昔の話
幼い頃のわたしは走っている。
靴はもうぼろぼろだ。
それでも、一人だと分かってしまうのが怖くて、見知らぬ森を駆けた。
それは、小学一年生の夏休み、わたしにまだ、妖を見る力がない頃のことだ。
その日、わたしは家族旅行で、隣の県に訪れていた。
アウトレットや牧場を巡り、最後に、初心者にも登りやすいという山に向かうことにした。
観光地というくせに、人気のない山道の中、
わたしはすぐに疲れ切り、不機嫌に皆の後ろを歩いた。
姉や父に励まされても、わたしの機嫌は直らないので、
家族はわたしのご機嫌取りを諦めたようだ。
家族は黙々と山頂を目指し、わたしもわたしで、自分の足元ばかりに集中していた。
それがいけなかったのだ。
気付けば、わたしは山の中に一人。
しかも、山道からも外れた森の中にいた。
わたしは、走った。
生き物の気配を全く感じない、山の中が怖かった。
四方どこを見渡しても、延々と木々と草花が続く場所にいた。
どれだけ走っても、まるで景色が変わらない。
ついに涙が瞳を潤して、泣き喚く寸前のことだった。
ずっと同じような景色の中を走ってきたのに、いきなり視界が開けて、草原へ躍り出たのだ。
不思議な場所だった。
爽やかな風が、わたしの濡れた前髪を揺らした。
草原の中に、立派な巨木が立っている。
わたしはふらふらと巨木へと近づいた。
巨木の根は、地上に大きく晒されていて、わたしはその隆起した根に腰かけた。
泥まみれの足を休めて、息を落ち着かせる。
少し休憩するだけのつもりだったのに、わたしはそのまま深い眠りに落ちていった。
目が僅かに開くと、光が手元でちらついた。
それが一体、何なのか分からない。
薄く開いた視界に、魚のような光が泳いで、消える。
わたしは異変に気が付き、慌てて辺りを見渡した。
有り得ない光景だった。
見たことないような生物たちが、わたしを取り囲んでいたのだ。
驚きに叫んだけれど、その生物たちは、わたしを襲うことなく、
手足なのかも分からない身体の一部をしならせて、何かを伝えようとしていた。
お餅みたいな白くてまるい身体だった。
「そっちが、帰り道なの……?」
なぜか、わたしにはそのような気がしたのだ。
お餅みたいなその妖は、頭を頷かせた。
わたしは腰を浮かせた。
その時、
――お行き、お行きよ。
誰かの声がして、わたしは振り返った。
とてもやさしい声だった。
けれど、振り返っても、美しい巨木と、お餅みたいな妖たちがいるだけだ。
お餅みたいな妖は、わたしの周りを囲って、
励ますように身体をうねらせたり、草原の先でおいでおいでと手で招いたりしていた。
さっきの声は、もしかしたら、巨木からしたのかもしれない、そう思った。
でも、真実を確かめる方法はなかった。
お餅の妖が示した通りの方向に進むと、しばらくして森林を抜けた。
山のふもとに出たと思えば、そこにはわたしを探していた家族がいて、
わたしたちは無事に家族と合流することが出来た。
あれほど、長い時間を感じたのに、
家族がいうには、わたしが消えたのは、ほんの一時間ほどだという。
そして、この日以来、わたしは妖を見ることが出来るようになる。
妖が見えるようになったばかりの頃、妖は、わたしにとって暖かい存在だった。
家族のような、友達のような。
けれど、わたしにとっては暖かな存在でも、他人にとっては違う。
妖が見えると言い張るわたしを、家族は気味悪がり、学校では嘘つきだと指を差された。
妖が見えるなんてことは、人に言うべきことではないのだと知った。
誰かに分かってもらいたい気持ちや、
分かってもらえない怒りみたいな気持ちは、すぐに手放した。
みんな自分の世界を守るために、
見えなかったり、聞こえなかったりするものは、認めたくないものだ。
そして、わたしも自分の世界を守るために、妖と関わることをやめていった。
今になっても、あの声の主が誰だったのかは分からない。
やわらくて、優しい、男の人の声——。