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有野遼

手元に落とした視線はなかなか上がらず、気づけば、ノートに綴る文字が止まっていた。

先生の声が、なんだか遠い。

ゆるんだ指先を引き締めて、ペンを持ち直す。

授業に集中しようと意気込んでも、黒板の文字を板書するうちに、先生の声がまた遠くなる。

特に眠いわけでもないのに、ずっとこの繰り返しだ。


毎日見ている光景なのに、あの妖の横顔が、何度も頭の中で再生される。

変な妖。心の中で呟く。


顔も成績も平凡なわたしだけど、人と違うのは、妖を見ることが出来ることだ。

でも妖は見えるだけで、関わることは避けてきた。つまり、妖について詳しいことなんてない。

妖と呼んでいるのも、わたしが決めただけで、本当は彼らがどういった存在なのかも、分からないことばかりだ。人に話し掛けてくるもの、仲間と歩いているもの、飛んでいるもの、小さいもの、形すらなく靄のように彷徨うもの、姿も恰好も彼らは様々だ。

わたしが知っているのはそれくらい。妖に干渉することもないので、彼らが危険か、安全な存在かも知らない。

教室の中は、梅雨入り前のぬるい空気で満たされていた。

みんなそれなりに、先生の方に顔を向けているけれど、一人一人がどんな気持ちでいるかなんて、わたしには分からない。


***


放課後、部活活動が待っている。

とは言っても、週に一回しか活動しない「料理部」だ。しかも、二年生はわたしを含めて二人しかいない。

ゆるさと楽さに長けた料理部は、一年生で必ず部活に入らないといけないわたしの高校で、帰宅部願望の生徒には、うってつけの部活なのだが、あまりのやりがいのなさに、二年生になると、退部する部員がほとんどなのだ。その中で、ここまで残ったのがわたしたちだ。

