希望を砕かれた瀬原琴音に訪れたのは慰めではなく、天誅を下せという激励だった。
女優をめざす瀬原琴音に待ち望でいたオーディションの話が舞いこむ。今度こそと胸弾ませ当日に臨むが、実はこれは応募者数を宣伝に使う狙いのインチキオーディションだった。すでに配役は夢里きららに決まっていると知り、激しい憤りと絶望に苛まされる琴音の前に、ある日、堀切真彦という不思議な男性が現れる。社会は常に不公平だ。頼りにならない運に左右される前に自分で奪い取り、不正に見を委ねる人間に神に代わって天誅をくだせと鼓舞される。
第 一 章 瀬原 琴音
すべてはマネージャー隈川のメールから始まった。
― 実は大河ドラマのオーディションが近々あるらしい。準主役とでもいっていい役だ。チャンスだよ。
洗面をすませ、最初にみたメールだった。送信時間は昨夜の十二時。お酒でものみかわしていて不意に耳にしたのだろうか。浮き立つ気持ちにブレーキがかかる。すでに何回かオーディションと銘打つものに挑戦し空振りに終わっている。でも今回はちょっと違う。勘が囁いて落ち着かない。午後になって隈川に電話を入れた。隈川はいつものように上機嫌の口ぶりだ。内容を尋ねると、
再来年に放映される予定の大河ドラマだった。タイトルは「暁の空の下に」。役は戦国時代の武将の奥方に仕えた女中なのだが、準主役といえる重要な役どころだった。恋人を自害に追い込まれて以降、不正に立ち向かい、敵を討つことに執念を燃やす女性だ。
末尾に隈川からコメントが添えられていた。従順な女から、女性闘士に変身していくあたりはやりがいがあるよきっと。
数年たった今でも、思い出すと一瞬、心がぽっと熱くなる。するときまってオーディション当日が続く。テレビ局の会議室が会場だった。差し向かいにある控室と書かれた部屋のドアをそっとあけると、ブーンと人いきれが鼻をついた。香水やらシャンプーのまじりあった匂い。会場は女一色に染められ、すでに数十人の応募者が集まった光景はちょっとしたハーレムだった。
実にカラフルな、そしてさまざまな顔があった。
ハーフっぽいぱっちり眼の美人、時代劇向きの純和風の顔もある。後はメイク次第でいかようにも変身する面々だ。案内状には日時が指定してあるから、おそらく何回かに分けて面接が行われるのだろう。スチール製の椅子に座り、じっと膝頭とにらめっこしている子、黙々と台本を読み続ける子。その一方。誰かと待ち合わせでもしているかのように、窓の外を眺めている子もいる。その中からキャラクターのイメージに近い顔を捜してみる。一見優しさが漂う一方、鬼にもなりうる二面性を備えた顔。どれもピンとこない。それから審査員の面々。プロデューサー、監督、演出家、脚本家。彼らにどうアピールするかについては、隈川からアドバイスを受けていた。
くれぐれもと念押しされたのは、挑発に乗って議論を吹っ掛けないこと。「よく知っているね」といわれたらOUTだと思え。まだまだ浪花節の世界なんだからと。そしてオーディションを終えると、すべてうまくいったと確信した。審査員の受けもよく、両親の質問に答えた時は笑いすら起こった。
会場を後にした時は、ああこれで終わりと思った。心にもないお世辞をばらまく必要も、屈辱感に我慢する必要もない。自由と権利をようやく手に入れた。そんな気分だった。
カツカツの給料で受けてきた高額のダンスレッスンも、スケベなボイストレーナー指導にも耐えてきたのも、スターデビューというサクセスストーリーを信じたからだ。それが叶おうとしていた幸福の瞬間だった。それが仕組まれた白昼夢だったと知らされた直後、ダストシュートに投げ込まれたゴミになったのだ。
オーディションから二カ月後、マネージャーの隈川俊二から結果を知らせるメールが届いた。
― 残念だけれど、大河ドラマのオーディション、夢里きららに決まったよ。というか、どうもすでに決まっていたようだ。こういうこともあると割り切ってさ。あまりがっかりしないように。審査員の感触がよかったとしたら、またチャンスもあるから、落ち込むんじやないよ。
読んだ瞬間、勘違いじゃないと電話を入れると、隈川は気の毒そうに、すでに役は決まっていて、オーディションは話題性のためだったと告げられた。その瞬間、クラッときて椅子につかまった。
夢里きらら。お菓子のコマーシャルデビューを果たしたタレントだ。年齢は二十一歳。
大きな目とあどけなさが、メルヘンティックな妖精といった雰囲気を醸し出している。どうやら所属プロダクションが目当ての新人を売り込むために開催したらしい。つまり 応募者数が多いほど、射止めたきららに箔がつくというわけだ
つまり自分も利用された。ペテンにひっかかった被害者者というわけだ。行き場を失った怒りが体中を駆けずり回っている。訴えてやろう。すると囁いた。そんな真似したら芸能界追放だよ。それでもいいの。
この日を境に、信号が黄色の点滅を続けている。 俳優を目指して五年。いっそやめてしまおう。といさましくおもってみても、変わってやりたいこともない。たぶん、セミの抜け殻のようになるのがおちだ。それでは心機一転したとして、何が起こるのだろう。ずっと期待に騙され続けてきたのだから。
そのせいか最近、工事中の眼が廻るほどの超高層ビルを歩いて渡らなくてはならない夢をよくみるようになった。それにつれ、昼間は睡魔よけに飲む缶コーヒーの数が増えた。そうした日々の中、何より辛いのは、やめたいと思っていた職場のガールズバーに再び戻らなくてはならない。おまけに調子にのって購入したガーネットのネックレス代の支払いも重くのしかかる。
シンプルな黒のワンピースにシニオンを結った初老の品の良い販売員だった。
― おかけになっているチェーンに通していただければ、きっと引き立ちますよ。和名では「ザクロ石」とよばれていて、生命力と勝利を与えるんです。きっとパワーを発揮してあなたの願いをかなえてくれますよ。
セールストークと分かっていながら二十万円。自分へのご褒美よ。ふっと初顔合わせの日、紺のアンサンブルのボレロスーツにガーネットのペンダントをした自分の姿が浮かんだ。
変化は琴音だけを襲っただけではなかった。
辞めると決めていた勤務先の歌舞伎町のガールズバーも同様、ロッカールームで着替えて出たところを店長に声をかけられた。
「琴ちゃんも大変だよな。倉吉さんがいなくなっちゃってさ。それでこれからどうする気。のっぽが手持ち無沙汰というのは、みっともいいもんじゃないからね」
プレスでおしつぶされた顔が、何より経営を優先させると語っている。辛辣さも無視できたのは、勤務日数が融通がきくうえ、収入もまあまあだったからだ。
この嫌味の先には、数日前に貼られた掲示板があった。
いつものように出勤したところ、人だかりができ、みると壁に白い貼り紙をみつめている。
「これって改革というより、あぶり出しじゃん。きにいらなかったらとっととやめてくれ。そう言ってるよね」
こう金髪のマリリンと呼ばれる女の子が切りだすと、赤毛のアンがそれを受けた。
「仕方ないよ。ITバブルもはじけて、CAも、バニーガールも飽きられてるもん」
琴音も頭越しにそれを読んだ。
そこには社会の変化とともに店内をシステムごと変える必要があること。そのために旧来の趣向はとりやめ、VIPの接客に力をいれる。それにつれ大幅に給与体系がかわる。同伴指名料の大幅値上げ。さらに顧客拡大に協力してもらえる人材には報奨金その他手当を検討している。それが不適な人は、女性バーテンターとして採用され、時給制度にて賃金を支払う。これについては、数か月様子をみて会社側で、適切な人材を各部署に配置させてもらう。これに納得できない人は、他店に移っても構わないので安心して、申し出てほしい。
風向きが完全に変わった。琴音は店では古参の部類に入る。他店からのスカウトでいつのまにか姿を消す同僚と比べたら、不名誉な居残り組だった。
気にしないでこれたのは、女優になる夢があったから。でも今は違う。食べる餌もなく雪原に震える狼だ。飢えを受け入れるか、群れに入れてもらうよう懇願するかのどちらかの選択をせまられている。
予想通り、マネージャーからどうするのかと尋ねられて、とっさに同伴にチャレンジしたいと答えた。といってもただの時間稼ぎにすぎない。ひいきにしていた倉吉が去った今、後ろ盾になってくれる客など現れそうにない。もうやめる潮時かもよ。耳元でそうささやいている。乗り換える機会を与えられたと思えばいい。やめさせられたのではない。こちらから辞めてやるのよ。
決意を鈍らせているのはまたしてもガーネットの支払いだ。いっそ願いが成就しなかったからと突き返してやろうか。結局、今月いっぱいと決めた。それと入れ替わるように隈川から、健康食品のCMの仕事が決まったとの連絡があった。
一月前に受けたセリフ有りのオーディションだった。美容サプリのCMで、メインキャストは売れっ子の芸能人だ。肌荒れに悩んでいたところ勧められて、飲んだらとても肌が美しくなったって恋人に褒められて嬉しくなった。是非友人にも勧めたいと語る友人役だ。
スポンサーが何を望んでいるか、狙いを掴むことがコツと隈川から教わっている。
そのために商品を購入して試して感想を言うのが最もリアルで採用される確率も高い。とはいってもいつもうまくいくとは限らない。CMにもオーディションがあって、これまでかぞえきれないほど受けてきた。うまくいけば収入になるけど、ダメな場合には交通費の持ち出しと時間のロスがのしかかる。それでも仕事の話が舞い込めば黙々とこなす。これが契約という名の年季奉公の掟だ。
それでも何時の日にかCMデビューという幸運のスタートを夢みて、幸せそうな微笑みをうかべて撮影終了。口にしたセリフは一言。
― 最近すっごく肌がきれいになったね。何かやってるの?
コマーシャルの収録を終えて数日後、めずらしく母親の佳代子からラインが届いた。
驚かせてやろうと思って、佳代子も父親の祐三にもオーディションについては話していない。いずれにしても関心はないはずだ。高校を卒業後の進路についても、無関心だったし、女優になりたいといえないで、テレビの仕事をしたいと切り出した時も何も言わなかった。口にしたのは、学費をだすのはこれで最後、後で自分でやっていってほしいとだけ。
いじめられた記憶もないかわりに、可愛がられた記憶もない。弟の直樹も同じだ。育児は祖父母に任せられていた。だから、電話をよこしたのにはそれなりの理由があるのだろうと身構えたら、予想した通り見合い話をきりだした。相手は高校時代の一年先輩だった村元慎吾と聞いて、さらに驚いた。
去年、父親から受け継いだ土地が高額で買われ、今では地元でちょっとした話題になっているらしい。それがなぜと話が繋がらないでいたら、
「つい先日、向こうの使者がきてね。彼ね。ずっとあんたが好きだったんだって。そろそろ結婚してもいい年齢だし、へたをすると婚期をのがしかねないから一応話しておいた方がいいと思って…悪い話じゃないでしょ。写真をみてもわりとイケメンだし。勤務先もしっかりしているしね」
それをきいて嫌な予感が走った。
「まさかお金に困っているわけではないよね」
笑い飛ばすか、打ち消してほしかったのに返ってきたのは重い溜息だった。
「正直に話しておいた方がいいとおもうから言ってしまうね。お父さんがFXに手を出して失敗したのよ」
「いくら?」
「二千万よ。これで貯金はゼロよ。これまでなにもなかったから安心してたのに…、まあ二人で働けばなんとかやっていけるけど、どっちかが倒れたらアウトよ。家のローンもまだ残っているし…」
ようやく佳代子のもくろみがわかった。
「それで娘を嫁がせて、実家に援助させるつもりなの」
「変なこと言わないでよ。今回の話は向こうからきたんだから。ただ縁って何時でもあるわけではないから。会ってみるだけでもあってみたらどぅお。お金の苦労はできたらしない方がいいにきまっているもんね。お父さんがもう少し高給だったら、琴音にも、いろんなお稽古事を習わせてあげられたのにって悔やんでいるのよ。連絡先教えておくから、電話かけてみたら」
そういわれてかけたのは弟の直樹だった。
今は競艇の選手だ。高校を卒業後、バイト生活を続けていたのを心配して連絡したら、ボートレーサーの養成所の試験に合格して、寮生活を送っていると聞いて驚いた。一年後、研修を終え、国家試験に無事に合格して成人と同時にレーサーになっている。そんな彼に、琴音は先を越されたようなかすかな焦りを覚えていた。
「大型ショッピングセンターができるらしいよ。それで土地を売ったんじゃないの。かなりの土地持ちだという噂はきいたことがあるけど。で結婚するつもり…」
そんな気はないと答えると、
「でもさぁ。縁だけは繋がっておけよ。そっちもチケットとか買わされて金かかるんだろ。買って貰えば助かるじゃん」
思いもしない提案に言葉がでない。
「人脈がどこで役に立つかわからないもんな。切るのは何時でも切れるしさぁ。」
「随分、大人っぽくなったじゃん」
「まあね。俺もいろいろあったから。技術も人脈も大事なの学ばせてもらったよ」
直樹が一言発する度に戸惑いが広がった。高校時代は失語症かとおもうほど無口だったのに、今でははるかに自分を超えていたからだ。それでも無理なことをしでかすような気がして、父親の借金については話そうか迷っていたら、
「この前さ。優勝して賞金が入ったからその一部をおふくろに送ったよ。親父がやられたみたいだから。おふくろ話したんだろ…」
無心する佳代子の姿が浮かんで、不意に怒りがこみあげてきた。
「直樹が心配する筋合いじゃないよ。二人ともまだ働らけるし、あの人が招いたタネなんだから、自分の生活をきちんと確立するのが先よ」
電話を切った後も、ボヤがくすぶり続けている。
誰が結婚なんかしてやるものか。見え透いているわ。子供の頃から、成人したら自分でやれと何一つ習い事をさせてもらえなかった。ピアノを習いたいといった時もそうだった。
「友達を真似する必要なんかないよ。学費だってばかにならないんだから…それにどこにおくのよ。そんなもの」
それでもあきらめずに祐三にねだると「おかあさんがいけなというのなら、あきらめるしかないな」といわれた。すべてがそんな調子だったから、両親を動かすには、確実に利益になる事でないとだめなのだと幼いころから教え込まれていた。
