36.空色のエンディング
「翠!」
「暁さまっ!」
わたしが伸ばした手を、暁さまが力強く引く。わたしが今まで立っていたすぐ後ろに、屋根を支えていた大きな柱が落下した。床がズンと大きく揺れる。石畳が衝撃で割れ、わたしたちの足元がぐらつく。カタカタと小石が音を弾ませ、炎はさらに広がっていく。
「逃げよう」
暁さまが黒星さまを引っ張りあげた。
「暁……お前……」
黒星さまはバツが悪そうに暁さまを睨む。だが、暁さまは戸惑いもせず黒星さまの肘に自らの肘を絡め、彼の体を支える。
「話は後、このままじゃ全滅だよ」
暁さまは振り返ってわたしを見つめる。行けるかい、とその目が心配していた。わたしはひとりで歩ける、とうなずく。
あちこちが痛むがなんとか立てる。足だって引きずれば歩ける。暁さまにこれ以上の負担を背負わせるわけにはいかない。
わたしたちは炎の中、崩れ落ちてくる屋根を避けながら必死に歩く。煙を吸ってしまわぬように、ボロボロになった袂で口元を覆いながら、少しずつ、着実に。
「っ……と」
前を歩いていた暁さまが、転がっていた木片につまずいた。暁さまも怪我をしている。黒星さまを背負って歩くには充分でなく、ふたりでよろよろとなんとか姿勢を保っているに等しかった。
――黒星さまのことは、とても好きになれない。暁さまを殺そうだなんて許せない。でも……。
わたしは「失礼します」と黒星さまの隣にまわり、その腰を支える。
「お前まで……」
「あなたのしたことを許したわけじゃありません。でも、だからといってあなたを見捨てていい理由にはなりませんから」
わたしが言えば、暁さまが苦笑する。
「わかっただろう? 黒星。翠が、いかに特別な人間か」
黒星さまは答えなかった。それこそ、わたしたちに担がれるなんて一生の恥だ、と言いたげな不服そうな顔でただむっつりと黙りこむ。
「後、少しだ」
荒れ果て、多くのものが崩れ落ち、もはや原型を保っていない入り口が倒れた柱や散らばった木片の隙間から見える。
なにより、
「翠‼」
「翠ちゃん‼」
先輩ふたりの声が聞こえた。わたしは薄く差しこむ光の方向へ目をこらす。
「暁さま!」
「黒星さま! ご無事ですか!」
先輩たち以外の声も聞こえる。だんだんとその声は大きくなる。入り口周辺の柱や木片がバラバラと崩れていく。みんな必死に典礼堂の入り口を開けようとしてくれていた。
「みんな!」
わたしが声をあげると、向こうから「声がするぞ!」と歓声があがる。
希望の光が大きく、近くなっていく。
後もう少し。ほんの少し!
わたしと暁さまが目を合わせた瞬間――
ドォォォオオオンッ!
爆音とともに爆風がわたしたち三人の背中を押した。
刹那、わたしたちは吹き飛ばされるように前へと弾かれ、バラバラになる。
顔をあげると、幸いにも暁さまは入り口の真正面へ体を転がしており、武官さまたちが一斉に暁さまを外へと担ぎ出していた。
「翠ちゃんも早く!」
わたしを瓦礫の上に見つけた沐辰先輩の声がする。伸ばされた手を掴もうとしたところで、わたしはハタと気づいた。
「黒星さまが!」
見れば、わたしより奥、入り口から少し離れた壁に打ち付けられ、頭から流血している黒星さまの姿がある。縛られていた両手の帯は解けていた。
わたしは思わず瓦礫から飛び降り、壁伝いに黒星さまのもとへと駆け寄った。
「黒星さま!」
意識がない。煙の中で暁さまとともに激しく争い、相当体力を消耗していたはずだ。いや、今日だけの話じゃない。これだけのことを行うには、覚悟も気力も必要だっただろう。その糸が切れた今、もうどうなってもいいと思っているその心が、黒星さまを闇へと誘おうとしているに違いなかった。
「黒星さま‼」
わたしは必死にその名を呼び、体を持ちあげようと脇の下に手を入れる。美しい赤の帯が、炎を吸い込んで床に溶けていく。だが、それを気に留めている暇はない。
「っ! うぅ! んぬぅっ!」
わたしは懸命に体を起こすも、先の爆風で飛んだ瓦礫や木片が黒星さまの体を覆っていてうまく運び出せない。
「……やめ、ろ」
黒星さまのうめくような声が聞こえた。意識が戻ったのか、それとも、もはや夢心地なのかわからない。黒星さまは目を開けず、ただ、残った少しの力を振り絞っていた。
「やめません」
「もう、いい。お前まで死ぬぞ!」
こんな状況なのに、わたしは黒星さまの言葉に思わず笑ってしまう。
さっきまであんなに憎んでいたはずのわたしを、今になって死んでしまうと心配するなんて。
「やっぱり、黒星さまは暁さまの弟ですよ。腹違いでも」
「やめろ!」
「やめません!」
パチパチと火花が散る。幻想的だと思うなんて、どうかしている。熱い。頭がぼんやりとする。でも、わたしは必死に黒星さまの周りの木々をよけ、彼の体を引きずる。
「わたくしは、もう……」
まるでうわ言だ。だが、関係ない。
だって、暁さまなら、黒星さまのお兄さまならきっとこうするし――なにより。
「わたしが、こうしたいんです」
黒星さまが目を見開く。わたしは呆気にとられる彼を一生懸命に担ぎあげた。典礼堂が崩れていく。ステージのほうはすでに跡形もなく、崩れ落ちた屋根からは青い空が見えていた。空気が流れこみ、炎が加速する。かわりに、薄くなっていた酸素も循環するようになった。後のことなんて、考えずに動くまま足を前へ出す。それが自分の悪い癖だとわかっていても、それでも、なんとかなる。必ず。
「大丈夫です」
暁さまも、きっと、そう言う。
壁に体重を預けながら、ずるずると黒星さまを伴って進む。
これで、本当に、終わりなんです……。全部、ぜんぶ。
思いだけで体を動かす。
「翠!」
呼ばれた声に顔をあげると、入り口のところで必死に止める武官さまたちの手を払いのけている暁さまの姿が見えた。
「あかつき、さま」
「翠!」
暁さまは、ボロボロになった手をわたしの方へと差し出すと、力強く入り口のほうへ引っ張りあげる。わたしも、崩れた柱に足をかけ、それを必死に乗り越える。
「黒星さまを先に!」
わたしが声を張りあげると、浩宇先輩と沐辰先輩が、わたしの体から黒星さまを引っ張りあげた。わたしの体が一気に軽くなる。その体を引っ張りあげたのは暁さまで、わたしと暁さまはそのまま典礼堂の外へと転がった。
「はっ……はぁっ……」
どちらともなく荒い息遣いが聞こえる。
もはや起きあがる体力は残っていなくて、わたしと暁さまは典礼堂の真正面、入り口前の地面に体を預けていた。
足元にはまだ、火事の熱を感じる。地面も、崩れていく典礼堂の屋根が落ちる衝撃で揺れている。耳が、人々の叫びや怒号をまだとらえていて、鼻が焦げ付いた木々のにおいを感じ取っていた。
でも、目には澄み切った青い空が映っている。
終わったんですね。本当に。ほんとうに。
安心すると、まるで泥水に引きずりこまれるように、わたしの意識はゆっくりと沈んでいく。
わたしは、心地のよいそれに抗うことができなかった。




