35.臙脂の幕がおりたら
「きさまぁぁあああ!」
かんざしを腕から引き抜いた黒星さまがわたしを睨みつける。
殺す。彼の目に宿った憎悪にわたしはいよいよ息を飲んだ。
地面に捨てられて転がった真っ赤なかんざしが炎の中ではじけていた。黒星さまの拳がわたしの顔にむかって飛んでくる。それら一瞬一瞬がひどくゆっくりとしたものに見えた。
素人がそれを避けられるわけがない。拳がだんだんと大きくなっていく。動物的本能で頭だけは守らなくてはとわたしが顔をさげ、自らの手で頭を守ろうと覆った瞬間――
カツンッ!
「なっ!」
黒星さまの声と、軽い、けれど鋭い金属音が響いた。
わたしの前に迫っていた拳が遠のく。黒星さまが目元に手をやって、後ろへとよたよたとさがる。目を押さえた彼の手の隙間から血が流れた。
「お守り、ね……」
わたしの後ろから、冷ややかな声がした。起きあがった暁さまは、ハ、と肩で息をして、わたしの体を支えるように背中へ手を添える。彼のほうを見れば、暁さまの襟もわたしと同じく大きく開かれていて、内側のポケットは破れていた。
冠がかんざしの隣に転がっていく。やがて、それはかんざしに寄り添うようにして止まった。
どうやら、暁さまもまた、お守りとして渡していた冠を黒星さまへ向かって投げつけたようだった。
立ちあがる暁さまを黒星さまが睨みつける。
「暁ぃぃぃい‼」
黒星さまはもはや、暁さまを兄とは呼ばなかった。流血した片目を閉じ、もう一方の目をこれでもかと開く。真っ黒の瞳は光をすべて吸いこんでいた。
「姑息な手を‼ 貴様はいつも! いつも!」
黒星さまは全身全霊で腕を振るう。もはや理屈だの、理論だのといったものではなく、無我夢中、体の動くままに向かって来ている。
「いつも? 僕はいつだって、真っ向勝負だよ」
暁さまはゆっくりと立ちあがると、黒星さまから放たれる拳すべてを避けて、勢いよく振りかざされた一発をしっかりと受け止めた。
「もう手加減しない」
「手加減だと? ハッ、貴様はわたくしに負けるのが怖いだけだ。卑怯な真似ばかり!」
「僕は街に出た。足を動かし、民の声を聞き、頭をさげた。それのどこが卑怯だと? 街にも出ず、民の声も聞いたことのない君が、なぜ国が潤うなんて偉そうに語れるんだい」
ぶるぶると震える黒星さまの拳は、暁さまの握力を可視化している。離れたくても離れられない。逃げたくても逃げられない。それほどの力がこもっている。黒星さまは、それでも冷静さを失っているようで、地面に足をこすりつけて踏ん張っている。
政に勝ち負けはない。しかし、黒星さまは明らかに苦い顔をしていた。
それでも……いや、だからこそか。力勝負なら負けない。その自負だけは黒星さまの中に依然あるようだった。
「貴様なんぞに、負けるわけが!」
「負けるもなにも。素手なら君のほうが強いだなんて、誰が言ったんだい」
黒星さまのもう片方の手が暁さまを掴みにかかる。けれど、暁さまはそれを容易く受け流す。同時、掴んでいた手をねじりあげた。流れるように暁さまが体勢をさげる。黒星さまはされるがまま。気づいたときには黒星さまの体が空を飛び、激しく床と衝突した。
「弟に負けているようじゃ、この国は守れないからね」
暁さまは黒星さまの上にまたがり、暴れる彼の体を押さえつける。フーッ、フーッ、と荒い呼吸が聞こえていたが、しばらくすると、黒星さまはまるで糸が切れたようにぐったりとしたように動かなくなった。
暁さまは黒星さまを苦々しい表情で見つめる。
「終わったよ、思ったより時間がかかってしまったけどね」
暁さまはわたしに笑って見せた。その顔はとても笑顔とは言えなくて、泣いているようだった。彼にかける言葉は見つからなかった。
終わったの、ですね。
わたしもまた、ゆっくりと起きあがって、擦り傷や血で汚れた自らの制服を軽くはたく。
暁さまは自らの帯をほどいた。黒星さまを縛ろうと近づく。
が――
「甘いなあ、貴様は。本当に甘いよ」
わたしが顔をあげた瞬間、暁さまの腹部に向かって銀の刃が突き立てられていた。少しでも動けば簡単に殺されてしまう位置に、それは輝いていた。
「その弱さが、皇族を滅ぼすとも知らずに」
黒星さまは気を失っていたわけでも、降参したわけでもなかったのだ。油断させ、隙を窺っていただけ。
「な、んで……」
わたしの内側からはもはや、絶望しか生まれなかった。けれど、刃を突き付けられた暁さまは逃れようともせず、ただ黒星さまを見つめている。眼光鋭く憎悪に満ちた目で睨みつける黒星さまとは違って、暁さまの瞳には悲哀だけが滲んでいた。
「無駄だよ」
「ははは、今更強がったって意味なんかない」
「強がりじゃないさ。やってみればいい」
暁さまが淡々とした口調で答えた瞬間、黒星さまが大声をあげて刃を暁さまへと押し込んだ。両手で、しっかりと。
「暁さま‼」
わたしは思わず叫ぶ。燃え盛る炎の中で、銀の刃はなまめかしく光を放ち、暁さまの腹部にあった。
「暁さまぁぁあああああ!」
もはや、泣き叫ぶ以外にできなくて、わたしは再びガクンと地面に膝をつく。
どうして、どうして、どうしてっ……。
火は大きくなり、いよいよ典礼堂の天井へと達そうとしていた。そんな中、兄弟ふたりが抱き合うように、互いを見つめている。炎に照らされ、一層赤く燃える暁さまの髪が揺れる。揺れた髪の隙間、暁さまの金色の目が細められた。
「な……」
声をこぼしたのは、黒星さまだった。
暁さまは、ゆっくりと刃を腹部から抜く。その刃は赤く染まっている。けれど、それは血ではなかった。周囲の炎が映りこんだ赤だ。暁さまにはひとつの傷も入っていない。彼はただ、その小刀を遠く、炎の中へと放り投げた。
黒星さまの目は見開かれ、彼の体全身は震えている。
暁さまは穴の開いた袍衣を見やって、「沐辰に怒られてしまうね」と苦笑した。
穴の隙間からは、銀色の細かな鎖が覗き見えた。
「……鎖子甲、だと」
「まったく、気が利くよね。サイズだってわざと大きく作ってさ。おかげで、儀式の最中は大変だったよ。重いし、でかいし、結構大変なんだ。黒星が来年、成人の儀を行うときは、ちゃんと身の丈にあったものを作ってもらいなさい」
万策尽きる。黒星さまはついに押し黙り、暁さまは帯を使って黒星さまの両腕をがっちりと縛った。
「終わったんですね……」
本当にすべてが終わったのだ。
わたしも、暁さまも、そしてすべてを企てた黒星さまも、みながそう思った――そのときだった。
典礼堂の屋根ガラガラと音を立てる。
見あげれば、天井に移った火が屋根を焦がし、木材を焼き尽くしてわたしたちを飲みこもうと迫っていた。