高校卒業後の進路を決めるにも、佳代子が気に入る道を選ぶしかなくて、放送関係の仕事につきたいと話してようやく専門学校に入ることができた。
両親に恩を感じる必要なんかないと思いつつ、直樹の忠告には揺れていた。人気稼業である以上、チケット購入者は多ければ多いほどいいに決まっているからだ。常連客がいつまでたっても直樹と知人では覚束ない。
倉吉には一度無心した。気分よく買ってくれたけれど、いつでもいってとはいわなかったし、指名されなくなるのが怖くて、それっきり無心することもなかった。だからそれが原因とも思えなかったけれど、他店に出入りしているのを同僚に目撃されて以降、ピタリと足がとまった。店の方針転換も重なって、倉吉に飽きられたという事実を受け入れることができ、辞職願を出すとすっきりした気分になった。
くさくさした気分だったり、落ち込んでいる時はひたすら歩くことに決めている。
休みの日、神楽坂界隈までいってみようと決めた。空はどんよりしていたが、黄金色の彩りを添えている街路樹の銀杏に誘われてか、足が軽く弾んだ。
丸の内線の赤い車両が過ぎるのを横目で見ながら、大学前の土手をぶらぶらと歩いて飯田橋を通り抜けて神楽坂にやってきた。一度おとずれたことのある甘味処をすぎると、商店街のど真ん中にあって、どこか場違いに見える善國寺がみえてくる。転居した翌年の正月、新宿山の手七福神として参詣したお寺だ。通り過ぎて、坂を下りた交差点でどっちに行こうか迷う。
昔は味わいのある界隈だったらしいけれど、今はマンションが林立してその面影はない。左に折れて進むと再び坂になり、中腹にあるこじんまりとした寺をぬけて、まっすぐ歩き続けると舗装されていない路地が広がり、つきあたりに尖塔を頂いた奇妙な木造の建物が目に留まった。
近づいてみると看板に「堀切新生道場」と書かれた横に見学自由と書かれた紙が貼られてある。好奇心が動いて間口の広い引き戸を開けると、左右の棚には靴が並んである。ヨガでも教えているのだろうかと靴を脱いであがると呼び鈴がおいてある。講義中なのか奥から朗々とした声が響いてくる。そっと中を覗くと「見学ですか」と緑色の作務衣をきた丸刈りの男性に声をかけられ、こちらにどうぞと部屋に通された。
三十畳ほどのフローリングの床の上に丸い座布団がひかれ、十人ほどの男女が間隔を置いて座っている。中央には深緑色の作務衣を着た男性が、ホワイトボードを前に時折何か記号のようなものを書きながら説明をしている。
年齢は三十代だろうか、ゆで卵のようなツルリとした肌をした草食系男子だ。その横にアシスタントらしき作務衣をきた女性が立っている。講堂から漏れてくる言葉に耳を傾けると、精神が解放されればおのずと身体の調子もよくなる。心身の健康はより良く生きるために欠かせない要素だ。気が充実すれば何物にも怖れを感じなくなるといった。
それから瞑想が始まった。琴音も座禅を組んだ。堂内に静寂が広がった。目をつぶると早くも雑念が浮かんだところで、後ろから声をかけられた。講師だった。
「お急ぎじゃなかったら、ご説明しましょうか。あなたは今、納得いかない事柄にまきこまれて苦しんでいらっしゃるのでしょ。良かったらご一緒にその解決方法をみつけましょう。喜んで力になりますよ」
男の口から息が吐き出されるたびに、レモンのような柑橘系の香りが漂った。語気も穏やかで、落ち着いた学究肌タイプの雰囲気が漂っている。いつしか警戒心も溶けて、自然の風に運ばれるように案内された部屋に入った。
そこは応接室とみられる二十畳ほどの何の装飾もない白いクロス貼りの殺風景な部屋だった。焚き染められた香が鼻をくすぐった。
「よくいらしてくださいました。きっとここにきたのは単なる偶然だとおもわれているんでしょ。でも僕はあなたが今日見えることがわかっていましたよ。今、とても苦しんでいますね。努力し続けてきたことが砕けてしまって、誰も信じられずにいる」
愕然としている琴絵を涼し気な視線でみつめ、男は堀切真彦と名乗った。
「そんなに驚かないで。あなたをみつめればわかるんですよ。幼い時はみえすぎて嫌だったんですけど、ある日、それは必要としている人を助けるためだと悟ってから、嫌でなくなりました。偶然じゃありません。あなたは必要に駆られてここを訪れたんです。だからもう自分を痛めつけるのはやめにしましょう。ここは生きるのに疲れて先が見えなくなった人。不当に扱われて苦しんでいる人たちの救済の場所なんですよ。苦悩を開放され、再生していくためのメソッドを学んでいくんです」
「メソッドって、ここはカルチャーセンターなんですか」
「まあ、そうとも言えますけど、決定的に違うのは報酬をいただいていない点でしょう。ヨガには関心がありますか。あれは体内の毒気を抜くために欠かせません」
「たしかチャクラとかいうんですよね」
「おや、スピリチュアルにも関心があるんですね」
「ええ、少しですけど…」
「それじゃ、自分が何の使命を帯びて生まれてきたか。考えたことは…」
そう質問されて、琴音は黙って見返した。
「説教しているんじゃありませんよ。実は自分を苦しめている正体がわからないまま、苦しんでいる人が多いんです。あなたもその一人のようにみうけられたものですから」
不思議だった。冬の海をみているようだった。トゲトゲした気持ちが薄れ、呼吸が深くなっていく。
「でも苦しみを毛嫌いしちゃいけませんよ。魂の成長に欠かせない要素ですからね。あなたは負け犬なんかではありません。夢を叶えるために通過しなくてはならない過程の途中を歩いているのですから。もしよかったら話してみませんか。あなたを苦しめている体験を。ひどい裏切りにあっているでしょ」
気がつくと、あの忌々しいオーディションとその後の裏切り行為を語っていた。デビューを夢見て、四年あまり努力し、つらい体験や屈辱的な扱いにも耐えてきたこと。それがすべて無駄だったよといわれたようで、自分のすべてを否定されたように落ち込んでいると。
「ほんとにつらい体験だ。僕も腹が立ちますよ。権力をかさにして、弱者を踏み台にして平然としている。人の痛みがわからなくてドラマがつくれるのかって、怒りがこみあげてきますよ。実に傲慢だ。であなたの役を奪ったのは誰ですか」
奪ったという言葉に琴音は一瞬たじろいたが、その強い視線に促された。
「ああ、最近売り出した女優ですね。つまりオーディションの目的は、新人発掘ではなく、すでに決定済の主役に箔をつけ、話題性を狙うためだった。懸命にやってきた人間を騙すなんて僕も怒りを覚えますよ。瀬原さんが怒るのは当然だ」
ふいに胸のあたりが熱くなって、まるで泣くことを許されたかのように、嗚咽が迸りでた。この人だったらわかってくれる。これまでの出来事が堰を切って流れ出た。
「いろいろと下積みの苦労をしてきたんですね。世間ではあきらめるな、我慢しろというけど、状況がわからないままそんな風に言うのは無責任ですよ。誰だって後二十年待てといわれて待てますか。何事にも旬といわれる時期があるのに。タイムリーであることは成功への必須条件なんですよ。デビューすべき時期に世に認められなければ、待ち受けるのは端役や脇役しかない。あなたが生きる芸能界は、一握りのスターとともに、希望をかなえられなかったその他大勢組によって支えられている。プロダクションが存続していくためには、勝組も負け組もともに必要なんです。ただそれを実践する俳優たちはお金も若さも気力も奪われていく。あなたは今、CMの仕事もいつまで続けられるか不安を感じている。疑惑や予感はあたるものです。経験から学んだ感性がおしえてくれているんでしょうね」
周囲の音がすべて消え、静寂の中に二人はいた。
「僕は特殊な霊感を持ちますが、この道場はそれを口実にして会員をつのる宗教法人ではありません。幸福も危険を察知するのも自分です。あなたにとって、今必要なのは自信を取り戻すことです。挫折を克服して自分を苦痛から解放しなくてはいけません」
肉体にへばりついていた背中のコリがすっかりなくなって、冷え切った胸のあたりが、ぽっと温かくなったようだった。ここに自分をほんとに理解してくれる人がいる。
迷う人を救うためにこの道場は作られた。おとぎ話でもなく、現実でもない世界に琴音は佇んでいる。磁器のようなきめ細かな肌。涼し気な目。世俗を超えた不思議さを放つこの人物は、もしかしたら地球とは別の異界からきたのかもしれない。
「半信半疑でしょ。この道場について簡単に説明しましょうね。時間は大丈夫ですか」
思わず琴音は頷いてしまった。
「まず設立者は僕です。叔父の遺産を受け継いでこの事業を起こそうと考えました。世間には、実に多くの人が幸福を求めているにもかかわらず、幸福から程遠く生きている人が沢山います。その大半は自分の能力が何に向いているのかわからないまま生きている。そのため挫折感に苦しむ人がとても多い。あくまで精神的な充足感を手に入れなければ幸福にはなれません。多くの人は生活に流され、物質的な満足を充足感と勘違いしています。利潤追求がなければ人は心の声に耳をかたむけることができるのです。ここでは生存競争に脅かされない世界を構築しています。運営はあくまで僕の資産で、寄付の強制もしていません。自給自足の生活を通じて、自分に向き合い、何が自分にとって必要か。また重要か。その答えを実践を通して探し出し、幸福への道を模索しているんです」
話終えるのを待っていたかのようにケータイが鳴り、堀切が失礼というと立ち上がった。廊下にでると、なにやら打ち合わせらしき話をし始めた。どうやら支部からのようだった。予定されているらしきイベントについてらしい。ドアがノックされ、作務衣姿の女性が、淡いピンク色のジュースを差し出した。
「これ、グァバジュースです。血液を浄化してくれます」
ペコリと頭を下げ立ち去ると、入れ替わるように戻ってきた堀切は、思い出すように人差し指をこめかみにあてると、
「間違わないでください。ここは宗教法人ではありません。寄進を強要することなく、自主運営で成り立っています。僕には霊感が備わっていますが、神の導きで運勢が向上したり、怒りを買うと罰せられるといった理論を振り回すつもりはありません。納得できる人生をすごすための判断、選択ができる自分づくりを目指しています。運を引き寄せたり、遠ざけたりするのはあくまで自分の言動ですよ。ただそれには正しい選択が必要です。それを自ら見出すメソッドを学び、幸福に至る道を模索しているんです。平和は共存共栄にあって初めて成立しますが、その前に人間一人一人が幸せである必要があります」
堀切は話そうか迷っているようにいいよどんだ。
「実は、よく怪我をする女性会員がいるんです。よそではこうした現象を憑依霊の仕業とみなす向きがありますが、そうではありません。すべて自分に原因があるんです。彼女は失敗続きの自分を怪我することで罰していたんです。許すことができなくて、自傷行為を繰り返していたわけです。ですから自分を許すように指導しました。すると見違えるように元気になり、目の下の黒くまもすっかり消えて元気になったんです。もちろんそれ以降怪我もしなくなりました。不幸が続く人は、同じことを繰り返して不幸を手放せない傾向があるんです。たぶんあなたも思い当たるはずです」
それから何かを思い出すように、遠くをみつめ大きく息を吐きだした。
「僕にも同じような体験があるんですよ。突然、不本意にも突然道を絶たれてしまったんです。それでしばらくあちこち放浪していました。五年前の話ですけど」
堀切は、生きる目的が見えなくなったとつづけた。そして悶々とした生活をしばらく送った後、突然閃いたそうだ。
「いいですか。僕と話したからといって解決したわけではありませんからね。少し軽くなったからといっても油断禁物ですよ。根本的な解決をしない限り、すぐにまたぶり返します。ただし深刻になってはいません。絶望の果てに行き着くのは死しかありませんから。いいですね。僕はいつでも瀬原さんの力になろうとしていること忘れないでください」
帰り道、いつものかったるさも重さもなく信じられないほど軽やかだった。そんな気分に誘われて最近オープンした書店に立ち寄った。
自動ドアが開いてまっさきに目に飛び込んできたのはカラフルなカバーで彩られた特設コーナーだった。人気タレントの特集を集めたラックの中に、語りかけるような大きな眼でじっとみつめる夢里きららがいた。パラパラとめくってみると対談の中に、女中役を射止めた彼女の意気込みと役への情熱が語られている。
ーとにかく夢中で頑張っています。なにもかも新鮮なんですけど、二面性のある役は初めてなんでワクワクしています。まわりがベテランの俳優さんばかりなので、毎日いろいろと教えていただいてほんとに助かっています。
ー 以前、演出家の野々宮五郎氏の芝居にでていますよね。聾唖者の少女役で。
ー (笑って) あの時は台詞がなかったので楽だった半面、表情で表現しなくてはならないので、いろいろと叱られました。
ー それが今回は役に立ったんじゃないですか。演出家の望むところがわかって。
ー ええ、たしかにいえますね。以前には指摘を受けてもわからないことが多くて戸惑ったんですけど、今はだいぶ減りました。
治りかけていた傷がパクッと口を開けた。
何というぶりっ子なんだろう。インチキオーディションについては知っているだろうに。人を騙して、制裁を受けるどころか、大役を得るなんてどう考えてもおかしいではないか。しかも演技力ゼロなのに。怒りがドクドクと波打っている。
それでも最後に、近々記者クラブで会見を開くという情報を掴んだのは幸いだった。新作ドラマのプロモーションらしく、主演の男優と監督とプロデューサーの三人が会見に臨む。
直接会場に押しかけたいけれど、記者ではないし、それに顔を知られている。なんとかしなくてはと考えるうちに堀切がポッと浮かんだ。ダメもとで当たってみようと決めて、電話をかけたが、あいにくの留守。あきらめかけていたら九時近くに電話がかかった。思いのたけをぶつけ、応募者をだました演出家に一矢を報いたい。なんとかならないだろうかと切り出すと、堀切はすぐに了解し、やってみようと快諾してくれた。
