妖の願い
結局、その後、学校へ行くことを選択したわたしだ。
妖を放置してしまうことに、後ろ髪を引かれる想いもあるが、出席は大事だ。
正直、授業はまったく身が入らなかったが、
流れる時間は早くも遅くもならず、教室はいつもの日常を刻む。
やっと全ての授業が終わり、校門前の小道に駆け付ければ、
電信柱の隣で身を潜める妖がいた。
今朝も頼りなさそうな様子だったが、
今度は膝まで抱えてしゃがみ込み、手先で小石をいじっていた。
「ほら、行こう」
わたしが呼びかけて、妖が顔を上げた。
また泣きつかれると思ったのに、顔を上げた妖は、
いつもバス停の屋根で見かけていた、色味のない表情を浮かべていた。
その静けさに、わたしは息を呑んだ。
しかし、それは一瞬の出来事だ。
妖は顔をみるみる歪ませて、
「遅い、遅すぎる!」と騒ぎ立て始めた。
あの儚げな面影は、妖の顔に一滴も残っていない。
「とりあえず、あっち」
わたしが、小道の奥を指さすと、妖は素直に従って、腰を上げた。
——と、思った。
妖は勢いよくわたしの横を飛び出てジャンプをし、
前方にあった大きな水溜りに躊躇なく着地したのだ。
突然のことに絶句して、同時に跳ね返った水が腹のあたりを濡らす。
ぎゃ!!
と声を上げようとして、妖のいたずらな笑い声の方が早かった。
「来るのか遅かった、仕返し」
「くそがき……」ひくつくわたしの口端から、罵倒が漏れた。
それから、妖は機嫌を直したのか、得意げな顔でわたしの指示した道を歩いていく。
わたしの濡れた腹より、妖の足元や白い着物の方が汚れて、被害に遭っているというのに。
やっぱり、この妖は変なやつだ。
***
向かう目的地は、決まっていた。
バスや電車の移動中は、着物を纏う妖がとにかく目立って、
隣にいるわたしもひどい注目を浴びたけれど、
時間をかけて、やっと妖を連れてこられた。
そこは遼ちゃんの家だ。
一軒家のインターホンを、迷わず連打する。
遼ちゃんの家は両親が共働きなので、
この時間、家には遼ちゃんだけということは、把握済みなのだ。
扉が開き、寝間着を着た遼ちゃんが出てきた。
「ふざけるな、えなり、このやろう。って、え、誰こいつ」
遼ちゃんが、妖をじろりと見やる。
「いや、それが、お願いしたいことがあって。家上げてください」
「こら。風邪、うつるし、だめだよ」
「元気で一日ゲームしてるくらいなんだから。大丈夫だって!」
わたしが引き下がらないと分かって遼ちゃんは結局、自室までわたしたちを上げてくれた。
どうして、わたしは、遼ちゃんの家に来たかというと、
「服を貸していただけないでしょうか!」
ということだ。
とりあえず、妖の服を何とかしたい。
目立たなくすることが先決だ。
ちなみに、わたしが妖に服を買ってあげるなんて、お小遣いの余裕はない。
「はあ? なんで。ていうか、そいつ本当に誰」
「え。えーっと、この子、その、うちの学校の演劇部なの。
そう、それでこの格好しるんだけど、どうやら、
着替えの服、なくしちゃったみたい、なんだよね」
いくら遼ちゃんでも、さすがに怪しがるか。
案の定、遼ちゃんは変顔かってくらい大胆に、怪訝な顔をしている。
まあ、そんな反応も当然だ。
だって、たった今考えた適当な言い訳だし。
一方で妖は、他人事みたいに遼ちゃんの自室の入り口でわたしたちを眺めていた。
今まさにわたしは妖のために慣れない子芝居をうっているというのに、
当人の妖は、喋ろうとしなければ、動くこともない。まるで幽霊みたいだ。
ずっと眉間に皺を寄せたままの遼ちゃんが、観念したって態度で、
深い溜息を吐いて、眉間の皺を緩めた。
「もういいや。えなりの好きにすれば。
ていうか、えなりの話だと、失くしたのって制服って事だろう。
ただの服じゃ意味ないじゃん。いいよ。
一年生の時の制服、もう小っちゃくて着れないし。やる」
遼ちゃんが、部屋のクローゼットを探り出す。
その間も立ち尽くす妖を、わたしは小突いた。
「もう、いつまでぼうっとしてるんだ。
ほら、服貰えるって! ……制服になっちゃったけど。
まあ、よかったじゃん。はは……」
妖は、ゆっくりとわたしの方を向いた。
声を掛けられたことに、驚いたみたいな顔だった。