そして、わたしと共に、ずるずる部活を続けてきた仲間が、今まさに、正面でクッキーの生地を真剣に練っている男、——有野遼ありのりょうである。


「ねえ」

「うー、ん」

「ねー、ってばあ」

「あー」

「ねー、りょーちゃんってばあ!」

「あー、もう! ちゃんと聞いてるから、次話せってえ!」

遼ちゃんが、いらいらした様子で、ベラを振る。

あ、生地が飛んだ。

隣の料理台の後輩が、わたしたちのそんな様子を見て、笑っていた。

本当は、四人一組で料理台を使い、その日、決められたレシピの料理を作っていくのだが、唯一の二年生であるわたしと遼ちゃんは、二人でこの一台の料理台を使っている。


「で、なんなの?」遼ちゃんが訊いてきた。

「一人の子を、ずーっと見てるって、何がしたいんだろう」

「え、なに急に」

なんだか気持ち悪いものを見るみたいな表情を、遼ちゃんはつくった。

進まなそうな会話に、ため息だ。

「もういいや。遼ちゃん、馬鹿だから分かんないか」

「はあ? よく言ってくれるね、お前」

「だって、遼ちゃんって、馬鹿じゃんー」

何度も言うな! そう言って、遼ちゃんはボウルからはみ出て、台に落ちた生地の欠片を、わたしに投げつけてきた。

黄色い生地が、綺麗な弧を描いてわたしの目の前に落下する。

わたしは、口を尖らせて、生地を眺める。


「分かるよ。好きなんだろ、相手のこと」


遼ちゃんが、ぽつりと呟いた。わたしは、目をぱちくりさせた。

好き? 妖が人間を。なんだか納得いかなくて、わたしは唸る。


「いや、そういうのじゃなくてさあ」

「そういうの以外に、何があるんだよ。ああ、えなりには分かんないだろうね、阿保だし」

わたしはもう一度唸った。

因みに、わたしの本当の名前は、えなりじゃなくて、梶原絵里奈かじわらえりななのだが、小学生に付いたこのあだ名は、高校生になっても変わらない。


わたしは再び、遼ちゃんに声をかけようとしたけれど、先に声をかけたのは、後ろの料理台を使う後輩だった。

「遼先輩、見てください。わたしたちの班のこれ失敗じゃないですか?」

「はは、なんだよこれ。クレープの生地じゃん」

わたしの終わってしまった会話は、解決しないままだ。

ふてくされて台に頬杖をつく。後輩たちに囲まれる、遼ちゃんの姿を眺めてみても、分からないことは分からないままだ。


***


クッキーが焼き終われば、各班のクッキーの行方は自由だ。

家に持って帰ったり、家庭科室で出来立てを食べたり、他の部活の差し入れにしたり。

「バスケ部に、持って行こー!」

隣の台の後輩たちが、はしゃぎながら、片付けを急いでいた。

「若いねえ」

特に差し入れしたい相手がいないわたしは、片付けをさぼって、後輩たちにちょっかいを出す。


「えなり、早く食器、戻して来いって」

洗い物担当の遼ちゃんが、わたしに声をかけた。遼ちゃんは手際が良くて、洗い終わった器具たちが、布巾でみるみる水気を取られていく。

作っているときは、遼ちゃんだって後輩と、楽しそうにしていたくせに。

片付けの時の遼ちゃんはいつも無口で、後輩たちみたいに急いでいるようにも見える。


***


わたしと遼ちゃんが作った料理やらお菓子は、いつも食べる先が決まっていた。

家庭科室から二階上がった場所。化学準備室だ。

雑なノックで、扉を開ければ、たくさんの化学用具と資料に囲まれて、テーブルの席に腰かける一人の教師がいる。


「おー。きたきた、俺のおやつ」

伊藤元いとうげん先生は、パソコン画面から顔を上げて、嬉しそうにわたしたちの差し入れを見やる。

「今日のおやつは、ジンジャークッキーでーす」

そう言って、遼ちゃんが伊藤先生の目前で、クッキーが入ったタッパーをちらつかせた。

伊藤先生はタッパーごと、遼ちゃんの手から奪うと、

「はいはい、ご苦労さん。帰り、気を付けるんだぞー」

と空いた手を払って、わたしたちを追い出す仕草をした。


だからといって、ここで引き下がるわたしたちではない。

「お! ここの紅茶って、最近、駅前に出来たお店のやつだ」

わたしは棚に忍ばせてある、先生の紅茶コレクションに、新作を見つけた。先生にまた「帰れ」と言われる前に、さっさと人数分のコップを用意する。

「お前らなあ。特定の生徒をひいきして、先生が、怒られたら、可哀そうとか思わないわけ?」

「大丈夫。ちゃんと、バレないように来てるもん。それに、ここじゃないと、紅茶飲めないし」

先生は困った顔をするけれど、このやり取りは毎週なので、わたしも遼ちゃんも気にしていない。先生だって意地悪を言うけれど、紅茶用のカップは、しっかり三つ置いていてくれるし、準備室から、先生に無理に追い払われたこともない。


「先生こそ、いつも準備室に逃げ込むから、職員室で友達出来ないんじゃない?」

遼ちゃんに言われたことが図星なのか、先生はぎくりとしていた。

伊藤先生はどうにも、教員同士が犇めく職員室が苦手らしい。化学の職員であることを利用して、用をこじつけては、準備室に逃げ込むのだ。

三年前からこの学校にやってきた先生は、若くて気さくという点で、いろんな人間に絡まれやすいのだと思う。

現に、わたしたちにも目を付けられて、週に一回、準備室をハイジャックさせられているのだし。


本日の紅茶はカモミールティーだ。

窓から来る風が、カモミールティーの湯気をゆらゆら靡かせていた。わたしは、一つ目のカップを先生の目前に置いた。

そして、もうひとつのカップを窓際に置く。これは、遼ちゃんの分だ。

化学準備室の窓は、出窓になっていて、その広い窓台は遼ちゃんの特等席だった。

窓台に座る遼ちゃんが、「どうも」と言って、カップに口を付けた。

クッキーは、わたしと先生で挟んだテーブルの真ん中に。

雑談をする間、遼ちゃんは紅茶にしか手を付けない。作るものはお菓子ばかりの「料理部」に所属しておきながら、遼ちゃんは甘いものが苦手なのだ。


「もうすぐ、梅雨入りするみたいだよ」

伊藤先生がカップを置いて、席を立つと、遼ちゃんのいる窓際に向かい、空を見上げた。雨とは無縁そうな、晴れた空だった。


「ただでさえ、日当たりの悪い部屋なのに、雨まで降ったら、昼でも電気つけないといけないんだよなあ」

「いい加減、職員室に慣れなよ」

 遼ちゃんは笑って、先生と同じように外に視線を向ける。グラウンドも見えない、裏山の崖面だけが景色の窓を覗いて、狭い空を必死に探る男二人の姿は、可笑しい。わたしは、ふたりが見ていないうちにもう一枚、クッキーに手を伸ばした。


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