あまりにあっさりすぎて、かえって不安を覚えたほどだった。すると笑って、
「琴音さんの気持ちはよく理解していますよ。僕もこの件には腹が立っていますからね。都合の悪いことは伏せて平然としている。これはあきらかに詐欺的行為で許されるべきではありませんよ。琴音さんはじめ応募者はたしかに、謝罪もない当事者に制裁を加える権利があります。どうするか検討して見ましょう」
数日後、堀切から廃刊となった雑誌の元記者が、引き受けてくれたと連絡が入った。記者会見の模様はライブ動画で配信されるそうだ。そしてその日を迎えた。琴音は朝から落ちつかない。
三人が順繰りに、ドラマにもりこんだ思いと腐心した体験を語り始め、出演した俳優たちとのエピソードを披露して、会場は、時折爆笑に包まれた。その後、マスコミ各社からの質疑応答があった。どれも視聴者の好奇心や関心を意識しての内容ばかりだ。それが琴音にはなんとも耳障りだった。どうせ集まった記者は事前に質問する内容を知らせ、参加の資格を得ているのだろう。記者会見は格好の宣伝というわけだ。それにしても、まもなく終了だというのにそれらしき発言もない。期待が失望に変わり始めたその時だった。
三十代と思われる雑誌記者が挙手し立ち上がった。
「イエローマジック社の室田と申します。読者に本物の芸能ニュースを届けたいので、是非、事実を確認させていただきたいのです」
三人のうち一人は頷き、一人は怪訝そうな表情を浮かべ、一人はほほえんでみせた。
「演出家の野々宮さんは、ノーブルプロダクションととても親密な関係だと聞いています。『花咲け戦国物語』のオーディションでは、すでに所属タレントの夢里きららに決定していたという噂が流れていますが真実でしょうか。今回も同じようにオーディションは単なる話題作りと考えていいのでしょうか」
一瞬、シーンとなった直後、会場がざわつき始めた。司会者は何が起きたのかわからない様子で、演壇の三人にチラッと視線を送った直後、後ろに控えていた関係者が司会者に近寄り耳打ちした。
「ただ今の発言の答えは控えさせていただきます」
我に返ったかのように難い口調で司会者は述べると、別のスタッフが発言した記者に駆け寄り、退場を促すような仕草をしてみせた。その光景を琴音は息をつめて見つめる。
「野々宮さん、真相を聞かせてください。バーターでやむ終えずだったんですか」
吠えるように続けた記者にさらに二人が近づき、押しだすように会場の外まで連れだした。それを見届けたかのように司会者は慌ただしく記者会見の終わりを告げ、野々宮はじめ他の二名も無言で席を立った。まさに逃げ出したとしかみえないこの顛末に、会場は異様な雰囲気に包まれた。
それから数時間後には、早くもネットのニュースにこの一連の出来事が躍り出た。
「オーディションはなんのため?」というタイトルで、
―本来、キャスティングはすべてオーディションで決定すべきだが、莫大な時間と会場の確保、また予算がかかるため、現在では施行は限られている。それに伴い目的自体も、有望な新人発掘から離れ、応募者数に力を借りたドラマの話題性、無名新人を売り出す目的として変貌しているのが現状であり、演出家の野々宮五郎氏も、その点を考慮しての決断だったのではないかとまとめている。
記事はバーター制度自体にはふれず、トーンに非難もなく淡々と客観的に述べられているが、暗に記者の発言が痛い所を突いたという印象を与えるのに十分な内容だった。
琴音は何回も読み返した。そのたびにしびれるような快感が足元から上ってきた。
ようやく鉄鎚が下された。一見、暴挙に出たとみえる記者こそ正義の代弁者だった。これを計画し、実行してくれた堀切に深い感動と感謝を覚えたのだった。
電話に出た堀切は、琴音の感謝に対して当たり前のことをしただけだと答えた。不正に対する怒りを覚えるのは大切であり、まじめに生きる人の夢を打ち砕き、特定の人間だけが利する歪んだ社会を変えていく必要があるといいきった。
「夢里きららも、今回、学んだはずですよ。不正に手に入れた運がいかに危険なものであるかをね。運なんて気まぐれですからね。簡単に入ったものは、すぐに壊れてしまう。本人の実力以外の力で手に入れたらなおさらですよ。せっかくの運に呑み込まれるようでは元も子もない。自らそれをコントロールする力を身につけないと暴走脱線してしまう。あなたも注意しなくてはなりませんよ。それはそうと今、広報活動を担ってくれる事務スタッフを募集中なんですよ。給与はさほどではありませんけど、食事は無料で提供されますよ」
そして一週間後、作務衣を着た琴音がそこにいた。
仕事は広報活動と催物、講演会の案内と会場の確保だった。
堀切は、噂では国立大の文学部を卒業して教授になるつもりだったらしいが、財産家の叔父が亡くなり、莫大な遺産が舞い込んで、この道場を設立したのだそうだ。こう話してくれたのは、事務局の運営・管理を任されている溝口典子だ。
世話好きできどらない性格のおかげで、出会って数日で仲の良い姉と妹のようになった。どうやら独りよがりの父親とそりが合わず、見合いの話が舞い込んだのを機に、郷里の大分から上京して五年。幸いにも捜索願いが出されていないてほっとしているとか。道場を訪れたところ堀切にすべてを見抜かれ、それ以来居心地が良くて、ここで仕事をするようになったらしい。
スタッフとして働いている二人の男性も、同じようにトラブルを抱えて舞いこんできたようで、どうやら一種の救護所になっているらしい。
「ここにくるとこれまであった迷いや苦悩がどうでもよくなってくるのよね。お給料のことはまったく気にならないし、守られているって感じ。でもいつまでももぬくぬくと温泉気分でいるわけにはいかない。自分に課せられた使命を果たす気持ちがなくなったら、出て行かざるを得なくなるわけよ」
「使命ってその人によって違うんですね」
「そうよ」
「それを堀切さんが教えてくれるのですか」
「いいえ、自分でみつけるの。瞑想を繰り返すうちに、なんの使命をあてがわれているかがわかってくるのよ」
「もしわからなかったら…」
「誰でも、そのうちに気づいていくの。コトヤンもよ。答えは自分でみつける。それがここの掟よ。求めればみつけられるものなのよ」
響きがいいし、親しみやすいからと溝口はすぐに琴音をコトヤンと呼ぶようになった。
道場の信条と目的については、出勤初日に渡された冊子に描かれてある。道場の縁起ともよべるもので、成立からオーナーの信条と理念が記載されている。
趣旨を簡単に説明すると常識に疑問をもつこと。世間並みの幸せに惑わされず、悪を憎み、正しく判断する眼を養う。そして道をみつけたら実行すること。
フレーズがストンストンと心にはいりこんでいく。これ以上、なんの疑問を持つ必要があろう。溝口が道場の内部を案内してくれた。矮小の家屋を繋げたといった作りで、迷路のような廊下に沿って小部屋がいくつか、中庭にむかって配置されている。歩くたびにきしる音を聞いていると、迷路のように連なるこの古い家をなぜ購入したのだろうと素朴な疑問が湧いてくる。
その疑問に、溝口はこの家は人生の縮図なのだと答えた。
「人生ってくねくねと曲がっていて、どこに幸運があるのか不幸が待っているのかわからないでしょ。人は迷路を生き抜いていかなくてはならない。その原点を教祖は忘れてはならないと考えているわけよ」
新生道場では堀切は教祖とよばれている。小部屋は自宅から逃げてきた人たちの一時避難所として使われたり、住み込みの事務員の居室になっているらしい。四畳ほどの部屋の壁には換気口のような小さな窓があり、あけると隣家の壁が目の前に広がる。そっと部屋のドアをあけると畳の上に忘れていったらしきガチョウのおもちゃがおかれてあった。
「誰もいないけど、みんな新しい住まいに移ったんですか」
「あら、話してなかった?。みんな山梨の道場に移ったのよ。ここには新規の会員希望者しか受け付けないの。何しろ東京は土地が狭いでしょ。人が集まると不安になるのか、音がうるさいとかなんやかやといってくるのよ」
「そうですか。で山梨県のどこ…」
「八ヶ岳。近くに大きな牧場があるわ。いい所よ。ひろびろとしていて牛が放牧されてるの。朝には烏骨鶏が鳴いていて、その他にも養豚場とかもあるのよ」
「そこで自給自足の生活を送るというわけですね。希望すれば誰でも行けるんですか」
「誰でもってわけではないわね。そこで暮らす必要がある人ってところかな。シングルマザーは何組かいるわね。教祖はその人を選び、自立して生活をしていけるようにって取り計らってくださって、食費、寮費、光熱費は無料よ。それ以外の生活必需品は物々交換したり、ユーズドを利用したり、現金が必要な場合には、作った農産物を売ったり、近くの農家のお手伝いをして自分で稼ぐわけ」
支部はすでに山梨の外に名古屋、大阪と宮崎に置かれていて、これからも増えていく予定らしい。そうとなれば、なおさら資金が気にかかる。
「いくら大富豪でもいつまでも続けられないでしょ」
「まあね。でも設立から五年たつけど、経営が危ないなんて話は聞いたことないわよ。広告も定期的に出しているけど、支払いがとどこおったり、債権者が押しかけてきたなんてこともないわ」
話をすべて信用していいのかどうなのかはわからないけれど、溝口が嘘をついているとは思えないし、世間にはこうした人が居てもいい。世間には、生活ために目的を諦める人が沢山いるのだから。自分だって、生活のためにしたくもない仕事をし続けてきた。なのになんの利益もない。だいたい下積みの苦労っていうけど、成功する人がみんな貧しいとは限らない。父親が有名企業の幹部なんていう例はいくらでもあるのだから。有名人の親という付加価値のおかげで、出世コースを驀進している。
そうした不公平を堀内は是正しようとしている。売名行為でないとしたら本当にすごい。溝口もきっと同じ考えなのだろうとスッピンの彼女をこっそりみつめると、くっきりと刻まれた皺が目じり辺りに集中している。
「今過疎化が進んでいるから、土地も安く手に入るし、労働力も必要とされているみたい。人出が足りなくて困っている農家には、会員を送り込んで手伝ったり、農作物の育て方を学ばせてもらったりして、地域の活性化にも貢献しているのよ」
驚きの連続だった。私財を投じて、苦しむ人たちを救い、地方を活性化させ、日本を再生させようとしているこんな人物が身近にいたなんて。巡り会えてほんとによかった。
「これで説明は終わり。また何かわからないことがあったら聞いて…、それでは気合をいれて仕事始めっか」
立ち上がった右手にカタログがぶら下がっている。笑顔を向ける母子。充実した農作業に精を出す会員の写真が掲載されている。それはまさしく現代の理想郷に思えた。
稼ぐ生活から解放された世界がまさに目の前にある。不安がる必要なんてないと。
数日後、しばらく連絡のなかった隈川から、契約を更新するかどうかを尋ねる通知が届いた。あの件以来なんとなくきまずい空気が流れていたから、更新の知らせというより、やめることをうながしているようにもみえなくもない。多分、いても何か劇的に変わるとも思えない。かといってこれで縁をきったら、女優という職業ともお別れになりそうだった。だから席だけでも置いておこう。こうした折、タイミングよく、道場の広報の仕事につけたのはほんとにラッキーだった。
二か月がすぎ、仕事にも慣れてきた。
コールセンターもコンビニも生活していくためだったけれどここは違う。広報活動と電話応対、事務室の掃除が仕事だ。事務職としての給与は高くはないが、食費が無料なので帰宅後作るという負担もないので助かっている。他にノルマもないから安心して納得のいく仕事ができる。
琴音が力をいれているのは、毎週発信されるブログの製作だ。支部から寄せられる会員たちの活動報告から、面白そうな体験談と写真をピックアップして記事にまとめる。広報活動の一環なのだが、会員を増やすという役割のほかに、会員同士の連帯感を深めるためという役割も担っている。
そのため意識して、楽しく作業している会員の様子や写真を選んで載せるようにしている。先日はさつさまいも堀りにいそしむ五歳の女の子とヤングママの笑顔を載せた。
仕事を通じて、堀切求生道場についてこれまで知らなかった多くのことを知った。地方に各支部を増設しているのも、地元の人との交流を通して信頼を獲得し、疲弊した地域経済を再興させていく目的のためだし、過疎化の村には会員を送り込んで、農作業や災害時に協力している。つい先日も大雨で流れこんだ土砂の撤去に力を尽くして感謝されたという体験談が送られてきた。
それらを讀むうちに、この道場が、会員の再生と世界平和を実現するために設立されたのだと信じることができたし、追われるようにやってきた悩める多くの人たちの再生した姿をみると、自分まで元気になるようで励まされた。
かれらは必ずしも、堀内の信条に共感を覚えてやってきたわけではない。経済的な事情によってやってきた人が大半だ。でも派遣された支部で共同生活を送るうちに、生きる活力を取り戻していく。
最近親しくなった二人の二十代の青年もそうした体験者だった。
一人はゲーム依存症にかかり、不登校から高校を退学後、アルバイトを転々としてきたが再びゲームにのめり込みそうになり、所持金も底をつきかけていた時、この道場を知ったそうだ。
もう一人はコンビニの営業マンで、加盟店を対象に強いられる強引なノルマ達成と上司によるパワハラに悩んでいた折、「モダンタイムス」を観て、このままでは会社に呑み込まれてしまうと気がついて、ここにやってきてやっと心の余裕ができたのだそうだ。
身の上話にいつのまにか溝口も加わって頷きながら聞いている。溝口は会員たちのさまざまなトラブルの聞き役になっている。
琴音の経歴には誰もが興味津々の様子で、さまざまな質問をあびせてくる。特にオーディションはめずらしいのか殊のほか熱心だ。特に最近受けた屈辱的な仕打ちには同情とともに、義憤を感じているらしく夢里きららには敵意剥き出しで、
