2.神に選ばれし孤児
アリーシアが神の声を聞いたのは、すべてを失ったあの日から、三年が経った頃だった。
アリーシアが生まれたのは、王都から南に数日離れた寂れた農村だった。地図にも載らないほどの小さな集落で、畑と水車と、空ばかりが広がる世界。
彼女は、温かな家庭に育てられていた。母の焼くパンの匂い、父の大きな手。夜には囲炉裏を囲み、星を眺め、明日も同じ日が来ると信じていた。
──だが、ある年の冬、すべてが変わる。
流行病――肺を蝕む黒い病が村を襲った。
その病はあっという間に村人数十人の命を奪った。その中に、彼女の両親もいた。わずか五歳のアリーシアは、気づけば一人になっていた。
小さな村では、死は特別なものではなかった。
とはいえ、子供にはあまりに過酷な現実。
他の孤児たちは、泣き叫び、震えていた。しかし、アリーシアは泣かなかった。
アリーシアの涙を拭ってくれる者も、手を握ってくれる者もいなかったからだ。
「泣いたら……もっと寂しい」
その瞳は、静かだった。大人びていた。まるで、諦めを知っている者のように。
村の長が用意した小屋で、孤児たちは共同生活を始めた。アリーシアは黙って薪を運び、水を汲み、誰よりも早く働いた。笑わず、怒らず、頼らず。
「……あの子、少し気味が悪いわね」
「泣きもせず、言われたことだけをして……まるで心がないみたい」
そんな声が、彼女の耳には届いていた。けれど、アリーシアは何も言わなかった。心を閉ざすことは、痛みから自分を守る唯一の手段だったからだ。
生きるために働いた。
感情を殺し、言葉を減らし、ただ生きていた。
与えられた仕事を黙々とこなし、誰よりも早く目を覚まし、誰よりも遅く眠った。
褒められることも、叱られることもなかった。
──まるで、存在していないかのように……。
やがて八歳になった年、村に王都から使者が来た。魔力適性検査の巡回だった。
王国中の子供たちに対して魔力適性検査が行われた。
使者の神官が小屋を訪れ、簡素な水晶の球を前にして、次々に子供たちの手を置かせていく。
そして、アリーシアの番が来た。
検査のために水晶に触れた瞬間、まばゆい金色の光が小屋を満たした。
「こ、これは……っ!?」
神官が息を呑んだ。
「聖者……!いや、この濃度は……“聖女級”だ!」
その場にいた誰もが凍りついた。聖女とは、神に最も近しい者。神の愛し子。近年では、ある程度の聖力を持つ者──聖者の出現すら稀で、聖女は伝承の中の存在となりかけていた。
「おめでとう。君は今日から聖女だ」
「……はい」
アリーシアは呆然とした表情でただ頷くと、そのまま馬車に乗せられ、神殿へと連れていかれた。
神官に手を引かれ、村を離れるとき、誰も彼女を見送らなかった。
──神殿は白く、静かで、美しかった。
壁には天使の絵が描かれ、天窓から日差しが差し込み、明るく照らしていた。
「今日からは、ここがあなたの家です」
そう言われたとき、アリーシアは小さく頷いた。
けれど、その“家”には、彼女の居場所はなかった。
神殿での生活は厳格だった。
しかし、アリーシアは文句一つ言わなかった。
文字の読み書きから始まり、祈りの作法、マナー、歴代聖女の伝記、国の歴史、魔法理論、語学──。
アリーシアは与えられたすべてを一つずつ黙々と覚えていった。
褒められたいとか、認められたいと思ったことはない。
ただ、「役に立つならそれでいい」と思っていた。
その異常なほどの順応力に、最初は皆、賞賛した。しかし、徐々に神官たちは口を揃えて囁くようになった。
「まるで作られた人形のようだ」
だが、アリーシアにとっては、それが唯一の“生きる”手段だった。誰にも迷惑をかけず、ただ従う。それが、居場所を保つための最良の道だった。
──そんなある日、古びた聖典庫で埃をかぶった一冊の手帳を見つけた。
「前任の聖女の……?」
前聖女と呼ばれていた者が、密かに書き記したものだった。
興味を惹かれて開いてみると、そこには美しい言葉や奇跡の記録はなかった。
《笑顔でいるのがつらい。誰も私を見てくれない。》
《聖女って、なんなの? 神に選ばれたからって、すべてを許さなくちゃいけないの?》
《私が泣くことすら、神の御心なの?》
それは、前の聖女が綴った、苦しみの吐露だった。
何ページも、何十ページも、苦悩と孤独と怒りが詰まっていた。
アリーシアはその文字を指でなぞった。
紙の上に吐露される前聖女の想いに、胸をふるわせる。
自分は間違っていない。
愛されたくて願ったことも、誰かに寄り添いたいと思ったことも。
決して、弱さじゃない。
アリーシアは静かに本を閉じた。
その日から、彼女の祈りは変わった。神に従うのではなく、神に問うようになった。
『なぜ、私を選んだの?』
『私は、誰に愛されるの?』
アリーシアは毎晩、誰に見られるわけでもないのに祈りを捧げるようになった。
「誰か……。どうか、私を愛してください」
彼女の目から一筋の涙が流れ落ちた。
神殿の光の中で、アリーシアはひとりきり。
返事はなかった。
その祈りはどこにも届かないように思えた。
けれど、空の彼方では、確かに誰かが応えていた。
──聖女は、すでに選ばれている。