5.新天地、新緑の芽吹く日
「ここが、皇宮……!」
遠くからでも大きく見えていた建屋は、近づくとそれはもう豪勢で、首が痛くなってしまうほどだった。いや、首が痛くなるほど見あげてもそのすべてを視界に収めることはできない。横にも縦にも敷地が広がっているせいか、迷子になってしまえばもう二度と出ることはできないのではないだろうかと思わせる。圧巻の迫力だ。
なにより、さすがはわが天亮国の主が住まう場所、花都の賑わいはすっかりと消え、清浄でありながらも厳粛な空気が漂っている。
わたしはゴクリとつばを飲む。
ここに、宝飾殿があるのですね。ずっと、夢にまで見てきた、憧れの宝飾殿が。
じっとりと手に汗がにじむ。なんだかお腹が痛くなってきたような気が……。
ここまで連れてきてくれた武官さまも、先ほどの件を報告しなくちゃいけないと去って行ってしまった。宝飾殿までの道順は教えてもらったのの、ひとりでここを、と思うと身がすくむ。
ダメダメ、こんなところで立ち止まってちゃ! 今日からここで働くんですから!
わたしはブンブンと頭を大きく振って、気圧されてしまうくらい威圧感のある建屋の敷居をまたぐ。一歩、そろりと踏み出したはずなのに、敷き詰められた砂利がチャリチャリと音を立てた。それがまたよく響く。緊張感を煽るような石のぶつかる音に、わたしは更にゆっくりと歩く。
大丈夫、大丈夫。男装とはいえ、わたしはちゃんと宝飾殿の試験に合格しましたし、通行証だって持ってるんですから。ここを通る権利があるんですよ!
葉っぱ一枚落ちていない石造りの階段を三段、登った先に続く木製の廊下を歩く。ギィ、と軋む木が再びわたしの心をさざめかせる。
大丈夫……ですよね……?
宝飾殿は右に進んで廊下の突きあたりを左、その次の角を右、それからまた左。
緊張をごまかすように教えてもらった道順を思い出しながら歩いていると、徐々に皇宮内にも人の気配が増えてきた。お昼ご飯を支度するようなにおいや、女性のものと思われる練り香水のような香りも、わたしに少しばかりの安心感を与えてくれる。
見慣れないわたしに気付いた人々もいて、彼らから送られる視線はさまざまだ。
洗濯物をたくさん詰めこんだカゴを運ぶ女性たちが興味深そうにこちらを観察し、背の高い武官さまや文官さま男性陣は、一瞬だけ顔をほころばせたかと思うと興味なさげに見送っていく。
どうやら、大きな荷物をひとりで持つ小柄な青年、きちんとそう映っているらしい。
「よし……!」
男装にも自信がついて、少しずつ足取りが軽くなる。
門前に漂っていた粛々とした皇宮の雰囲気が、内部で働く人々の活気にやわらいできたことも相まって、わたしの心は次第に晴れていく。先ほどまでの不安や緊張が、夢が叶った実感とこれからの期待に変わる。憧れの地、その思いに廊下を駆けてしまいたくなるような衝動をこらえて、最後の角を曲がる。
途端、ささやかだが、衣擦れの音やカラカラと糸を巻き取る音、紙をこするような音が耳についた。わたしにとって最もなじみ深く、なにより心を落ち着かせる音。
「ここ、ですかね」
長い廊下にいくつかの扉が並ぶ。それぞれに取り付けられたのぞき窓からは、室内の様子がうかがえた。なにやら長い巻物に向き合っている人がいる部屋、糸を紡いでいる人の姿が見える部屋、布がたくさん置いてある部屋など。どうやらこの建物全体が服飾にまつわる人々を集めたひとつの大きな部署になっているらしかった。
扉の上には、各部屋に名前を刻んだプレート。
宝飾殿は、この部隊のうちのひとつ、ということですね。殿とつくくらいだから、てっきりひとつの大きな部署なのかと思っていましたが……。