「これは運とかの問題じゃないよ。相手が不正を働いたんだから。でもプロダクションの黒い噂ってよくきくよね。新人歌手なんかこきつかわれて、休みもなければ、給与もOLとかわらないとか。その一方で、何回か出演させて売れてきたらもう主役だもんね。なんか空しくなってくる。うちの母親なんか、昔は若い新進の俳優でも安心してみていられたってしょっちゅう嘆いてるもんね」
少しこそばゆかったけれど、一緒に嘆き、怒ってくれる存在がいるのはやはり心強い。
溝口は深い溜息をつき、
「でもうらやましい。わたしはこれといった目的なかったから。ただ嫌な人間から逃げ出したかっただけ。俳優辞めちゃだめだよ。チャンスってわすれた頃やってくるっていうから。ここは居心地がいいけど、目的もなく過ごしていると、そのうち追い出されるから」
「気に入られないと追い出されるんですか」
「目的もなく、何の使命感も抱いていないと道場にふさわしくないと判断され、自立するようにいわれ出されるわよ。会員は増え続けるから、居心地がよいだけではいつまでもここに留まるわけにはいかない。目的となんらかの取柄を身につける必要があるみたいよ。。実は、私も今度、料理の腕をかわれて、シングルマザーの寮の給食を担当することになったの。おかあさんたちが昼間働いているので、子供の食事が作れないみたい」
「えっ、もう決まったんですか。そんなの困るぅ」
「まだ正式じゃないけどね」
「でひきうけるんですか」
いなくなった寂しさを想像するとこのままいてほしい。溝口自身も、曖昧な表情が不安を語っている。以前、ブログで山梨の廃校となった小学校を購入して寮として再利用するという記事を掲載したことがある。あわせて近隣の広大な農地も購入している。自給自足の生活をしながら、そこに入る女性たちは、村および町おこしの仕事を担当することになる。つまり溝口もたぶん、そうしたところに派遣され、地域に貢献するというわけだ。
「やりがいはありますよね」
同意するかのように頷くかと思いきや、あいまいな微笑みが宙に浮いている。
「あたし寒い所は苦手なのよ。それに実家を飛び出してきた身としては、賄いという仕事にはやはり抵抗があるのよね」
「それじゃ。変えてもらえばいいじゃないですか」
「話してみたけど無理みたい。まあ、しばらく頑張ってみるわ。琴やんも女優になるの諦めちゃだめよ。夢里きららなんかに負けちゃいられないもんね」
溝口の励ましがチクりと胸を突く。彼女の名前を耳にするたびに、ざわざわと心が粟立ってくる。最近ではグミや、ヘアーシャンプーのコマーシャルにでているし、映画出演も決まり、大物俳優との共演が話題になっている。そんな姿を見ると因果応報なんて嘘と叫びたくなる。汚い手でもチャンスを掴んだ方が勝ちだなんて、絶対許してやらない。
ここしばらくなりを潜めていた手が疼き始めた。今度はもっとインパクトのある場所にしよう。テレビ局はどうだろう。それに、リップではなく、もっとカラフルにしなくては。ウィークデーだったら見つからずにやり遂げられる。
決行は一週間後の金曜日の午後三時に決めた。スタジオ見学者も少ない上、翌日の人出が期待できそうだったか。今度こそ、なんらかのアクションがおこそう。矛先は夢里きららとわかるようにしなくては。計画を練るうちに何回か味わったスリリングさが蘇ってきた。そんな気持ちが外見にも表れていたらしく、職場のスタッフに「何か嬉しい事でもあったんですか」と声をかけられたほどだ。
まずは下調べのために渋谷にあるテレビ局を訪れた。
放送局とは思えない、装飾の一切ないなんとも殺風景なビルがたっている。琴音は付近を見回した。訪れる人もスタッフの姿もまばらだったけれど、各所にガードマンが配置されている。正面入り口横にひろい壁面があるものの、その前には制服姿のガードマンがたっている。建物の周りをまわってみたが、やはり適切な広い壁面は見当たらない。
内部はモニターで監視しているだろうから、目的を達成できたとしても、すぐに捕まるだろう。次第に広がる失望を押し返して、歩くうちに、俳優が二人、目の前を突っ切って通り過ぎた。次の瞬間、背後から声をかけられた。
「あの、何かお忘れ物ですか」
メガネをかけた小柄な男性が言葉をかけてきた。反射的に用意した言葉を口にした。
「ええ、どこかに落としてしまったようで…」
「ずっと探されていらっしゃいましたよね。何をおとされました」
「サングラスなんですけど」
目の先に立ち入り禁止の文字がちらちらする。
「もしかしたら別の場所においてきたのかもしれません。探してみます」
スリリングさは一転して恐怖に姿を変え、逃げるようにその場を後にした。
翌朝、悪い夢でも見たかのようにひどく体がだるい。
数日前、しつこい客で困惑したのを思い出した。質問に答えられないと逆切れされた。いつかけてもろくなこたえが返ってこないのよ。プロだったら勤務先の取扱商品について説明できないとね。的をついた叱責に、苦し紛れにこちらは註文の受付ですのでと弁明するとさらにエスカレートした。
コールセンターに勤務する仲間は、同じように本命の目的が別にありながらやっている女の子も多い。誤解と無理解にならされたのか、愚痴はあまりないけど離職が多く、顔見知りになってもまたすぐにいなくなる。そもそもこんな仕事が精神上いいわけはない。それなのに続けなくてはならない。そンな風に考えていたら生きていけないよと言い聞かせてきたはずなのに…。
こんな時決まってよぎるのは夢里きららの顔だ。いったいどこが分れ道になったのだろう。
きららも自分と変わらない平凡な家庭に生まれている。
経済的にもごく普通のサラリーマン家庭で、両親は芸能入りを望んでいたわけではない。母親はステージママとは無縁のようだが、自身はコーラスやらエアロビクスの教室にかよっていたらしい。それが縁となって、コーラスとバレーを習わされている。友人関係からは、気になるゴシップも悪口も聞かれない。高校時代も眼の大きな愛くるしい容貌以外、女優となることを予感させるようなエピソードも何もない。女優になって当然と思わせる軌跡はどこにもみあたらない。きっかけは原宿を歩いていた時にスカウトされた。ただそれだけだ。そこまでだったら、自分と大した違いはない。あるのは気まぐれな運が自分に振り向いてくれなかっただけだ。
この日を境にブログの作成があじけなくなってきた。やりたいのは他にあるという思いが集中を削ぎ、焦りが再び頭をもたげてきた。それからしばらくして、溝口の支部への異動が決まった。予想に反して山梨でなく新しくできた名古屋支部だ。
琴音は外国に送り出すような気分なのだが、本人はあっけらかんとして、僻地じゃなくてほっとしてるのよと明るい。二人で送別会をやろうときめて、溝口の一度行ってみたかったという根津界隈にある串揚げの老舗に行くことになった。
六時過ぎということもあって店はすでに込み始めていた。
「予約をいれておいてよかったね」と溝口は早くも上機嫌だ。
淡い藤色に白い小花を散らせたワンピースで、同伴が自分で申し訳ないほどいつになくなまめかしい。紺色のパンツに白いTシャツと普段着姿の琴音は少しひけめを感じるほどだ。すっごく似合っていると褒めると、
「こういう時ぐらい。おしゃれしなくちゃね。しないとだんだんかび臭くなっちゃうから」
運ばれてきた料理は大皿の上に可愛らしく串差しが並び、見ているだけでも楽しい。溝口は料理をみたとたん「わぁーおいしそう」と両手を叩いて子供のようにはしゃいでいる。
「やっと夢がかなった。こういうお店は一人では来づらいから」
道場を離れたせいか、溝口はいつになく饒舌だ。そんな姿を目の当たりにして、ちょっと揶揄ってみたくなった。
「溝口さんって、あけっぴろげと慎重さが同居しているでしょ。道場にきてからですか。それともうまれつきかな」
ビールのジョッキを放した唇に泡がついている。
琴音はおどけて、飲み干すようにと左手で促して見せた。
「やっぱ気がついてたか」
溝口はジョッキをおくと、ハァーッと息を吐き出した。
「道場に拾ってもらって感謝しているけど、常に昨日より今日といった具合に成長すること求められるでしょ。現状維持は許されないのよね。琴やんももう少ししたら、ここにきてどうかわったかをチェックされるわよ。ここはただの救護所なんかじゃないの。人間は成長し続けなくてはいけないの。だからかわろうとしない人。道場に不用と判断されると三下り半をつきつけられて出ていくしかないの。ところがそういう人って戻ってくるのよね」
そう話すと、何人かの例にあげてみせた。
「一人は水道業者の卵だったけれど、親方の扱きに嫌気がさしてここにきたの。あまりの居心地の良さにずっといようと思っていたら、ある日呼び出しをうけてお払い箱になったの。何も成長していないと見限られたのよ。でも、さんざんぬるま湯につかっていたから、もとに戻れないのよ。で道場にうけいれてほしいと泣きついたの。それからは自己鍛錬というわけで、今は荒地となった場所の開墾をやらされているわ」
ここまで聞くと、溝口も左遷組というわけなのだろうか。
「私の場合は違うわね。だって利用価値あるもん。ここにいたければ、なくてはならない存在になる必要があるのよ」
「じゃ、溝口さんはここにずっといて、道場のために一生を捧げるつもりなんだ」
「さぁね。まずいと思ったら、いさぎよくやめるつもり」
一瞬、口に頬張ったホタテ貝のことかと思った。
「まずいって、何かきになることあるんですか」
溝口はビールを飲み干すと、中居さんに新たにもう一本、注文した。
「かれこれ五年よ。ないはずはないでしょ。道場も変わるし、私も変わっていく。人生って同じように見えて、少しずつかわっていくのよね。わかっているんだけどねぇ」
溝口は酔いが顔に出るタイプらしく、頬がザクロのようにまばらに色ずいている。
「何か変わったんですか。堀切さんも若かったですよね」
「そうね。でも外見は変わってない。ほんと不思議なくらい、時間を超越している。でも中身はそうはいかない。もともと持っていたのかよくわからないけどね」
溝口はさらに盛りつけられた串カツを平らげ、ビールが運ばれてくると、今度は大根と肉の串カツを追加注文した。
「油をブレンドしているからだろうな。こんな味がでるのは…」
ようやく琴音があまり食べていないことに気がついたようだ。
「あら、油っぽいのは苦手だった?それとも体重制限しているの。教祖もあまりたべないけど、彼の場合は、修行みたい。食べ過ぎると霊感が遠のくそうよ」
「そうなんですか。霊能者はやせてなくちゃいけないってことかな。教祖の霊感って、不幸専門チャンネルみたいですね。幸福なことはわからないから霊能者としては活躍できないって本人が語っていましたけど」
「子供の頃、事故に会ったり、まもなく死ぬ人がわかったみたいね」
「でもどうして幸福なことはわからないんでしょうかねぇ」
溝口が不意に声を落とした。
「霊能者にも得手不得手があるんでしょ。本人は特殊能力だと気がつかなかったみたいよ。お兄さんが事故で亡くなったらしいんだけど、それがわかってクルマの運転はしばらくやめるようにいったらしいのよ。でもアメリカはクルマ社会で乗らないわけにはいかなかったんでしょ。追突事故だったらしいわ。それでお父さんがショックを受けてしばらくして心臓麻痺で亡くなったのよ。おかあさんも続くように亡くなったらしい」
そうした環境の下で、堀切が何を考え、どう影響をうけたかはわからない。ただはっきりしているのは、普通の過程で育った子にはない何かが芽生えただろうということだ。独身でいるのもそれに関係しているかもしれない。
「教祖は女性関係の噂はなかったんですか。そうした世界から超越しているように見えますけどね」
「不思議よね。会員の中には一方的に好きになる女性もいるけど、わかるのかなぁ。そういう人からは距離をとって、そのうちにやめていくのよね」
「意識してそうならないようにしているのかもしれませんね。それにしても、よく資金が続きますね。これからも支部がドンドン増えていくみたいだし…」
「今のところは心配ないけど、問題はそれがいつまで続くかよね。教祖は道場に役だつ人を求めるようになっているしね。以前はどうやったら悩みを改善し、自分なりの幸福をつかむかだったんだけど…」
なんだかややっこしくなってきた。酔いが回った溝口はいつになくシリアスになっている。当分会えないと思ってなのか、胸に詰まっていたものを吐き出したくなった
みたいだ。
「あくまであたしの印象だから誤解しないで。ただ去っていった人を見てそう感じたの。当然かもしれないけど、世話になっているんだから、教祖の趣旨に合わない人はやめるしかないのよ」
まだきて日が浅い琴音には、溝口がそれについて不満をもっているのか、そうでないのかわからない。ただ話をきいているうちに、もしかたら自分にも決断を迫られる時がくるかもしれない。堀切が自分に期待をするとしたらなんだろうと、お酒が回るに従い饒舌になっていく溝口を前にぼんやり思った。
「私は料理の腕前をかわれたんだけど、でもそれは私のやりたかったことではない。それどころかそれが嫌で飛び出したんだから。まさに古巣に戻ったようなもんじゃない…」
殻になったビール瓶を相手に話しかける溝口の様子をみてその時気がついた。ほんとは行きたくないのだと。酔わなくてはいられないのだと。
「気が進まないんでしょ。なら断った方がいいですよ」
誰かに聞かれるのを憚るように小声になった。溝口は吐き出すように、
「それが出来たら苦労しない。今は無理。でもそのうちにね。チャンスが巡ってきたらね」
「チャンスってなんですか」
「断る理由に疑いをもたれなくなった日というところかな…」
琴音も酔いが回ったのか、舌が這うように本音がバンバン飛び出し始めた。
「でも感謝しているんだ。どこにいっていいのかわからなかったあたしを受け入れてくれたんだから。だからお礼のつもり。でも覚えておきなさい。ここは居心地の良い宿泊施設ではないってこと。はい。これでおしまい。それではさようなら」
酔った溝口はタクシーに乗って自宅に戻っていった。
それから数か月がすぎた。
その間、かわったのは東京の道場を訪れる若者が増えたことだった。
現在いる二名のスタッフも、一月前にやってきたばかりだった。一人は、上司のパワハラと同僚のいじめにあい愛媛県からやってきた元OL。鳥井美香二十三歳。もう一人は横暴で金遣いの荒い父親から借金の保証人にさせられ、島根県から逃げ出してきた信用金庫勤務の服部早紀子二十四歳だった。