それから、妖は遼ちゃんの方をやっと見た。
「ありがとう」
妖の小さな一言。
遼ちゃんはその言葉を逃さず聞いていて、クローゼットから顔だけ出すと、優しく笑った。
小さくなったのだという制服は、妖にはぴったりだ。
妖はそのことに不満そうだったが、仕方がない。
遼ちゃんの成長期は凄まじく、中学では平均的だった身長が、
高校に入ってからもう十数センチは伸びている。
180センチだってそのうち超えるだろう。
「遼ちゃん、本当にありがとうね」
制服を受け取り、帰る支度を終えたわたしたちを、遼ちゃんは玄関まで見送ってくれた。
詳しい事を話せなくてごめんね、心の中で伝える。
届くはずもないのに、遼ちゃんは返事のような苦笑をして、
わたしの頭を幼い子にするみたいに撫でた。
「いいけどさ、あんま心配になるようなこと、勝手にするなよ? 協力はしてやるから」
遼ちゃんはいつだってそうだ。
わたしが言いたくないことを、遼ちゃんは訊かない。
そして、伝えていないのに、助けてくれるのが遼ちゃんだ。
妖が見えるということも、わたしは遼ちゃんに言っていない。
それでも、妖に付け回されて、怖い思いをした幼少時代、
泣いてばかりのわたしを慰めてくれたのは遼ちゃんだった。
さらには、中学生の時、夜道に現れる妖が怖くて、
吹奏楽部を休みがちになっていたところを助けてくれたのも、遼ちゃんだ。
帰り道が怖いと言ったきり、詳しい事情を話さなかったわたしを、
遼ちゃんは、「子供か」と笑い飛ばした。
それ以上詳しく問い詰められることはなかった。
そうして、遼ちゃんはその頃所属していたサッカー部の帰りを、
わたしに合わせて、一緒に下校してくれるようになったのだ。
そのおかげで、わたしはまた吹奏楽部に通うことが出来た。
高校に進学してからも、遼ちゃんはわたしの下校を心配して、
続けるはずだったサッカー部はやめて、わたしと同じ料理部に所属した。
さすがにその事は、やりすぎだと抗議したけれど、
無理にやっているんじゃないと、説得された。
こうして今も遼ちゃんとわたしが下校する習慣は続いている。
***
夜を過ごす場所は決まっているのだという、妖について夕暮れの道を歩いていく。
しかし、妖が「道」にいたのは束の間、
妖は狭い路地を通ったり、民家の塀を超えたり、……。
折角の遼ちゃんの制服が、もう汚れ始めたので、
わたしは妖に人間のマナーを叩き込むことになった。
そうして、「外では歩道を通れ」という当たり前のことを覚えさせた頃、
妖が足元を見つめて、考え込むような沈黙をつくった。
さっき、思い切り足を踏んでしまったのが傷むのだろうか。
それは、ごめんって。
妖は、不意に足を止めて、わたしの方を向きなおした。
「お前に、頼みがあるんだ!」妖が言った。
「頼み?」
「ほら、俺がこんなになったのは、お前のせいだろ。だから、俺に協力してくれ」
夕暮れの光を受けて、道によく伸びる妖の影は、
確かにわたしの足元まで届いていた。
妖が人に見えるようになったのが、
ほんとうにわたしのせいなら、わたしだって少しは申し訳ないって気持ちがある。
――けれど、それより。
拗ねたり、悪戯したり、かと思えば、幽霊のように静かになったり。
今は、わたしに憤る。
この妖はどういうやつなのか、わたしはそんなことの方が、気になっていた。
「いいよ」
何に協力するのか聞いてもいないのに、口が勝手に動いていた。
「ほんとうか?」
妖は無邪気に瞳を輝かせて、その爛々とした表情にわたしの調子はまた狂わされる。
「それで、何が頼みなの?」
「俺は……裕子を幸せにしてあげたい」
なるほど。さすが、恋する妖。
人に見えるようになったということは、
長谷さんにも存在を知ってもらえるということだ。
そう、ついに妖はチャンスを手に入れたのだ。
「じゃあ、長谷さんとあんたが付き合えるように、協力すればいいのね」
わたしは納得して言ったが、一方の妖はきょとんとしている。
「はあ? なんでそうなる」
首を傾げた妖の表情には、嘘は混じっていなかった。
「え、でも、裕子ちゃんを幸せにしたいんでしょ?」
「ああ。だから俺は、……
裕子に、恋人をつくってあげたいんだ!」