ブカツ
アラームが鳴る。
深くにあった意識が無理やりに浮上して、身体は反射的に反転する。
ベッドのサイドテーブルに腕を伸ばす。
アラームを鳴らすスマートフォンの機能を解除して、やっと、意識と身体が繋がった。
わたしは唸る。掛布団に埋まって縮こまる。
夏が近づき、日に日に濃くなる夜の暑さで、背中に汗が滲んでいた。
そのまま眠ろうとするわたしに、二度目のアラームが鳴る。
——『6時35分』
わたしは、スマートフォンの画面を力いっぱい睨む。
のそりと、身体を起こして、目を擦る。
どうして、休日なのに、こんなに早く起きなければならないのか。
朝に弱いわたしは、不満に満ちた頭を叩き起こして、ベッドの外に足を踏み出した。
歯を磨き、顔を洗い、制服のシャツに腕を通す。
休日なのに制服を着るのは、寝ぼけているのではない。
妖に、学校へ来るよう言われたのだ。
***
「遅い、遅すぎる!」
校門前で先に待っていた妖が、お決まりのように吐く。
しかし、その溌溂としたテンションについていく元気はない。
「ごめんごめん」と適当な返答をする。
「早くするぞ」
制服姿の妖は、校内をずんずんと進んで行く。
遼ちゃんにもらった服が、この学校の制服でよかったと思う。
妖はどんな格好でも堂々としているに違いないが、一緒にいるわたしがそれでは困るのだ。
たとえば、着物のまま構内を歩き回られて、一緒にいるわたしまで変人扱いされるのはいやだ。
「学校に何があるっていうの?」
目的を持って、前へと向かっていく妖にわたしが尋ねると、妖は無邪気に笑った。
「ブカツ、だよ!」
そのまま妖は一点の迷いもなく、体育館へ乗り込もうとする。
わたしは、ぎょっとして玄関で妖を引き留めた。
扉一枚隔てた向こう側で、掛け声とボールが弾む音が響いている。
妖がしたいことは理解したけれど、このまま体育館に突撃されたらたまらない。
「長谷さんの練習を見学に来たのね!
でも、あんたもう、人に見えるんだから、正面から乗り込んだら怪しいに決まってるでしょ!」
大いに慌てるわたしとは反対に、妖は落ち着いていた。
「分かっているよ。裕子の邪魔をしてはいけないからな。こっちだ」
妖は、二階へと続く階段をすっと指差した。
妖の後ろについて二階に上ると、卓球台が四台設備されているだけの狭い空間に出た。
その足元には、横長の細い窓が設置されていて、そこからは、下の階の体育館が見渡せる。
「ここからなら、裕子たちは気付かないだろう!」
妖は得意げに言った。
妖の隣に腰を下ろすと、窓は丁度身体と同じくらいの高さだ。
その小さな窓の前に、わたしと妖は二人で並んでいた。
わたしたちの周りには、積みあげられた段ボールや、照明の器具などがあり、
確かにわたしたちの姿は上手く隠れていることだろう。
「ていうか、わたしを呼び出してまで、ここで何がしたいの?」
「ああ。呼び出したのは、作戦を一緒に練ろうと思ったんだが、
その前に裕子のブカツを見届けないといけないからな。俺の習慣なんだ」
「それって……わたし来る必要なかったんじゃない?」
「お前がいなくて、また屈強な男どもに囲まれたらって、思うと、その……困るだろ!」
妖はむきになって縮こまる。
どうやら妖が無意識に変な事をしでかさないように、わたしは呼ばれたらしい。
「そもそもは、お前が俺を見えるようにしたんだから」
そん付け足すように言ってきたので、わたしはそれ以上を追及できなかった。
わたしだって、どうしたら妖が元に戻るのか、
昨日からいくらだって考えてはいたけれど、答えが導き出せるわけはない。
そもそも、なんで妖が見えるようになったのかも、分からないのだ。
体育館に響く音は、わたしたちのいる二階の部屋にもやってくる。
鋭い音を発し、真剣にボールを打ち込むバレー部員たち。
その体育館の外側では、休日の穏やかな朝の時間が流れている。
朝の光に照らされた、体育館の床や、埃や、部員たちを、わたしと妖は眺める。
その中には、凛とした声を張り、機敏に動く長谷さんの姿がある。
バレーボールの知識に乏しいわたしにも、長谷さんの上手さは伝わる。
