妖の声を初めて聴いた日
遼ちゃんが、風邪を引いた。
バスに乗るわたしのスマートフォンが鳴って、インフルエンザらしいとメッセージが届く。
夏にインフルエンザって、とわたしはメッセージを返すが、今年は学校でもじわじわと流行っているらしかった。
***
担任の先生が出席を取る。
先生が口を開くたび、下顎の肉がリズミカルに弾んだ。
生徒間で、「ポニョ」という通称を持つ先生だけど、その可愛らしい発音とは裏腹に、実際の先生はいつも気怠そうで、授業に雑談はないし、笑った顔は年に数度しか、お目に掛かれない。
朝のホームルームで、単調に点呼を取っていく先生だ。
流れ作業だけど、点呼が不意に止まった。
「長谷は、休みっと」そう、先生が言った。
そうだ。珍しく、今日は長谷さんが、朝のバスに乗っていなかった。
「インフルらしいよ」と隣の席の女子が、わたしに話しかけてきた。
先生が「風邪の予防を徹底するように」と軽く口添えをする間、わたしは長谷さんを探そうとする、今朝の妖の姿を思い出した。
しばらく妖は、長谷さんに会えない日々が続くだろう。
***
雨の中、妖が、長谷さんの姿を探している。
下校時、正門を出たわたしの足が止まりそうになって、慌てて前に出した。
いつも妖がいるのは、朝の登校時だけだというのに、今日は例外みたいだ。
下校する時は、登校する時とは違って、歩道橋は渡らずに、妖のいるバス停でバスを待つ。
バス停に近づきながら、わたしはさしていた傘を小さくずらして、地面から妖を見上げた。
しかし、雨で視界は悪いし、地上からでは、屋根に立つ妖の様子はよく分からない。
傘をさしたままでは上手くいかないことに気が付いて、わたしはすぐ正面を向き直した。
バス停の屋根に入り、傘を閉じた。
手で傘を折り畳もうとして、その手は知らずに失速する。
濡れた傘の水滴が、腕に垂れて、制服のスカートにも雨は染みる。
知らせてあげた方がいいのかな。
わたしの心が囁いた。
妖は、長谷さんが風邪で学校に来ていないことを知らないのだ。
ふくらはぎの筋肉がひ、くりと動く。
いや、そんなことしなくても、数日もすれば長谷さんも学校に来るだろうし、それに、妖には関わらないようしているのに。
わたしは、バス停の内側から天井に、視線を投げた。
いっそ、飛び出してしまおうか。
この天井の上にいる妖に、長谷さんは風邪だとそれだけ伝えればいい。
今も雨に濡れているだろう妖を思い浮かべて、わたしの身体は揺らめいた。
足が浮こうと、不安定な力が入る。
けれど、なぜか靴が重たく感じる。
閉じられた傘は重しになって、再び開くための掌は、スカートの横で弱々しく開いたり閉じたりするだけだ。
道の奥からバスがやってきた。
わたしは、何もすることなく、バスに乗り込んだ。
出発するバスの中、わたしはまた、妖を見つめることしか出来ないのだった。
***
本日のわたしは、不機嫌だ。
推しアイドルの新曲が出るからと、朝から姉に、CDショップにお使いを強引に命令されて、姉妹喧嘩の勃発だ。
容赦ない雨は降り続くばかりだし、加えて今日は風も強く、肌寒い六月の朝だ。
遼ちゃんは、引き続きインフルエンザで学校には来ないし、
……それは仕方ないけど。
でも、放課後の料理部は、遼ちゃんがいないので、後輩の班に混ぜてもらうことになった。
しかも、わたしが苺大福の苺を、盛大に床にばらまいたせいで、完成したのは、苺大福じゃなくて、ただの大福だ。
優しい後輩たちは、わたしの失敗を笑って茶化してくれたが、自分自身に腹が立って仕方がない。
このイライラを払うために、小ぶりになってしまった大福を持って、化学準備室に突撃する。
「せんせー、もうやだー!」
伊藤先生がびっくりしてわたしを見ると同時に、わたしは一気に愚痴を炸裂させた。
姉妹喧嘩のこと、止まない雨のこと、苺大福のこと。
しまいには、日あたりが悪い準備室や、風邪を引いた遼ちゃんの悪口大会だ。
「そんなに、イライラすることかあ?」
わたしが、愚痴を全部出し切ったのを確認して、先生が言う。
「ほら、ご飯足りてないから、そんななんだろ。大福食べろ」
「そんな単純じゃないです」
今日の紅茶は、先生が淹れてくれた。
わたしは大福を口に含んで、紅茶でそれを流し込む。
……美味しい、甘い。
単純じゃないと言いつつも、甘い餡子と暖かい紅茶は、わたしの心をほぐしてくれる。
しかし、先生の前でころりと機嫌を直すのは、なんだか癪だ。
