5.聖なる殺意
「偽りの聖女、アリーシア! 貴様との婚約は破棄する!」
その声が鳴り響くのと同時に、王子・エルネストはベリンダを守るように抱き寄せた。
彼女の長い睫毛が揺れ、怯えたふりをした顔が、僅かに笑った。
誰もがアリーシアを見下ろしていた。
──偽りの聖女。
──神に見捨てられた娘。
──王家に災いをもたらす異端。
彼らは、聖女を利用しようとした。
──王家は、政治を優位に進めるために。
──神殿は、地位と名声を高めるために。
──民衆は、“神の偶像”を求めるために。
だが、彼らは揃って断罪したのだ。
「アリーシアは偽りの聖女だ」と。
──そのはずだった。
「……ふふ」
笑ったのは、アリーシアだった。
誰にも届かぬような、乾いた声だった。
それは、諦めでも絶望でもない。
彼女は、ただ静かに口を開いた。
「……殺しましょう」
アリーシアの言葉が、広間に響く。
その一言と同時に、空気が震えた。
誰もが言葉を失い、息を飲む。
アリーシアの足元に、風が渦を巻くように集まり、光がきらめく。
天井を突き抜けるような音と共に、聖なる気配が広がった。
天井の聖堂画が揺れ、無数の光が空間に降り注ぐ。
広間に集う貴族たちの体が、重く沈みはじめた
「なっ……!? ……か、身体が……動かない……!」
「これほどの……聖力……ッ、まさか……!」
先ほどまで断罪の言葉を並べていた臣下や神官が、次々と膝をついた。
その中で、アリーシアだけが静かに立って
いる。
まるで、神の代行者のように。
やがて、広間全体に響き渡る声が現れる。
それは、天から降る“神託”だった。
──この者たちは偽りを語った
──この者たちは愛を裏切った
──この者たちは、神の名を利用した
アリーシアの身体を媒介に、神の力が地上に顕現する。
空が割れ、光が降り注ぎ、王城の柱が音を立てて崩れ落ちた。
──この国は、愛を失った
──この国は、信仰を捨てた
──この国は、聖なる者を傷つけた
「これで──神に選ばれた、という証明は済みました。王子、ベリンダ。……覚えておきなさい。これは、神の罰である。そして、私からの祝福よ」
アリーシアの周囲に、淡い光が立ちのぼる。
それは“祝福”ではなく、圧倒的な“拒絶”の意思だった。
宮廷の結界が一瞬にして破れ、ガラスが砕け、悲鳴が上がる。
「これまで、私に聖女を求めていたくせに。偽りだと決めつけ、踏みつけて。……よく笑っていられたわね」
アリーシアは、光を凝縮させるように手を掲げた。
その光がベリンダの方へ向かう。
彼女は叫び声を上げ、顔を覆った。
「やめて……やめて、お姉様!」
だが、アリーシアは止めない。
「あなたが私の“妹”?そんな言葉、二度と口にしないで」
光が弾けた。
ベリンダが密かにアリーシアを貶める言葉を吐き捨てる、真実の記憶が彼女の周囲に映像のように現れる。
ベリンダの顔から“仮面”が剥がれ、人々の前に暴かれていく。
周囲の空気が凍る。
「……あれが、本性……?」
「慈悲深い乙女、だと思っていたのに……」
「王子は、こんな女と……?」
ざわめきが起きる。
人々の目が一気に変わった。
ベリンダは膝をつき、泣き崩れる。
貴族たちは冷たい視線を投げ、神官たちは必死に祈りの手を結ぶ。
王子もまた、額に汗を浮かべながらぎりぎりと歯を食いしばる。
そして、声にならない声でアリーシアに慈悲を乞う。
「赦してくれ! 間違いだった、アリーシア! 君が本物の聖女だと……!」
「もう遅いわ」
アリーシアの掌に生まれた光が、天を貫く。
それは“裁きの光”──終焉の始まりだった。
神の声が、再び告げる。
──この国に、祝福はもう届かない
──この国は、見放された
その言葉と同時に、広間の床に亀裂が走り、王都の空が黒く染まった。
城の尖塔が崩れ、神殿の聖火が消え、遠くの街から悲鳴が聞こえてくる。
王国が、音を立てて壊れていく。
神に見放された証として。
けれど、アリーシアの表情に、怒りも哀しみもなかった。
広間の扉が、風によって開かれる。
そこには、静かに広がる青い空と、崩壊してゆく街並み。
燃え上がる塔、逃げ惑う人々、瓦礫の山。
それらを背に、アリーシアは一歩、歩き出す。
「私を愛してくれる誰かなど、もうこの世界にはいないと知っていました」
だからもう、赦さない。
だからもう、殺す。
「それでも私が聖女ならば──」
彼女は、誰にも聞こえぬ声で祈った。
「──私が私を愛すわ」
その声は、誰に向けられたものでもなかった。
それは、もう誰かに縋ることをやめた者の声。
かつて、「シア」と呼ばれていた頃。父の大きな手。母の優しい笑顔。薪がパチパチと爆ぜる音。あたたかい食卓。
ほんの少しだけ、幸せだった頃の記憶。
神に最も近い存在でありながら、愛されなかった少女は世界へと旅立ってゆく。
彼女のひとかけらの希望を胸に。
これは、彼女自身の意志で歩き出した、最初の一歩。
「神よ。……私はあなたを赦さない」
──殺意の聖女が、旅に出た。