ともに自分の進むべき道が見つかるまでここで修行するつもりらしい。鳥居は、琴音が俳優の卵だと知ると、昔は歌手になりたかったのだといって質問を浴びせてきたが、服部早紀子は正反対で、警戒心が強く琴音と距離を置いている。それでも掃除とか家事に関してはやり馴れている様子で、いわれなくてもまめに体を動かしている。一方の鳥井はいつも指示待ちで、一仕事終えると、今度は何をしたらいいのかと尋ねて来る。
二人がやってきた当日、堀切が道場にやってきた。溝口が異動して以降、各支部を訪問し、指示をしているらしい。そのせいもあって顔を合わせる機会も減っている。応接室に呼ばれて、堀切を前にしておどろいた。顔の輪郭が鋭角的になり、以前讀んだコミックの兰陵王を彷彿とさせたからだ。
「ブログもサイトも以前に比べてずっとよくなりましたね。そのおかげで、会員もふえました。あなたのおかげだ。ところで例の件は進展しましたか」
例の件といわれてハタと迷った。なにか頼まれたことがあっただろうかと、その間、堀切は透視をするかのように琴音を凝視した。
「不正にたいする怒りはまだ失っていないようですね。怒りは正義だということ忘れないでください。ただその表しかたが、どうやらまだ変わっていないようですね。僕のいう意味わかりますか。あなたを道場に呼んだのは、広報の仕事をしてもらうためだけではありません。自分の果たすべき仕事に邁進してほしかったし、何が自分にとって大切なことは何かをみつけてほしいんです。他の仕事についたら雑務やストレスで、この貴重な体験について思索する暇がなくなるでしょ」
正直、堀切がなぜ急にこんな話をしだしたのかよくわからなかった。ただ噛んで含めるような口調がいつもとは違っていた。
「いいですか。つまらないいたずらで貴重な怒りを、紛らわせようとしてはいけません。僕にはくだらない行為に走ろうとしているあなたがとても心配なんです。発覚したらどうなるか…きららとあなたの立場は逆転して、器物損壊の容疑者になってしまうんですよ」
ふいに全ての音が消え、裁判官のまえに立つ自分の姿が見えた。堀切の震える声が、まるで罪状を読み上げるように響いた。
「僕の霊感が、事件や事故の前触れを知らせてくれることは以前話しましたよね。今回はあなただった。落書きをして鬱憤を晴らすなんてナンセンスでしょ。貴重な体験を通して生まれた怒りをどのように処理すべきが、よく考えてください。芸能界は一般社会とは違うと思わせてはいけない。力を持つものが正義だという考えにノーを突きつけるべきです。違いますか。実力もない人間が周囲の思惑によって登りつめていく。こうしたことを可能にしているシステムに怒りを覚えたのでしょ。怒りを安物のうっぷん晴らしで誤魔化してはいけません」
塔のてっぺんで踊っていたピエロが囁く。いいわけは無用。とっとお逃げ。
「すみません。わたしはプロダクションと戦う気はありません。いやなことや納得できないことはありますけど、世話になったし、大変なのもわかってますから」
「僕の言い方がまずかったですね。そんなこと琴音さんに求めていませんよ。あなたが今しなくてはならないことをやればいいだけです」
そういわれても、出口がみあたらない白いボックスに閉じ込められたような気分は変わらない。堀切が何を言いたいのか。求めているのかわからないまま後ろめたさだけが膨らんでいく。
「あなたが手を打たなかったら、きららは好き勝手にどんどん突き進んで行きますよ。彼女がファンクラブを立ち上げたのは知っていますか。オープニングを祝って、ファンの集いをやるみたいです。いいですか。巨大な組織に挑む必要はありません。一人の人間を通して組織を浄化する。これはさほど難しくないでしょ」
夢里きらら。ファンクラブ。浄化という言葉がクルクルと舞っている。
「あなたは選ばれて、芸能界を浄化する使命を担っていることを、ここにきたのも、僕に出会ったのも単なる偶然ではない。どうかそれを忘れないでください」
ふと思う。溝口が話していた使命とはこのことかもしれないと。
「あのそれができなかったら私はここにいてはいけないのでしょうか」
ダーツが命中したように、堀切は後ろにのけぞった。
「妙なことをいいだしましたね。誰かに吹き込まれましたか。噂話を慎むように会員にはいつも話しているんですけど。人は他人の意見に迷います。そして安全で無難な道を選択しがちです。まず自分で考え、自分で判断してほしい。いいですか。僕はこの話は琴音さん以外の人間にはしていません。あなたに課せられた使命だからです。だから他人に相談して答えを求めるのではなく、自分に問い解決してください。たとえそれを避けて通ったとしても、引き返さざるを得ない状況においこまれるだけですから」
いったん遠のいたはずの夢里きららの亡霊が再び彷徨い始めた。
そのうしろに、スフィンクスの謎かけの答えを催促するかのように、堀切がこちらをじっとみつめている。
きららはホームページで、ファンからの要望でファンクラブを創設したこと。それを祝ってトークとサインのファンの集いをホテルエルリッツで開催した。二か月前だ。
みじめさと格闘している真っ最中、木原七恵からラインがきた。
七恵は俳優仲間だ。一度芝居でいっしょになって意気投合して以来、なんやかやと愚痴をこぼしたり、励ましあう仲だ。
仕事と聞くとでかけ、オーディションがあれば駆けつける。ささいなことでもチャンスに変えよう。どちらかが出世したら助け合おうとの誓いも、残念ながらまだ実現していない。
「先月さぁ。東京弁を話す役者を募集とかでね。大阪まで行ったのよ。チケットノルマはないといったのに。プラス往復四万円の損失だよ。ところで夢里きらら、左耳きこえないらしいけど知ってた?加治木レイナと共演した際、彼女に耳をはたかれたみたい」
突然プツンと音が消えた。
「それほんと?」
「加治木レイナが頬をぶつシーンで耳に当たったらしいわ。わざとかそうでないとか騒いでいるけどさぁ。最近CMバンバン出てけど、このスキャンダルがどう影響するかよね。加治木レイナは新人泣かせで有名だもの。嫌われると大変らしいよ。彼女さぁ。主役を得る為に枕営業をやってきたっていうから、夢里きららみたいにトントン拍子なのは気にくわないのよ」
結局、道場で働いていることを話すのも忘れて「じゃあ、またね」と電話を切った。枕営業、きららが、入り混じって頭の中を駆け巡っている。
きららもそうではないときっぱり言い切れるだろうか。
琴音は加治木レイナの情報をかき集めた。
女性週刊誌によれば、きららは全治二か月の治療を要するらしいのだが、それについて加治木は、故意にではとの疑惑を否定し、演技に熱が入ったせいと強気だ。それどころか、被害者はむしろ自分の方で、挨拶どころか、礼儀をわきまえず、再々無視され続けたと語り、こちらを貶めるための悪意と感じると反論している。
夢里はといえば、身に覚えのない非難に心を痛めている。耳の件については、加治木の熱演のせいとやんわりと応酬している。二人のバトルをみていると二人とも意識的に話題性を狙ったとも見えるのだが、いずれにしろ、生意気な礼儀知らずの女性というイメージは夢里にはマイナスに違いない。一方、加治木も移籍問題で、まったく演技に集中できていなかったと共演者から陰口が漏れているところから、どっちもどっちのようだ。
耳元で囁いた。このスキャンダルを利用しなさい。不正は糺す絶好の機会よと。
真相なんてわからないだろうし、今更どちらでもよい。ただきららも人を傷つけたことを知らなくてはいけない。
琴音は加治木レイナの所属事務所に本人宛ての手紙を送った。
夢里きららは、加治木に左耳を潰されたことを憤り、あなたへの罵詈雑言を演劇関係者にばらまいてあなたのキャリアを終わらせようと画策している。枕営業をやってきたなんて侮辱的なことまで言いふらしている。彼女自身、大河ドラマの役を得る為に演出家と関係をもつことを厭わなかった。そのことを隠すためにあなたに濡れ衣をきせようとしている。
自分を売り込むためとはいえ、あなたのキャリアを貶めるようで、そんな彼女を見過ごすわけにはいかない。ぜひ自分を守り、黒い噂につぶされないようにしてほしい。そして女優としてこれからもますます活躍して輝いてほしい。
幾度も読み返し、本人の自宅宛てに出そうと決めた。以前、都立中書館のそばに建つ高級賃貸マンションに住んでいると2チャンネルで見たことがあった。住宅地図で、広尾駅付近にある入居者の名前の記載がない高級マンションに絞って探し始めた。そしてその中で可能性の高いマンションをみつけた。
琴音は広尾駅で降りると、フラワーショップの横をまがり緩やかな坂道を上がった。華やかな夜の顔とは別にビルの裏手の道を曲がると静かな住宅街が現れた。坂をのぼりきったところに、瀟洒な白いマンションが姿を現した。
近づくとやはりオートロックで、関係者以外は中には入れない。部屋の号数はわからなくても宛先を本名にしたのであれば、間違っていなければ本人にわたるに違いないと、一か八かの賭けだった。もしはずれたとしても処分されるだけ。度胸も決まり、駅近くにポストをみつけ投函すると、その横を赤いジャガーが走り去り、なんだかラッキーなことがおこりそう。そんな気がした。
それから一週間、それらしき反応もなくて、落胆が広がりだした矢先だった。
加治木が監督に貸した一千万円がいまだに返却されていないと告訴したのだ。またたくまに関連した記事が週刊誌やネットに踊った。何回か催促してきたが、一部しか返してもらっていない。その際の催促の手紙のコピーを公表したため騒ぎが大きくなった。それだけではない。他の監督の名前も次々と引き合いに出され、似たような被害にあったと告白する女優や、監督にセクハラをうけたという者まで現れて事態は予想を超えた広がりを持ち始めた。
第 二 章 夢里きらら
マネージャーの城山から禁止令がでているけれど、二缶目に手が伸びた。
太らないために糖質ゼロ。けれど味は今一で、酔いたいのに酔えない。
ー 習慣にするな。仕事場では休憩時でも絶対飲むな。太ったらCMの話もなくなるぞ。
たしかに城山の警告どおり肥満の妖精なんか聞いたことがない。でも飲むと決まって訪れる温泉につかっているような安堵感を捨てろという方が無理というものだ。
加治木レイナは意識して、頬ではなく耳を叩いたのは確かだ。あの馬鹿力は日頃の不満の証だ。迫真の演技なんかではないし、こっちのせいでもない。ただライバルとみなされたからだ。スルーしてしまおうと決めたのに、新たな攻撃を仕掛けてきた。なのに城山は我慢しろ。平静心でいけという。
― あんな真似したのは女優に見切りをつけたからさ。芸能界を去るつもりなんだろう。だからほっとおけ。
平然としていられるのは当事者でないからだ。記事を読んだ時は怒りで体が震えた。あたかも役を得る為に枕営業しているような言いぐさではないか。それについても、あっけにとられるほどクールな反応だった。
―名誉毀損で訴えて、勝訴したとしてもブーメランだよ。それまで無関心だった人まで起こして、人気を狙ったと受け止められかねない。そうなったら二度と人気は戻らない。
まるで世間を知りぬいた賢者のように言い放った。
「芸能界は嫉妬と裏切りの世界だ。噂なんて三か月。じきに忘れられるよ。むしろ嫉妬されるだけ有望だって考えればいい。もっと自信をもてよ」
それでも今回は諦めきれずに食い下がった。
動機も犯人もわからないままでいったら、事態はさらにエスカレートするだけだ。加治木がここまで執拗に攻撃してくるのか、その理由を知る必要があるし、それさえわかれば今後の妨害だって防げるはずだ。
すると城山は再び呪文を繰り返す。
「犯人探しなんかしても、わかったところで、さらにエスカレートするだけだよ」
いいたいのは結局、気にしていたらこの世界では生きていけない。売られても喧嘩は買わない。敵が多いほど、大スターの証と考えればいい。
もしかして加治木を養護しているわけ。そう尋ね返したいのをグッとのみこんだ。
―スターは抗議もできないし、ストーカー行為をされても訴えることができない。そんな時、普通の人間に戻りたいと思う。
レディー・ガガのつぶやきが心に沁みる。彼女もまた同じ被害に会って苦しんでいた一人だ。加治木だって、きっとこんな気持ちを抱いた頃もあったはず。それなのになぜこんな真似をするのだろう。原因は怒りからなのか、それとも嫉妬なのだろうか。
人気女優の加治木レイナとのなれそめはサスペンスドラマだった。
きららは、開業医の加治木の元で働く看護婦を演じた。ストーリーは加治木の恋人をきららに奪われたと誤解した女医に殺されかかるが、その彼女の遺産を奪おうとしている恋人の謀略を見破り事件を解決に導くというストーリーだ。
大河ドラマとはまったく違ったしかも準主役といってもいい重要な役だった。当然ながら張り切って臨んだ。経験が浅いと馬鹿にされないように、礼儀知らずといわれないように、自分のセリフだけでなく、共演者のセリフまで覚え、共演者の趣味や気質まで頭に叩き込んだ。
初顔合わせの日、主役の加治木レイナは、熱があるという理由でリハーサルルームには姿を現さず、どう挨拶をするか、どう振舞うか入念に準備して臨んだきららにとって肩透かしを食らった形になった。
さすがに読み合わせの際に姿を見せてほっとしたのだが、挨拶しようと近づいたきららに対して、軽く微笑み頷くと、監督はじめ、顔見知れの共演者に二言三言話しかけて足早に会場をあとにした。重ねて冷や水を浴びせられたけれど、それでもまだ、気にしない気にしないを連呼していた。が、問題はそれからだった。
加治木は、稽古が始まっても全くやる気を見せず、セリフ回しは暗記どころか棒読みだし、おまけにたびたびつっかえた。まともに脚本に眼を通していないのは明らかなのに、思いとおりに演じられないとやり直しを要求するため、現場には重苦しい雰囲気が次第に広がっていった。
きららにしても、このままいったらどうなるか気がかりで仕方がない。最悪の場合には、視聴率不調によって途中で打ち切りになるかもしれない。そうなったら当然、女優としての経歴にも傷がつく。それだけはなんとしても避けたかった。