わたしはひとつひとつ、部屋の名前と中の様子を確認しながら歩いていく。五つめの扉を過ぎ、六つめの扉、一番奥の部屋の前でわたしは足を止めた。
「ありました……」
宝飾殿と書かれた木製の札。宝飾殿というわりには飾り気のないネームプレートをよそに、扉につけられた窓からそっと中をのぞく。
綺麗な碧色の制服に身を包んだふたりの若い男性が、黙々と机に向かって作業をしていた。
ひとりの手には美しい布織物が。もうひとりの手には、精巧な金細工が。そして、彼らの後ろに、空いた席がひとつ。
――ここが、わたしの場所だ。
直感的に理解する。胸がドクンと高鳴った。
ふいに、男性のひとりがなにかを察知したようにこちらへ振り向いた。
「あっ」
「なっ⁉」
驚いた男性の手から金細工が落ちる。カラン、と鐘のような音が鳴って、隣にいた男性もまた驚いたように顔をあげた。
「もう~、やめてくださいよ、浩宇先輩! 急にそんな大声だしたらびっくりするじゃないですかあ! 一体なにがあったって……うわぁっ⁉」
浩宇先輩と呼ばれた男性の視線を追って、もうひとりの男性とも目が合う。彼もまたビクリと体を震わせ、刺繍を施していたであろう布を手から落とした。
「えぇっと……」
わたしがどうしようと視線をさまよわせているうち、扉が開いて頭上に影が降る。
「誰だ」
先にわたしに気付いた男性……浩宇、先輩だったか、の鋭い紺色の瞳がわたしを刺し殺すように貫いた。
「わ、わた……じゃなくて、ぼ、ぼく!」
「ああ、浩宇先輩! 新人ちゃんじゃないですか!」
わたしが慌てふためいている隙に、浩宇先輩の後ろからもうひとりの男性がひょこりと顔をのぞかせる。ピョコンと揺れる栗色のくせっ毛が全体的に無骨な浩宇先輩とは対照的に柔和な雰囲気を醸し出していた。
「新人?」
浩宇先輩に尋ねられ、わたしは「はい!」と反射的に大きく返事した。
「今日からお世話になります! 翠と申します!」
わたしが深く頭をさげると、バサバサバサッと派手な音とともに、わたしの足元に糸やら布やら豆大福やらが転がり落ちた。
「あ」
「……豆大福?」
浩宇先輩が豆大福と顔をあげたわたしを見比べる。
「あらら~、カバンのひもが壊れちゃったんだねえ」
状況を冷静に分析したのは栗毛の先輩で、わたしの後ろに回りこんでカバンをまじまじと観察している。おそらく、先ほど人さらいに襲われたときだろう。カバンが壊れているとは思わなかった。
「すみません!」
わたしは慌てて背負っていたカバンをおろし、荷物をかき集める。浩宇先輩は存外優しい人らしく、わたしと一緒になって散らばった荷物を拾ってくださった。
「ありがとうございます!」
お礼を言えば、先ほどの鋭い眼光が嘘のように、浩宇先輩はやわらかな笑みを見せる。
「はは、大丈夫か?」
「はい、なんとか……。でも、カバンがダメになってしまいましたね」
今日のためにと気合を入れて改造したカバンだっただけに少し残念だ。また作りなおせばいいけれど、すぐに、というわけにはいかないだろう。
わたしがしょんぼりしていると、
「新人」
と声がかかる。
「新人じゃなくて、翠ちゃんですよ、浩宇先輩」
「あ、ああ……翠、その……そうだな、まずはカバンを直すか」
「いいんですか?」
「そのままじゃ、いろいろと不便だろ」
「とかいってぇ、先輩、翠ちゃんの実力を試験するつもりでしょ~」
「これからともに仕事をする仲間だ、実力くらいは見ておかないといけないだろう」
「えっ!」
先輩たちもよい人そうだとホッとしたのもつかの間。
不合格になったら、わたし、どうなってしまうんでしょう。
決して暑くはない皇宮内、わたしの背中に嫌な汗がひと筋、伝っていった。