ディランにとって、それは極めて不快な体験だった。
勝手に体が動き、次から次へと不可解なステップで斬撃を避け続ける。
初めて馬に乗ったときのような強烈な酔いが、彼の平衡感覚を揺らしていく。
やがて斬撃の雨が止んだとき──
ディランは、ライザの目と鼻の先に立っていた。
「っ……!?」
驚愕したライザが体勢を整える間もなく、ディランが彼女の肩を押し、地面に倒れさせる。
体制を整える前だったライザは、そのまま背中から倒れ込み、あっさりと地に伏した。
――そしてディランは……
(オエッ……き、気持ち悪っ……)
心からそう思っていた。
あまりに理不尽な動きに翻弄されたことで、完全に三半規管がやられていたのだ。
その場にへたり込み、偶然にもライザの上に覆いかぶさるような格好となった。
「……そろそろ、いいかな」
ディランが苦悶を抑え、低く問いかける。
みんな僕を人違いしてる、だから、そろそろここを出たい。そう訴えたつもりだった。
けれど、これ以上言葉を続けると胃の内容物がこぼれ出そうだ。
だから、ライザはその短い言葉の続きを、脳内で勝手に補完する。
そろそろ、いいかな──君の剣が通じないことは分かったはず。それでも続ける?
その瞬間、ライザは悟った。
武器も防具も、この男にはまさしく必要のないものだと。
「……私の、負けね」
ライザが静かに告げる。
やがて、静まり返っていた観客席が、一転して歓声に包まれる。
「「おおおおおおお!! ライザが負けたぞ!!?」」
「「まさか、誰も勝てなかったライザが……!!」」
悲鳴と歓喜が入り交じるなか、司会者が絶叫する。
「とんでもない番狂わせだぁああーー!!! ……ということは……ついに今日、彼女の誓いが果たされるのか!? ライザ・クラウディアを妻にできる幸運な男、その名は……セバスっっ、グウィナーぁぁあああ!!!」
場内の熱狂など無関係とばかりに、ライザは目を伏せ、静かに言った。
「……ごめんなさい。事情が変わったの。私は、あなたの妻にはなれない」
ディランにも司会者の言葉は聞こえていた。
だが、セバスの遺体をそのままにしてあることが気になり、それどころではなかった。
「対価は支払います。だから……」
「いや、かまわないよ、別に」
ライザは少しだけ驚いたように眉を上げる。
「……でも、私と結婚したくて試合に出たんじゃないの?」
「違うよ」
じゃあなぜ……そう口にしかけたライザに向かってディランは真っ直ぐ答える。
「ライザ・クラウディアを、ひと目見たかっただけさ」
その瞬間、背後の鋼鉄の扉が音を立てて開いた。
ディランはすぐに気づき、立ち上がる。
「じゃあね。会えて良かったよ」
そう言い残し、彼は舞台の袖へと消えていった。
ライザは、その背中をただ呆然と見送る。
胸の内に湧き起こる、これまで感じたことのない不可解な感情に戸惑いながら──
✣ ✤ ✣ ✤ ✣ ✤