そうした矢先、ある記事がうかんだ。「エデンの東」の撮影中、ジェームズ・ディーンが対立を際立たせるために、父親役の俳優に挑発するような無礼な態度をとり続けたそうだ。よし、これで行こうと決めた。どうせやめておけというにきまっているから城山には話さない。
てはじめに、朝と帰りの挨拶はもとより、加治木の前を通り過ぎる際、挨拶抜きでスルー。もちろん本人に気がつくようにだ。翌日も翌々日も同じ真似をした。それだけではない質問も共演者だけにして、完全に無視する姿勢をあからさまにした。加治木は初日は怪訝そうな表情をみせたものの三日目になると、敵意と怒りが事あるごとに現れ始め、きららの演技に難癖をつけはじめた。
このころになってようやく周囲もきがついたようで、やきもきしながら、不安そうに成り行きを見守っている。というのは皮肉にも加治木の演技にエンジンがかかり、その変化にきらら自身も戸惑ったほど、二人のバトルが迫真をおびてきたからだった。想定外の変化に戸惑いつつもほっとした矢先、事件がおきた。
それは恋人を奪われ嫉妬した加治木に頬を叩かれるシーンだった。
カメラテストではなかなかオーケーがとれず撮り直しを数回繰り返した四回目、叩かれた直後、痛みと同時にしびれが耳を襲った。その帰りたち寄った耳鼻咽喉科で外傷性鼓膜穿孔と診断され、鼓膜が破れていることを知らされた。
城山からは、もうすぐ終わるからことをあらだてるなと注意され、何事もなかったかのように撮影を続けたのだが、加治木はといえば、きららに対して硬化していく態度が恋人を取られて苦悩する役と重なり合い、一転して迫真の演技に変わったのだった。この変身ぶりのおかげで、周囲の雰囲気はガラリとかわり撮影はスムーズに流れ始めた。
きららもまた加治木の変貌ぶりが刺激となって、痛みも遠のき、見せ場のむせび泣くクライマックスシーンに体当たりで演じてみせた。
そしてクランクインから四か月、最終回の一週間前に十二話すべての撮影を終えた。
こうした苦労の甲斐もあって、視聴率は好調に推移し、その見返りとでもいうように、大口のコマーシャルの話も舞い込んだ。
これで万事めでたしとなるはずだった。
ところが加治木との悪縁はこれで終わらなかった。撮影が終わってしばらくすると、ありもしないゴシップを流すというあらたな攻撃をしかけてきたのだった。
きららが監督の愛人であったかのような事実無根の噂が闊歩し始め、その挙句には、複数のCMも関係があった人物を通して得たものとまで言い出したのだ。やりきれないのはそれだけではなかった。
これを機に周囲の空気までが変わり始めた。視線にも言葉遣いにも、これまでにない好奇心と戸惑いがちらつき始め、このままほおっておいたら、噂が真実になってしまうのではときららは不安に陥れた。やはりここらで何らかの手を打たなくてはと思い始めていた矢先、CMの撮影が終わっての帰り、城山が切り出した。
「加治木レイナだけど、移籍はしないで引退するそうだ。それで貸したお金を取り戻そうと決めたみたいだな。ハワイで暮らすそうだ。自爆を覚悟している人間に、こちらが突っ込む必要もないし、これといった影響はまだでてないしさ。悔しいだろうけど、このままやりすごしてほしいって社長も話していたよ」
幸いこの事件の余波を気にする必要はないようだった。睡眠が充分にとれないほど多忙だったし、自宅のマンションでゆっくりすごすなんてことは皆無にひとしい。すべての体験が最速のベルトコンベアーで運び去られていく。そんな毎日だった。
それでもちっとも苦にならなかった。自分が必要とされるのは嬉しかったし、CM出演は収入が大きいので、依頼が絶え間なくあるのはきららにとって大歓迎だった。だから少しも疲れを感じないでいられた。
それでも自分の希望が通らない時がある。『ファンの集い』もその一つだ。
正直、開催すると告げられたときは、死刑宣告されたようにゾッとした。
無数の目にさらされるなんて想像しただけで身がすくむし、へまをやらかすに決まっている。だからあらゆる理由をあげて必死に抵抗した。けれどすべて前向きにとらえようがスタンスの城山を説得するのは至難の業だ。
怪我でもさせられたらほかの仕事にも差し障るから。そしたら大丈夫だよ。チェックは厳しくするし、ガードマンをいれるから。サインをしたり、ファンの質問に答えるだけでいい。なんといってもPR効果大だよ。おおげさに考えるほどじゃない。大河ドラマに出演した際の苦労話やら、エピソードを話してみたらどうぉ。きっと受けるよ。
提案は命令と同じ、いわれたらやるしきゃない。タレントには断る権利はないし、なんといっても大河ドラマで織戸の役をいとめることができたのも城山のおかげなのだから。
それまで演じた体験といえば、コマーシャル用の短い寸劇だけだったから、大河ドラマの話が舞い込んだ時、正直嬉しいより、怖かった。主役ではないけれど、とても重要な役であるのは渡された台本をよんですぐに理解した。
忠実で一途な女性が、恋人の不本意な死により変貌を遂げ、不正に立ち向かい主君を裏切る。ゾクゾクする役だけれど不安だった。自分にできるだろうかと。
ファンの集いではその時の心境と撮影現場の出来事を率直に話した。
―台本を渡され讀んでいくうちに、重要な役だと気がついたこと。そうした不安を解消するために、マネージャーが、かつて女優としてならしたMにひきあわせてくれ、有益なアドバイスと励ましの言葉をもらったこと。マネージャーの城山からは、脇がしっかり演じてくれるから、何も考えずにとにかく集中しろと励ましてくれた。
大河ドラマの記者会見に続く撮影が、六月から始まり、出演者同士の顔合わせ、本読みと進み、立ちリハーサル、ランスルーを経て、本番が始まったのだが、愕いたのは、撮影現場が想像とは違っていたことだ。
新米に向かって、演出家が声を荒げることも怒号が飛び交うなんてシーンは皆無で、監督は明るく指示を出し、間違えてもイラついたりしないで、すべてが淡々と進んでいった。そのおかげで、安心して演技に集中でき、始まる前の不安は、撮影が始まった数日後には無くなっていた。自信のなかった和服姿も、日本髪も違和感なくおさまりほっとした。
撮影で何より力を注いだのは、ロケ現場の奥多摩の御岳渓流で命を絶つ入水シーンだった。早朝の寒さでこごえる中、代役を断り、浅瀬を選びゴムスリッパを履いて挑んでものの、水温は思いのほか冷めたく、一歩ずつ川の中央に進むうちに感覚が奪われていった。
指先にグっと力をいれて踏ん張ったものの、流されかけた瞬間、死へ旅立つ心情がくっきりとイメージされ、哀しみをたたえた表情をつくることができた。
評論家が、きららの愛くるしさがあったればこそ、悲劇性を浮き立たせ、視聴者の涙を誘う結果となったと賞賛してくれた時は、本当にうれしくて胸がジーンと熱くなった。話終えると一斉に拍手が沸き起こり、一時間半の集いはトラブルもなく無事に終えることができたのだった。
千駄ヶ谷の自宅のすぐそばの花屋でクルマを停めてもらい、スピネルとかかれたディープピンクの花をつけた植木鉢を三つ選んだ。時折この店に立ち寄っているのは、ここにくると自分にも普通の生活があるのだとほっとできるからだった。
抱えて乗り込むとすぐにエントランスのしゃれた自宅のマンションが見えてきた。
まだ駆け出しだしなんだからと母親の聡子に購入を止められて、選んで決めた高級賃貸マンションだ。
降り際、城山に明日は仕事もないのでゆっくり眠るつもりと釘をさしておく。やっととれた休みを、台無しにされないためだ。部屋に入ると、バルコニーにそっと植木鉢をおくとソファーに横になって、プライベート用のスマホを手に取って覗いてみた。
見ると一通。聡子からだ。読む前から気が重い。弟の直之が医学部に進学したいので学費を工面してほしいと無心されているからだ。
以前、女性記者に、弟さんとは仲がいいんですかと尋ねられて、あやうく本当のことをいいかけた。
母にとってはわが子は弟だけなんですと。原宿でスカウトされた時だって、半信半疑で「騙されないように注意しなさいよとだけ、プロダクションが両親と一緒に説明を聞きに来てほしいといってるよと告げたら、今度は隕石でも飛んできたような表情をうかべてみせたんです。
もちろんこんな真実は伝えない。ファンは明るい家族が応援してくれていると信じている。幸いなことに、近隣に響き渡るような派手な口論も喧嘩もなかったから、本当は不仲だったなんて噂が流れる心配もない。
それでもインタービューは苦痛だ。イメージを壊さないために、嘘をつかなくてはならない時。このままいったら、ほんとに自分が消えてなくなってしまうと不安に駆られる。わたしは妖精なのだから、時に親しみやすく、時に近寄りがたい特別な存在を演じなくてはならなかった。
それでも仕事は順調だ。最近は化粧品メーカーのコマーシャル出演も決まったし、バラエティー番組のゲスト出演もたびたびだ。露出の回数が増えるにつれて人気も上昇している。こんな状態をみたら、誰も山ほど悩みを抱えているなんて、信じないはずだ。でも肉体は悲鳴をあげている。
一日のスケジュールはすべて仕事中心でまわって、城山から仕事の話が入り、いわれるまま約束の時間に出向く。プライベートの時間は皆無。病気にならないのが不思議なぐらいだ。
おととい撮影が終わったのは深夜の二時。帰宅したのは三時。そして六時には次の仕事に出なくてはならない。迎えに来た城山も疲れて見える。それでもこちらを気遣って、目覚まし時計のように呪文を唱える。
ー もう少しの辛抱だよ。撮影の過酷さは、万国共通。ハリウッドスターだって同じだ。 それを超えられる人間だけが大スターへとかけあがる。
それを聞かされると、愚痴は引っ込まないわけにいかなくなる。でも肉体は休息が欲しいと叫んでいる。それに恋人も。
城山には恋の相談はタブーだ。俳優仲間から教えたらつぶされるよと言われている。
これまでは多忙の中でも恋のチャンスはあった。俳優Aのように始まる前におわってしまった人もいたけれど…。
一人目はコマーシャルの撮影の時出会った二十七歳のカメラマン助手。洗いざらしのジーンズとTシャツ姿だったけれど、豊かな天然パーマの波打つ頭の形がなんともステキで、話すたびに揺れる前髪と、言葉が飛び出すたびに温かな気持ちにしてくれるから、すぐに好きになった。
スターは外でデートはできないから、自宅かホテルで待ち合わせ、慌ただしい恋をする。彼もその一人だ。お互い会うのはいつも深夜、彼がマンションにやってくる。そのうち何回がすれ違ううちに、会えないまま自然消滅してしまった。それでもつきあってよかったと思う。どんな表情やポーズをとれば美しく魅力的に見えるかを教えてくれたのだから。
ー美しさはバランスだよ。だから君の場合はその大きな夢見る瞳を最大限に生かすメイクをしたほうがいい。それから官能的な口元も大切にして。
幼い時、聡子に「口元が悪いんだから。口をギュッとつぶっていなさい。そうしないとおバカさんと間違われるよ」とさんざん言われてきた。だから官能的と自信に変えてくれた彼には今でも感謝している。
彼以外にも、数人このマンションを訪れたことがある。終わるとすぐ別の男性が現れるけれどいつも長くは続かない。
そんな中、最近、ちょっと気にかかる男性が現れた。名前は堀切真彦。
「ファンの集い」が終わって購入してくれた写真集に一人ずつサインをしていた際、「あなたが今注意すべきことが書かれています。必ず読んでください」といって封筒を差し出した男性だ。
視線を向けた瞬間、レモンの香りがして、手紙を差し出した時の男性とは思えない美しい手が印象的だった。帰宅して開封すると、近いうちに疲労で倒れます。肝臓が弱っていますからいたわってください。また神経が傷を受けやすいので心配です。考え込まずに、やるだけのことをやったと自分を慰撫することが大切です。そして最後に僕は占い師ではなく、このことでお金を取るつもりもありません。だから安心して毎日をお過ごしください。
最近、いろんな人が寄ってくる。いい人もいれば、詐欺師もいる。だから彼も何らかの魂胆があるのかもしれない。
それにしても健康のことを知っているなんて、もしかしたら情報が流れているのかもしれない。だとしたら怖い。肝臓は少し気にかかるけど、これだって適当にいっただけかもしれない。気にするのはやめよう。こちらの気をひくためかもしれないのだから。
城山から、いくつかタブーを言いつかっている。
その一つは儲け話には絶対乗るなだ。
投資の誘いはこれまでに何回かあった。俳優仲間から誘われたこともある。
どれも乗りたくなるような話ばかりだ。ハリウッドスターをはじめアメリカの著名人が将来性をかって投資している。高額の利益が見込まれる。乗り遅れないために小口で始めてみないか。
城山から、勧誘を受け、莫大な借金を抱えて自殺した芸能人が何人もいると聞かされている。それから持病についての口外もタブーだ。
今のところ、投資に乗るつもりはない。収入は順調で、明日は化粧品メーカーのコマーシャルの撮影がある。慢性的な睡眠不足で、肌もけっしてベストコンディションでないのに皮肉なものだ。聡子はここにきて、母親ぶっていろいろ世話を焼いてくる。これまで娘の健康なんかほとんど関心はなかったくせに。
美容にいいサプリとか、あまり好きでないのにアボガドも勧めて来る。そしてこういう。コマーシャルも若いうちよ。いつまで稼げるがわからないんだから。大切にしなさいよ。いったい何を大切にしろというのだろう。
城山も同じことを言う。
コマーシャルは人気をはかるバロメーターで、減ってきたらヤバイと。短時間で撮影が済むし、報酬も数千万単位だから俳優なら誰でも出たがる。ドラマ同様に激戦なのだ。だからあれこれ選んでもいられない。
でもいいことばかりではない。プライバシーを制限される。スキャンダルなんかおこしたらアウトだ。企業イメージを傷つけたとかで、損害賠償金を請求されるらしい。つまり報酬と引き換えに行動を拘束される。いいかえると、恋愛もままならないし、不倫も喧嘩もできないということだ。
