37.さようなら、杏色の日々
「翠」
やわらかな声に目を開けると、綺麗な満月がふたつ、わたしの頭上に輝いていた。
「あかつき、さま……?」
わたしは思わずその光に手を伸ばす。暁さまの透き通るような頬をなぞれば、暁さまは目を細めた。朱の髪がさらりとわたしの頬を撫で、暁さまの顔が近づき、彼の体温が自らの頬に触れる。
「よかった……」
耳元で聞こえた甘く、とろけるような声に、少しだけ湿っぽい温度が混ざっている。
心配をしてくださっていたのか、とわたしの心はふわりとあたたかくなった。同時、それはつまり、一連のできごとが夢ではないのだとわたしに告げる。
あれからどれほど時間が経ったのかはわからない。けれど、あの火災が本当に起きたできごとならば――
わたしの頭がクリアになっていく。悪いことも、よいことも、すべてを思い出して、わたしは内心でため息をついた。
わたしが女であると、暁さまにばれてしまった。それだけでなく黒星さまにも。
もう、皇宮にはいられない。
暁さまの熱をこれ以上感じていては、離れがたくなってしまう。わたしがそっと暁さまの体を手で押し返すと、彼はゆっくりとわたしの体から離れた。やがて、暁さまはじっとわたしを見つめて頭をさげる。やめてくれと懇願すれば、彼は不服そうに顔をあげた。
「僕と、黒星を助けてくれてありがとう」
「みんな、助かったのですね」
「翠のおかげだよ」
「……いえ、すべて、暁さまのおかげです」
暁さまが笑う。ちょっと困ったような笑いかただった。
「君はいつも、本当に無茶をする」
「暁さまも、もっと自分を大切にしてください」
言い返せば、暁さまの笑顔がほんの少しだけいつもの穏やかなものに変わる。
よかった。わたしが見たかったのは、その笑顔だった。
わたしがベッドから体を起こすと、暁さまはベッドサイドに腰かける。
「すべて、現実なのですよね」
たしかめるように呟く。夢であってほしいと思ったけれど、暁さまは静かにうなずいた。やはり、なかったことにはできないのだと。
「残念ながらね」
その顔は悔しそうで、年相応というよりも、泣くのをがまんする子供みたいだった。
「あれから、何日が経ったのですか」
「たったの一日だよ」
「……黒星さまは」
「暗殺のことは、僕が話をしなければ誰にもわからないさ。ただ、火災の件に関しては、中務殿のひとりがすでにすべて話してしまってね。黒星に指示をされて、舞台の燭台に使う金属を変えた、と。責任を逃れたかったんだろう」
つまり、黒星さまがなにか意図的に火災を起こそうとしていたことはばれてしまったらしい。けれど、暁さまは肩をすくめた。
「大丈夫さ。変更は経費削減のためで、火事が起こるなんて想定していなかったということにしておいたよ。ただ、暗殺計画のうわさも出回ってしまっていたし、しばらくの間は禁固処分とした」
「そう、ですか」
いくら実の弟とはいえ、自らを殺そうとした相手にそんな情けなど。そうは思うものの、そこで情をかけられるのが暁さまなのだろう。
「黒星の母、第二妃が黒星にいろいろと言っていたらしい。ずいぶんと手荒なこともされたそうだ。そういう経緯もあってね、情状酌量の余地あり、というわけさ」
どうやら、本当の黒幕は別にいたらしい。ようやくわたしがうなずくと、暁さまは苦笑した。
「あまり、彼を責めないでくれ。僕も、兄として、ずいぶんと無神経に弟を傷つけてしまった。国のためにと民のもとへ内緒で出向いていたんだからね。その間のことは、黒星が片付けてくれていたのも事実だ。普段の行いでいえば、黒星のほうがよほど真面目で正しかったよ」
暁さまは目を伏せる。おそらく、誰にも見せないけれど、いくつもの重責が暁さまにも、黒星さまにもかかっていたのだろう。そしてそれはきっと、これからも、かかり続ける。
わたしのような部外者が、それに口を出す権利などあるはずがなかった。
それを言うなら、わたしだって。
「ぼく……いえ、わたしも、罰を受けなくてはなりませんね」
わたしの言葉に、暁さまは眉をさげた。口を固く結び、拳をギュッと握りしめている。
「黒星さまの、言う通りなんです。わたしは自らの夢を叶えたいというわがままのために、身分を偽り、性別を詐称して、宝飾殿の試験を受けました」
もはや、言い逃れをすることも、嘘をつくことも、疲れてしまった。
暁さまの側にいて、ずっと服飾を作り続けられればどれほどよかっただろうと思わなくもないけれど。
自らの作った靴を暁さまが履き、自らの作った蔽膝を暁さまが身に着けてくださった。
成人の儀という一生に一度の華やかな舞台で、自らの作ったものを身に着けて輝く暁さまを見ることができたのですから。
それだけで充分です。
「どんな罰でも受け入れます。情けも不要です。これはすべて、わたしがひとりでやったこと。他の先輩がたもわたしの性別については知りません。ですから、罰もすべて、ひとりで背負います」
暁さまに向かって頭を深くさげる。
「今まで、お世話になりました」
大丈夫。恋を諦めたときだって、わたしは立ち直ることができました。夢だって、また探せばいいのです。服はどこにいても作ることができますし、細工だって、釜を作れば作ることができます。
暁さまに会えなくたって――
大丈夫。そう言い聞かせているのに、わたしの目からは涙があふれた。止めたくても、止められなくて、わたしは必死に声を殺す。暁さまに顔を見られぬよう、深く頭をベッドに埋めた。
暁さまの深いため息が聞こえる。
「そうだね」
暁さまもまた、なにかを決心したようだった。
「翠のことも、僕と黒星が言わなければ誰にもわからないことだよ。でも、君がそういうなら、僕は第一皇子として君にも罰を言い渡さねばならない」
わたしは一生懸命に涙を拭い、ベッドから顔をあげる。
暁さまの金の瞳がわたしを貫いた。
暁さまの穏やかな声が、ふたりきりの医務室にポツリと落ちる。
「翠、本日付けで、君を宝飾殿から解雇する」