「本当、辛気臭い部屋です。心までじめじめします」
「お前なあ……」
わたしは机に頭を預けた。
先生も特に気にするわけではなく、わたしが来るまで見ていたのだろう、仕事の資料に目を通し始めた。二人だけの空間には、雨の音が鳴っている。
わたしは倒した頭を反対側に変えて、窓の外を見た。
「こんな雨の中、ずっと立ってるって嫌ですよね」
「なんだ、今度はそうしろって、お姉ちゃんに命令されたか?」
「違いますよ。違うけど、わたしだったら嫌かなって」
先生は、困った顔をしているに違いない。
雨音に交じって、頭の上で、先生がカップを置く音がする。
「嫌かどうか知りたいなら、やってこればいいじゃないか」
先生が絞り出しただろう返答は、零点だ。
ただ息を吐いただけだのに、ため息みたいな音が響いた。
わたし、感じわるっ。
自分に言って聞かせるけれど、止めることは出来なかった。
「先生。わたし別に嫌かどうかを知りたんじゃないんですよー」
もっと辛辣なことさえ言いそうになって、語尾を伸ばして誤魔化してみる。
窓の外をわたしは引き続き眺めているが、雨粒の方が単調で冷静だ。
「自分がどうしたいかなんて、見ているだけじゃわからないよ」
ふいに、先生が笑った。
なんで先生は笑うのか、わたしには分からなかった。
分からないから、続ける言葉をなくしてしまった。
伏した顔を上げれば、机のティーカップと対面する。
ダージリンティーの重さを感じる匂いが、鼻先に圧し掛かっている。
「食べたら、早く帰れよ」
調子を切り替えた先生が、わたしにそう言った。
「えー、いいじゃん。もうちょっと、嫌味なわたしの相手してくださいよ」
「お前なあ。先生はいじめていいものじゃないし、それに、今日は遼がいないんだから。一人で夜道歩くのは怖いんだろ?」
「え。なんでそれ、知ってるんですか!」
まずい、という顔を先生がする。
遼ちゃんめ。先生に言ったな。
先生は即座に、はぐらかす作戦に入ったが、今さらだ。
しかし、確かに曇った空に夕暮れを忘れていると、暗くなるのはすぐなのだ。
わたしがこれほど不機嫌な理由――姉妹喧嘩の原因であるCDショップへのお使いは、まだ終わっていない。
つまり、暗くなる前に、CDショップに立ち寄たないといけない。
先生の言いなりは不満だけど、仕方がない。わたしは大福の最後の一つを口に含むと、先生への八つ当たりを軽くだけ謝って、準備室を後にした。
***
校舎を出ると、風の冷たさに身体が震えた。
わたしの学校の夏服には、長袖のシャツもあって、今日は長袖を選んで着ていた。
袖を出来るだけ伸ばして、わたしは傘を差す。
冷たい雨風の中に、妖は立ち尽くす。
今日のわたしは、妖を盗み見ない。
CDショップに寄るには、登校する時のバスを使った方が早いので、妖が立つバス停は素通りして、歩道橋の階段を上っていく。
長谷さんの欠席は、続いている。
これだけ毎日休んでいるんだから、風邪って気付いて諦めろっての。
わたしは妖に、心の中で悪態をつく。
やっぱり、今日のわたしはイラついている。
歩道橋の上を吹く風の音が、雨が傘を叩く音が、まるで雑音だ。
そういえば、イヤホンをしていないことを思い出して、わたしはスカートのポケットからイヤホンを取り出す。
ケースがポケットの中でつっかかって、水の溜まる足元に落ちる。
わたしは、それを拾い上げて、
――足は、逆方向へ走り出した。
頭がよく回らない。
わたしは何をしているのだろう。
しかし、身体は動いて、歩道橋を逆走すると、妖に近づき、雨も忘れて、濡れた手摺に飛び掛かる。
「ねえ!」
わたしの声が、わたしの中で大きく響いた。
そして、開いた口を確認して、本当に声を出したのだと自覚する。
あの子、風邪をひいて今日は学校に来ていないの。
そんな次の言葉を用意して、喉がまた、空気を吸い込んだ。
――それなのに。
妖と目が合った。
時が止まる。
妖の見上げた瞳が、わたしと同じだけの雨を映して、そこにいる。
「雨、濡れないの?」
発していたのは、用意していたのとは全く違う言葉だった。
どうして、真っ先に出た言葉が、それだったのか。
というか、わたしはどうしたいのか。
しかし、雨の世界に佇む妖の服や髪は、一切、濡れていなくて……。
――見えるの?
わたしは言葉を詰まらせた。
声、と心が囁く。
その日、わたしは初めて、妖の声を聞いたのだった。