こんな話を聞かされるとわからなくなってくる。大切なのはどっちなのだろう。女優、それともコマーシャル出演なの。どっちかを犠牲にしなくてはならない時ってあるのだろうか。その時、いったいどちらを選ぶのだろう。それすらプロダクションが決めるってことなの。この謎々の答えを求め続けるうちに、きららは深い眠りに降りていく。
第 三 章 瀬原 琴音
あの事件以来、夢里きららと加治木レイナに関する記事が、週刊誌やら、噂チャンネルをにぎわしている。
記事は二人の確執にとどまらず、まるでゴミ箱でも漁るように生い立ちから、仲間の噂話まで取り上げられ、面白おかしく拡散している。
興味深いのは、加治木の男性遍歴が、きららにも飛び火して複数の男性の実名入りの記事が連日SNSを賑わしていることだった。
すでに三百人のコメントが寄せられ、
― うまくもないのに主役、取りそこなっても準主役。これで枕営業疑わない方がおかしくない。
ー 運なんか待っていてもきやしない。自分で作る。これが鉄則。きららもそうしただけ。プロダクションは売り出すのにあらゆる手を使う。
ー そもそもバーター制度があること自体がおかしい。
ー 枕営業の噂は海外問わず。ただ弱みに付け込むのは間違っていると思う。
ー もしほんとならショック。どんびきしてしまう。ドラマを見てもそのイメージがよぎってしまう。
ー 彼女がかわいそう。単なる噂なら流した人に責任がある。これは加治木の復讐。みんなを引き込んで全滅させるつもり。悪質だと思う。
― 今更貸したお金返せなんて。売れなくなったから目立ちたいだけ。それともこれで引退するつもりの退職金なのかなぁ。主役の代償は大きすぎ。それにしても監督なんのコメントないね。
ファンとアンチ派が入り混じっている。本人は、これだけ書かれても今のところ沈黙を守っている。もちろん今後どうするか。打つべき手をあれこれ考えているのだろう。監督に返却を求める告訴に踏み切ったことで、事態は当分収拾がつきそうにない。
琴音は内心戸惑っていた。事態が思惑を超えて勝手に動き始めていて、これがほんとに自分の望んだことなのかわからなかったのだ。それでも教祖が言っていた「行動すれば運がついてくる」は本当だった。多分やったことは正しかったのだろう。教祖にはこれから起こるだろう未来が見えていたのだろう。
その数日後、堀切が道場を訪れた。紺色の作務衣に身を包み、物静かな表情と清潔な雰囲気はかわらない。前回、教祖が東京の本部を訪れたのは二月前だ。増設された各支部を飛び回っているので、近況報告、連絡はもっぱらメールを通じてなされている。だから何かあったのかなと思っていたら、興奮した様子で、
「やりましたね。実に見事だ。琴音さんが行動したから、運が動きだした。これで彼女にも気づく機会が与えられたし、芸能界も衝撃を受けたでしょう」
こうきっぱりいわれ、戸惑いが吹っ切れて久しぶりに胸が躍った。教祖が見守ってくれているのだと思うとやはり心強い。さいわいスタッフは外に出ていて誰もいない。
「夢里きららも演出家も、受けるべき罰を今下されたということです。加治木レイナはその使者として使わされたにすぎない。監督にとっては思いもかけない災難が降り注ぎ、露見すべき時が巡ってきたにすぎません。そしてその不正を糺すきっかけを作ったのが琴音さん、あなたなんですよ」
満足げな表情でみつめられると、表彰されたような晴れ晴れとした気持ちに包まれた。信念と確信に満ち溢れ、誰よりも自分を理解してくれている。それが堀切だった。
「これで気づいたでしょ。あなたの強い意志が、チャンスを呼び、事態を動かしたんですよ。予想を超えた展開になってきましたね。意志あるところに道ありです。これで浄化という使命を一歩踏み出した。それにしても加治木レイナに目をつけたのはすごい。怒りが行動をおこさせ、社会を動かした。天は自助努力をする人間にだけ手を差し伸べます。加治木レイナは使者としての役割を果たしたんです。ですから、あなたはまったく良心の呵責なんか感じる必要はありませんからね」
琴音は大きく頷いた。堀切の穏やかな自信に満ちた表情が、何も心配いらない。ただついてくるだけでいいと語っていた。
「これから何をしたらいいんでしょう」
「心の声に耳を傾けていれば、内なる声が聞こえて、次に何をやるべきかが、わかってきますよ。いいですか。忘れないでください。あなたに指令をだすのは神ではなく、あなた自身だということを」
「で加治木レイナはどうなるんですか」
「今、彼女の頭を占めているのはお金を取り戻したいという物質的な欲望です。彼女は返金されるまで手をゆるめません。このままでいけば、余波はどんどんが広がっていくだけなので、返金しないわけにはいかなくなる。ちなみに近いうちに解決します。でも夢里きららにとって、これは始まりにすぎない。これまで不当な運に運ばれてきたのですから、今度はつけを払わなくてはならない」
琴音は静かに目をつぶった。制裁は間違っていなかった。ようやく神が自分の思いを汲み取ってくれた。
「夢里きららは、これからどうするんでしょう。女優をやめるんでしょうか」
「商品価値がある以上、プロダクションは手放しません。彼女もまだそんな決断はしていない。彼女自身も贅沢に馴れているし、家族にもあてにされているみたいですからね。もしかしたら、運が悪かったとおもっているだけかもしれない。今後の行動をみればわかるでしょ」
淡々と話す堀切の口調に憤りも怒りもなかった。
「それにしても、運命の振り分けはどうやって決まるんでしょう。どうしてと首をかしげてしまう例がたくさんあります」
ほんとは、演技力では、きららより私の方が上なのにといいかけて口をつぐんだ。
「選ばれるのは実力とは限りません。商品価値ありとみなされるかどうかですよ。扱いやすく、利益を運んでくれるターゲット。これが重要なんです。きららの場合も、本人の力ではない。周囲の思惑のおかげです。その際の不正なんかどうということはないんです。きららは自分がどうやって役を得たかを知っています。あなたはむしろ巻き込まれなくてよかったんですよ。人はまいた種の収獲とともに、負の遺産も受け取るものです。何も知らずに受けた応募者を傷つけたことの責任は取らなくてはなりません。罰が下されるのではなくて、自らが蒔いた種を刈り取るだけです。古い傷がぶり返すのはそのせいですよ。いつか制裁をうけるものです。周囲をみまわしてごらんなさい。何十年前の犯罪が露見したりしているでしょ。でも心配する必要はありません。自分には実現する力がやどっているのだと信じましょう。何を次にしたらいいのか。まもなくわかるはずですよ」
仕事を終えてコンビニに立ち寄ったら、週刊誌が目に留まり、表紙に加治木レイナに返還と文字が躍っていた。慌てて購入して、そのまま店を出た。
どうやら加治木は訴えた二人から無事に貸金を取り戻せたようだ。肝心なのはきららの方だった。記事は加治木に多くが当てられ、しりたい夢里の情報には触れていない。ネットをくまなく調べても、夢里に向けられた枕営業に関する疑惑記事はどこにもない。
もしかしたら所属プロダクションが記事を差し止めたのかもしれない。これではまるで加治木の貸金を取り戻す手助けをしたようなものではないか。怒りが再び頭をもたげてきた。
その日の夜、七恵から電話がかかった。
琴音の気持ちをきづかってか、二人に関連する情報をいろいろと知らせて来る。今日も開口一番、加治木の名前が飛び出した。
「あそこまで度胸が据わってるとは思わなかった。結局全額取り戻したんだもんね。どう思われようと気にしないっていう態度がすごい。芸能界辞める覚悟があったからできたんだろうけど。それにしても夢里きららの方も肝が据わっている。風向きがかわるまで沈黙とおして正解だったみたい。加治木のビンタで難聴になったことで同情標を集めているらしい。運がいいというか。これぞ怪我の功名だよね」
電話を切った後、冷蔵庫から酎ハイを取り出すと一気に飲み干した。
怪我の功名というフレーズがぐるぐる頭の中を回っている。まるで逃亡者を取り逃がしたような最悪な気分だ。
つい先日、堀切とともに成功をよろこんだばかりだというのに、どうしてこんな展開になってしまったのかわからない。まるでせせら笑われているみたい。悔しさがこみあげてきて、ついそばにあったメラニン製のコップをとると壁に投げつけ叫んだ。
「なんなのよ。人を馬鹿にするのもいい加減にし…」
突然、壁をコツコツと強く打ち付ける音がした。押し入れがない側の部屋からだ。転居してきたおり、挨拶しようと何回も訪れたが一向にドアが開かないのであきらめたのだが、白髪の八十代の男性が住んでいるのはわかっている。転居後、数回挨拶に行ったものの、ドアが開かないので、アパートの住人とは付き合いたくないのだと勝手に考えることにした。
ところが、時折壁がコツコツと鳴って、それがうるさいという合図なのだと気がついた。その一方、本人はルールを守っているつもりでいるのか、朝の七時から夜の八時まで、ラジオからクラシック音楽やら、講談や落語が絶え間なく壁を這うように聞こえてくる。
無視し続けようか迷ったけれど、外に飛び出した。そして隣室のドアの前で深呼吸すると勢いよくインターフォーンを押した。一切応答なし。ドアを叩いてみた。これもなし。
「少しラジオ止めてください。地鳴りのようで神経が休まらないし、咳も止まらなくなりますから」
突然、音がやみ、すぐにドアのむこうで「ドアを叩くのはやめろ。警察を呼ぶぞ」とかすれた声がした。
「いくらインターフォーンを押しても出て来ないからしかたがないでしょ。お宅の方が、朝からずっとなんですから、ときどきとめてください。そうしないとこちらも病気になりますから」
「そんなことは知らん。気に食わなければとっととでていけ」
「それを守れないなら、こっちも警察をよびますから」
こんなつもりではなかったけれどコントロールがきかない。突然、背後で声がした。振り返ると見知らぬ老婆だ。
「およしなさいよ。年寄をいじめるの。あなたの声の方が近所迷惑よ。キンキンと鳴り響いてるんだから」
友人なのだろうか。言葉がつまってじっと睨むと「お互い様なんだから、我慢しなくちゃ」それだけいうとさっさと行ってしまった。そのうちにサイレンの音が近くなり、アパートの前でとまった。
結局、琴音は若い警察官に事情を聴かれる羽目となり、一時間ほど寒い外に立って答えたのだが、終えて熱い風呂に入っても、怒りと屈辱感は消えなかった。まるでこっちが加害者のような、警察官の態度もきにいらない。
「何分お年寄りだから、そのへん、大目にみていただかないとね」
「おおめにみろって、一日中かけっぱなしなんですよ」
「一日中ではないでしょ。夜の八時には消しているそうだし、うるさいのはあなたのほうだって言ってますよ。夜中までバタバタと音をたてているといってますよ」
警察官とのやりとりがぐるぐるまわっている。好奇心で集まった野次馬たちも気に食わない。多分アパートの住人たちだ。普段は知らんぷりでゴミもだらしなく出しているくせに。ゴミ集積場だって、いつも掃除をしているのはこのあたしなんだから。オーディションに受かっていたらこんなアパートともおさらばのはずだったのに、やりきれないったらない。
これで踏ん切りがついた。だけどどこに引っ越せばいいのか。貯金をへらすわけにはいかないし、そうだ。教祖に相談してみよう。何か便宜を図ってくれるかもしれない。時計をみると十二時を回っていたけれど、両手を合わせて祈った。
翌朝、スマホを開けて驚いた。堀切からのメール。慌てて開くと、何も心配いらない。道場に行きますと書かれてあった。早めに出社すると新入りのスタッフに、堀切が応接室に来てほしいと言っていると告げられた。
「探す必要なんてないでしょ。ここに住めばいいんですよ。空き部屋がありますから、どれか一つをえらんで自分の居室にしてかまいません。もちろん無料ですよ。通勤しなくていいし、便利だし、こちらも助かりますよ。すぐにでも引っ越してきたらいい」
堀切に感謝して、そうさせてもらいますと答えて会長室をでたものの、内心あまり気が進まない。緊急の際の臨時の避難部屋は、買い増しして奥行きが広くなった分、昼間でも薄暗かったし、当然日当たりもよくない。冬の寒さは体験しないでもわかる。それでも、今はつべこべ言える状態ではないよと不満を呑み込んだ。
家賃五万円が浮くのはやはり大きいし、新たに加わったガーネットのローンもある。ここはまず堀切の誠意にすがるしかないと覚悟を決めた。
琴音が選んだのは小さな中庭が見える部屋だ。ベッドを組み立て、タンスとライティングデスクを置くと、部屋の雰囲気も様変わりして、晴れ晴れとまではいかないもののなんとか部屋らしくなってひとまずほっとした。
日課は、朝食をすませ八時半から道場の掃除。それから最近入会した二人の男性スタッフとともに、SNSを通して独自の広報活動を行う。琴音の仕事はもっかブログの更新とツイッターへの書き込みだ。堀切からは勧誘が目的と思われないようにと念を押されている。会員の継続とともに、重要な仕事はサークル活動を通じての新会員の確保だ。
費用対効果の薄いマスコミ宣伝はさけて、地域ごとに各種サークルを設け、活動を通して新会員を増やしていく。講座は無料だ。運動系から、カウンセラー入門、話し方。生活にとりいれる哲学等々。
数年前から実施して、受講生はそれなりに増えているものの、会員に移行する割合いは今一つというところなので、どのようにしたら会員を増やせるかが目下の課題となっている。そして数か月前に、アンケートが会員間で実施され、結局服部の案が採用された。
発案者の服部は、しばらくして山梨支部の支部長に抜擢された。其れを聞いた時、琴音は正直穏やかではいられなかった。最近、こうしたアンケートが実施されるたびに、人事異動がなされていくからだ。
ほんとのところ、困っている人を救済するために、支部を増設し続けることが必要なのかどうかはわからない。というのは、いつのまにか会員間で出世をめぐって分裂が起き始めたように感じたからだ。
最近、誹謗メールが増え始め、その内容も会の発展のためというよりは、単なる嫉妬にすぎないと感じるものも多くあって、其れを読むたびに、この先どうなるのだろうと怖くなったりもする。悩みは内部ばかりではない。外でも火種を抱えていた。