あの細い腕から繰り出される、空を切るような力強いサーブに、
「かっこいい……」と思わず声が漏れると、
それを聞き逃さなかった妖が、わたしを見て表情を柔らかくした。
何か言ってくるのかとわたしは身構えたが、妖はそのまま体育館を向き直す。
***
わたしたちに会話はなくなっていた。
どれほど、練習を見つめていたか分からない。
見学にも飽き始めているわたしに対して、
妖はいつまでもきらきらとした瞳で、長谷さんを眺めていた。
今だって、わたしは妖に視線を向けているというのに、妖が気付く気配はない。
わたしはもう一度、練習風景に集中しようと、正面を向き直す。
その時、視界の端に、何かがちらついた。
指ほどの大きさと蛇のような形で空に浮くそれは、
わたしの右肩の方にいて、ゆっくりだが近づいてくる。
妖の一種だった。
わたしは蛇のようなそれと触れ合わないように、
さりげなく後ろに身体をずらして、わたしの前の方に通り道を作る。
「お前、何避けてるんだ?」
長谷さんばかり見ていたはず妖に、声を掛けられて驚いた。
そして、こう付け足される。
「もしかして、こんなのが怖いのか、お前」
「こ、怖いわけじゃない」
わたしの声は戸惑いに、ふるえていた。
怪訝な表情を浮かべる彼だって妖なのだから、
あの蛇みたいなやつが見えるのだって当然なはずだ。
でも、誰かと妖に関する会話をしたのは初めてだ。
蛇みたいなやつを手に乗せた妖は、誘導するように、窓へと手を持っていく。
「こいつ、窓から出たいんだ。多分、壁は抜けられないんだな」
蛇みたいなやつは、細かく身体をうねらせながら、窓の外を抜けて、ゆっくり進んでいく。
「お前、変なやつだ。俺にはあんなに堂々話しかけてきたのに」
屈託なく笑われて、わたしは返事が出来なくなる。
あの時、話しかけられたのは自分にとっても想定外だったのだ。
しかし、わたしは、ある事に気が付く。
「ていうか、わたし、長谷さんが風邪ってあんたに伝えたよね。
なのに、なんで次の日学校いたの?
学校に行ったって、長谷さんは来ないに決まってるじゃない」
妖は目をぱちくりさせて、答える。
「え? ああ。そういえば、お前、なんか変な事、言ってたな」
「変な事って!」
「しかし、変わらないよ。俺には、それしかやるがことなんだ」
ふっと目を細める妖に、なんだか上手く言葉が返せなかった。
自然と、口がきゅっと閉じる。
少し間を置いて、疑問をぶつけてみることにした。
「ねえ。どうして、長谷さんのこと好きなの?」
「は、はあ!?」
大声が、部屋に響く。
爆発するような声に驚いて、「静かに!」と息を飛ばす。
しかし、明らかに動揺している妖は、興奮のままに声を荒げる。
「俺は、裕子を幸せにしたいだけであって!」
「もう、うるさいってば!」
「だって、お前がいきなり変な事をいうから」
「変な事じゃないし。
こんな、休日の部活まで見に来て、ストーカーみたいに追い回してるじゃん」
「ストーカー! 違う、俺は、裕子を見守っているんだ!」
「好きじゃなかったら、あんな風に、見つめないし……」
「お、俺はなあ! 長谷の家を見守るって決めているのだ!
裕子だけじゃない。裕子が生まれる前から、長谷の家を……!」
妖は弁解しようとしているのだろうが、正直わたしは引いた。
「裕子の祖母の玲子が、まだ二つの足で立てないような頃を知っているし、
次に産まれた彩芽が育ち、縁を結び、裕子が産まれるときも見てきた」
妖怪ともなると、ストーカーの質が上がるらしい。
「彩芽とその夫が、亡くなった時も……」
そこまで言ってやっと、妖は落ち着きを取り戻した。
長谷さんが中学生の時、両親を事故で亡くした話は、高校でも密かに噂されていた。
帰る家を失った長谷さんは、今は父方の祖父母と暮らしているらしい。
多くの苦労はあったのだろうが、
直接聞いた話でもないので、可哀そうだと勝手に憐れむ事はやめていた。
「裕子は孤独だと、嘆き泣いていたが、俺はその隣にずっといた」
妖はしんとした瞳でそう言った。
体育館から聞こえる音に、長谷さんの声が混ざっている。
わたしは妖をからかうことをやめて、もう少し練習を眺めることにした。