33.黒緋に燃える
「暁さまっ‼ 暁さまぁぁああ‼」
たったひとつしかない入り口に向かって逃げ惑う人たちをかき分け、わたしは必死に声をあげる。
ただでさえ広い典礼堂に、多くの人の叫び声が木霊している。わたしの声はそれらにかき消されていく。それでも、わたしは何度も暁さまの名を呼び続ける。
「暁さま!」
もう何度目か、炎に舞う煙を吸い、意識がもうろうとする。熱い。止まらない汗。カラカラになる喉。それでも、諦めずにその名を呼び続ける。
典礼堂から人が減っていく。代わりに、そこに人がいたであろう形跡が増えていく。脱げたままの靴、焦げてしまった裾、豪華な耳飾りや冠が目について胸が痛む。
それらを見ないようにと顔をあげたとき、
「暁さま!」
わたしはようやく、探していたその人を、炎の中に揺らめく赤い髪を見つけた。
だが、
「翠! 来るな!」
聞いたことのない声だった。いつもは穏やかで、やわらかで、甘くて、時々いたずらっ子のような暁さまの声は、強く、鋭く、けれど泣きそうだった。
「早く逃げろ!」
「嫌です!」
だからこそ、そんな暁さまを放って逃げられるはずなどなかった。
たしかに、わたしは恋を諦めて、夢を選びました。暁さまへの思いではなく、皇族の服飾を作ることを選びました。
でもそれは、暁さまがそこにいるからなのです!
「逃げられるわけ、ないじゃないですか!」
わたしは暁さまに向かって走る。周囲の人たちを一生懸命に逃がして、倒れている人がいたら持ちあげ、他の人に抱きかかえさせて、ひとりでも多くの人を自らの命と引き換えに助けようとしている暁さまを、わたしだけは助けたかった。
ひとり、またひとりと堂内から逃げていく。炎は激しさを増し、人は数えられるほどになった。
そんな中でも、崩れ落ちていくステージや柱、暗幕の下に、暁さまは立っていた。
倒れた椅子の残骸を飛び越え、必死に足を進め、ようやく彼のもとへとたどり着く。
暁さま以外は、わたしの目には入ってこなかった。彼が無事でよかった。それだけだった。
だから。
「暁さま!」
「翠‼」
わたしと暁さまの目があったのは、一瞬だった。
わたしの後ろから見知らぬ手が伸びてきて、わたしの視界がふさがれる。首元にあてがわれた腕で体が持ちあげられる。地面から足が離れた。驚きで反射的に閉じた目を開けると、目前に黒い布地が垂れさがっていた。
「おやおや、まったく。飛んで火にいる夏の虫とはまさにこのこと。ようやく人がいなくなったと思ったら」
この場にはにつかわしくない、落ち着き払った抑揚のない声だった。まるで、こうなることを知っていたみたいに。
「黒星、なんの真似だ。わざわざ燭台に細工までして成さねばならないようなことかな」
「はは、細工? ちょっとした手違いで、熱に弱い素材が混ざっていただけのことでしょう。まったく、南城領の鋼鉄はこれだからいけない」
「民を愚弄するな! 僕を暗殺するのだろう! 僕だけを殺せばいいじゃないか‼」
「はは、暗殺とは、誰にも見られず殺すから、暗殺なのですよ」
黒星さまが成人の儀に暁さまを暗殺しようとしているらしい――あの噂は本当だったようだ。わたしは悔しさにグッと奥歯をかみしめる。同時、わたしの首元に当てられていた腕が締まって、わたしの気道が一気にせばまった。
「クッ……」
思わず声が漏れる。わたしが必死に気道を確保しようと黒星さまの腕に自らの腕を絡めるも、それをほどくことはできなかった。
なんて力……!
素手だけなら、暁さまよりも黒星さまのほうが強い。以前、そんな話を聞いたことがあるような、とわたしは自らの末路を想像して背筋が冷える。本当にこのまま、殺されてしまうのだろうか。
「やめ……」
「やめろ!」
なんとかしなくては。もがくわたしの声に、暁さまの泣きそうな声が重なった。途端、黒星さまが笑った気配がする。
「兄さまは、そんな顔もできたのですか。いや、これは滑稽だ」
「黒星、いい加減にしてくれ! なにが望みだ!」
「望み? ハッ、そんなもの決まっているじゃありませんか。兄さまを殺し、皇帝の座につく。それだけですよ」
「ならば、僕は潔く身を引く。命も差し出す。翠を解放してくれ」
「暁、さま……や、め……」
この国の皇帝に相応しいのは、あなたさま以外には、ありえないのですから!
必死に声を絞りだしているつもりが、まったく声にならない。わたしのそんな抵抗を、黒星さまはただ楽しんでいるようだった。
「まったくお優しい。この制服は宝飾殿のものでしょう。服を作る人間など、この国に五万といるのに、たかがひとりのために必死になるなど」
「たかがひとりじゃない、翠は特別な人間だ」
「……特別、ねえ」
黒星さまの腕が、ギュウギュウと締まる。わたしの体がどんどんと浮きあがっていく。気道がしまり、それでも必死に息を吸おうともがけば呼吸が浅くなる。しかも、吸いこめるのは煙ばかりで、それがまた意識をもうろうとさせる。
「それは、この人間が男のふりをした女だからですか」
「っ⁉」
手放しかけていた意識が、黒星さまの言葉によって引き戻された。
「最近、やけに兄さまが肩入れしている人間がいると言うから調べてみれば。まさか、女とは」
「黒星!」
「規則を破った人間を罰するのは、当たり前のことではありませんか」
「っ……ふ、ぅ、ぐ」
わたしの首元が強く絞められる。必死にもがいても、その腕を逃れることはできない。
「黒星! やめろ!」
黒星さまを止める暁さまの声も、だんだんと遠くなっていく。
――ああ、もう、わたしは……。
わたしを信じて皇宮へ送り出してくださったお母さま、お父さま、兄さまたち。皇宮で助けてくださった桃姉さま。たくさんのことを教えてくださった、浩宇先輩、沐辰先輩。それに。
暁さま、お守りできなくて、ごめんなさい。
「黒星ぃぃいいいい!」
わたしの視界がぼんやりとかすんでいく。暁さまが叫んでいるような気がする。すべての声が、音が、遠のいていく。聞こえるのは耳の奥で波のように鳴り響く血流と、か細くなっていく心音だけ。
悔しい。
暁さまの服飾を、ずっと作っていたかった。
その夢すら、もう……。
自分の意志とは無関係に――いや、本当は、きっとわたしに残された最後の力だったのかもしれない――涙がひとつ頬を伝った。