支部の増設にともない土地を確保するとかならず地元住民との間でひと悶着起きた。担当の弁護士がいかがわしい宗教団体ではない。悩みをかかえる人たちが、自活していける村を創設するだけだと説明しても、即刻でていってくれの一点張りだ。さらにはメールで出ていけコールを繰り返す。そうした彼らに対応するのも琴音の仕事で、最近では応対しないで削除しているが、ストレスは続いて、朝、起きても全身が重いし、眼球の奥がズキズキして目を開けると泣いたように涙が流れてくる。
溝口にこぼすと心配してくれて、
「全部抱え込もうとするからよ。スルーする逃げ方を学ばないと身が持たないよ。で俳優の方はどうなの。仕事あるの」
そう返されて、忘れ物に気がついたようにハッとした。俳優の仕事が入った時には、休む許可はもらっているものの、残念ながらその機会を利用する仕事の話はない。それでも、まあねとかわした。
「そう。目標があるのはいいよね。こっちもいろいろ大変なのよ。時々、見えないノルマに潰されそうな気がする時があるのよ。やるきのない人間を動かすんだから簡単じゃないよ。競争がもともと苦手な人の集団なんだから。でも彼女は教祖の信頼が厚いし、頑張っている」
その言葉に胸がざわついた。誰よりも信頼されているのは自分。そう思いこんできた。服部がそこまでくいこんでいるなんて知らなかった。それがひどいショックだった。堀切は会員すべてにとってシャーマンのはずだった。そしてその禁を破ったのは服部だった。この事実が思いのほかのしかかっていた。そうした中、道場の仕事を終えようとしていたら堀切がやってきた。
堀切はなぜか突然現れる。くると決まって仕事の進捗状況を尋ね、解決しなくてはならない事柄を尋ねてくる。ところがその日はつくなり、
「なんだか誤解されているようですね。僕は誰かをひいきにしたりするような真似はしていません。適材適所、各自が能力を発揮できるような配置転換をしているだけです。異動は昇進ではありませんからね。各自、ふさわしい役割を果たしてもらっている。そのことを忘れないでください」
フリーズしたように直立不動の琴音をみて堀切は軽く笑うと、
「そんなに驚くことではないですよ。スタッフの気持ちにも気づかないようでは教祖として失格でしょ。ところで夢里きららは息を吹き返しましたね。彼女は現代のドラキュラだ。血ではなく同情を食べて生きながらえた。でも無傷ではない。一度まかれた疑惑はつきまとうし、本人もまた似たようなことをしでかすものです。すぐに次の手を打つべきですね。それは彼女のためでもありますよ。次の罪を犯してしまわないうちにね」
いつもの淡々としたおちついた口調についうなづきかけた。
「正直、今は何もうかびません。むしろ彼女を操っているプロダクションの方が問題だとおもってます。でもわたしには巨大すぎて、手に負えそうにありません」
「マネージャーは城山とかいう男性でしたね」
「ええ…彼がどうかしたんですか…」
「かなりの野心家ですね。望むものを手に入れるためにはどんな手段もいとわないタイプだ。ちょっと気になる噂があるんです」
「きららに何か関係があるんですか」
「彼の知り合いに日本一の富豪といわれている元医師がいて、これが影でいろいろやっているんです」
ふいに、頬を冷たいナイフがさすった。
「医師は薬が手にはいりますからね」
「薬って、ドラッグということですか」
「大麻ですよ」
心臓を一突きされた。
「夢里きららも吸っているんですか」
「それはまだわかりません。ただ彼が交友を利用して、横流しから利益を得ている可能性があるんです。芸能関係の患者も多くて、とにかく人脈が豊富ですから。城山もその一人です」
「その医師はなぜリタイアしたんですか」
「五年前に心臓手術を失敗して患者を死なせているんです。それまでにも複数の患者が死亡しているのが発覚して医師を廃業しています。富裕層を相手にしているから、これまでしっぽを掴まれずに来たんでしょう」
頭の中が混乱して、見てはいけない物を見てしまったような悪寒に襲われた。
「いいですか。あなたにとって悪の根源を絶つ絶好の機会ですよ。怖れる必要は在りません。夢里きららは、これからどんどん汚染されて、悪をまき散らしていくでしょう。人気がでればでるほど、それを失う怖れがでてきて、無法な行為に走るようになるんです。彼女は今危険な領域に自分が踏み込もうとしていることにきがついていません。彼女にそれを思いとどまらせる。それができるのは琴音さん、あなたなんですよ」
表情一つ変えず、まるで重要なレポートを読み上げるように続ける姿を前にして、堀切が新たな使命を自分にかせようとしているのに気がついた。 ドラッグ汚染は今に始まったことではない。それをほじくり返したところでどうなるというのだろう。もしかしたら所属プロダクションにも及ぶ可能性すらある。
「いいですか。怯える必要なんてありませんよ。恐怖や不安は何も生みだしません。あなたを損なうだけだ。行くてを阻もうとする不当な輩は排除する権利があなたにはある。多分、医師と関係者だけが逮捕されるだけで、プロダクションも謝罪して終わりです。琴音さんが行動を起こさない限り、何も変わらない。きらら個人に天誅をくだすことで、結果的にはプロダクションの浄化につながるんです。そしたら琴音さんの夢も実現するはずです」
排除する権利、天誅。夢の実現が、棉あめ機の中でくるくる回っている。正直、自分がどこに向おうとしているのかよくわからない。ただわかっているのは、堀切がなにもかも見通し、誰よりも自分を理解し、親身になってくれているということだ。
「僕の信条に賛同して、情報を提供してくれる人が沢山いるんです。たぶん情報網はあなたの想像以上でしょ。城山についても教えてくれました。一緒に悪を排除して、公平で住みやすい理想の王国を築いていきましょうって、あなたを応援してくれているんですよ。」
バタバタと廊下を走る音で目が覚めた。
昨夜遅く帰っていった堀切が忘れ物でもして戻ってきたのかと慌てて起きあがると、東の空がうっすらと明るんでいる。時計をみると午前五時半。誰もいないはずの廊下にパジャマ姿の男の子が立って、驚いたようにこちらをみつめている。
「おはよう。君は、どうしてここにきたの」
「…」
少年はイタズラをとがめられたかのように、慌てて、空室となっているはずの部屋にはいっていった。どうやら訳ありの失踪者が泊ったようだ。ここしばらく利用者もなくてほっとしていたのに、事情があってなのだろうけど、不満が寝起きの頭の中を駆け巡る。ここにきて仕事は増える一方だ。
いったい、誰が連れてきたのだろう。いずれにしろグズグズしてはいられない。琴音は洗面をすませ、キッチンに立った。生活が落ち着くまでしばらく、面倒をみなくてはならないのだろうか。事情を聴きにいこうか迷っていたら、さっきの少年が着替えて再び姿を現した。顔は洗ったのかと尋ねると首を横に振ったので、再び洗面室にむかい、未使用の歯ブラシにペーストをのせて渡すと勢いよく歯を磨き始めた。
どうやら一通りのしつけはしているようだ。タオルを渡すと勢いよくふき、空いている椅子に座ったので、子供用の食器を引っ張り出して、即席の味噌汁と卵焼きで一緒に朝食をすませた。
名前は真淵裕太。年齢は五歳。母親は綾乃。卵焼きをおいしそうに食べながら、パパがママをぶつからと話し始めた。父親は常に家にいて定職につくことはなかったらしい。かわりにママが昼も夜も働いていると答えた。小さな手にタバコをおしつけたような火傷の跡がある。似たようなケースは何件かみてきている。どうしてここにきたのと質問を向けるとタクシーに乗ったら、運転手さんがここならただで泊めて止めてくれるよといったという。
ここでまた謎解きが始まった。運転手さん誰かとスマホで話していなかったかと尋ねると勢いよく頷いてみせた。スマホを取り出すと、予想通りメールが届いていた。
服部早紀子からだった。連絡もしないで勝手にしたことを詫びた後、堀切から許可をとってあるので安心して預かってほしい。連絡があると思うから指示に従ってほしい。謎だった運転手も会員であることがこの時わかった。わかったからといって、どうなるというのだろう。再び押し付けるつもりだろうか。すんなりと筋が通ると、不満がぐずぐずと煮え立っている。
心身ともに疲れきっているのだろうと推測して起こさずにいた母親は、九時近くになっても姿を見せず、さすがに不安になってきていたら、その不安は現実のものとなった。四〇度の高熱が出て、近くの急遽病院に運ばれる騒ぎとなった。
一段落して、結果を堀切にメールで報告すると、しばらくしてなぜか服部から、
「教祖から連絡受けました。病気ではなくてほっとしています。多分疲れ切っていたのでしょうね。しばらくの間お世話、よろしくお願いします。病状が回復したら、これからのことを検討しますから」
スマホを切っても、落ち着かない。どうして、なぜが先を争い交互に浮かんでくる。服部に指令を仰がなくてはならないなんて、つまりは降格ってこと?そんな気持ちを払うかのようにメールを送る。
― 的確にてきぱきと仕事をこなす服部さんには驚いています。さすが支部長になられただけありますね。頭脳明晰にますます磨きがかかって羨ましい。こちらは肉体労働一色にそめられています。この差は日頃の行いの結果なんでしょうかねぇ。
返信メールがすぐに届いた。
― わたしも暗闇の中、懸命に頑張っています。頭脳明晰なんてとんでもない。失敗続きです。でもそれが楽しい。自分の生きる場所はここしかないと気がついたんです。不幸な人を救い、彼らに希望を与え、幸福へと導く。すごくやりがいがあります。世界平和って、人間一人一人の幸わせの上にあるものでしょ。それをずっと追い求めていきたいです。無理解の両親をもったおかげで、今回の決意が出来たんですから、不幸も捨てたものじゃないですね。
堀切からは一週間すぎても連絡はなく、琴音は母親の入院先の病院に男の子を連れて訪問するのが日課となった。窓からはモミジがみえて見舞客まで癒される。それに四人部屋の病室には他にもう一人患者がいるだけで、気兼ねがいらないのか、綾乃は初対面ではみられなかった別人のような明るい表情を浮かべるようになった。いっぽう息子の裕太はといえば、気を使っているのか、はたまた別の理由からか二人が話している間、冒険の旅にでたごとく、院内の探索にでかけて戻ってこない。
「ほんとにこんなに良くしてもらって、申し訳ありません」
ひたすら頭を下げる女性の左まぶたが黄色く変色し、腫れがまだ残っていた。多分夫に顔を殴られたのだろう。真淵によると、夫は決して暴力的な夫ではなかったが、転職を繰り返すうちに、働く意欲を失い、アルコールに浸る日が増えていった。いったん酒が入ると暴力を振るい始めた。事件当日は特に酷く荒れて、とりかえしのつかない事態になるのを怖れ、夜中にもかかわらず子供を連れて逃げたそうだ。
できたら離婚して自立したい。就職先が決まるまで道場に仮住まいさせてもらえることになって感謝していると付け加えた。
琴音は黙って耳を傾けていたが、堀切からの指示はいまだない。こちらから連絡をしようかとも考えたが、気乗り薄が見破られそうだったし、服部の手前それもできない。今回はそれができないまま、担当医師から数日後に退院できるとしらされた。感情が打ち寄せては引くを繰り返して、道場に戻っても仕事が手につかない。そんな折、夜、溝口から電話がかかった。
いつもの「どう元気」ときりだすのを待ちきれずに、鬱積を詰め込んだ風船が炸裂した。溝口は聞き終えると、長い息を吐きだしてぽつんと「そろそろかもね」といった。
なにがそろそろなのかと聞き返すと、思いもしない話がと飛びだした。
「表向き寄進も資産の没収もないといっているけど、自主的にそういう気持ちにさせている向きがあるわけ…最近ね。資産がないかわりに労働奉仕をさせられているってビンビン感じるのよ。だから今が潮時かなって…琴やんも早く出た方がいいよ。そのうち染まってぬけられなくなるから」
溝口はすでに退所届をだしたとかで、郷里に戻る前に送別会を開こうということになった。溝口の決意を聞いて琴音の迷いも消え、真淵綾乃が退院したらすぐに行動に移そうと考え始めた。
医師の説明通り、それからまもなくして退院した真淵綾乃は、いろいろとご迷惑かけてすみませんとぴょこんと頭を下げた。自信なさそうなそのおどおどした様子といい、痩せた体躯は三十二歳にしては幼くて、息子の裕太が弟にみえる。
しばらく道場ですごさせてもらい、落ち着いたら甲府の支部に移るようにいわれているとはにかむように笑ってみせた。其れを聞いて琴音も踏ん切りがついた。
ここを出るつもりでいること。必要なことは書いておいたので、わからなかったらそれを読んで参考にしてほしいと。綾乃は一瞬、驚いたようだったけれど、これといった言葉も返さず、黙ってペコリと頭を下げた。やれやれこれで片付いた。窓が大きく開き、どっと新鮮な空気が流れ込んできた。堀切には、長年住まわせてもらった感謝と、真淵がすっかり回復したので、住まいを別にして今後も仕事に励みたいとメールで知らせておいた。
後は引っ越すだけ。家賃なしの物件を幼馴染のミサキがみつけてくれた。西武池袋線で池袋から三十分ほどの埼玉県にある築六十年の木造住宅だった。家具はそのままで、家と庭を管理してもらえる人を捜していると不動産屋から聞いて、バタバタと話がまとまった。
建物はかなり古く、二階の和室には天井に大きな雨漏りのシミがあったり、畳の一部がペコペコとへこんだりしているが、厨房セットもまだ使えるし、お風呂もタイル張りで広めだ。少なくとも二部屋はなんとか使えそうだとわかるとすぐに決めた。
予想もしない掘り出し物に出会って心が軽い。ずいぶんひさしぶりだ。荷物も少なかったので赤帽に頼み、その日のうちに整理もすみ、手入れのされていない雑草を二人で刈ったら、予想した通りそれなりの体裁が整い家らしくなった。その夜、ミサキと二人でささやかな転居祝いをして、日頃のうっぷんを晴らしながら朝方まで大いに盛り上がった。そしてこの時、二人を取り巻く未来は明るいと本気で信じたのだった。