29.勿忘草をしまいこんで
「ねえ、まだぁ⁉」
「もうちょっとですから、先輩は動かないで!」
「浩宇先輩、翠ちゃんが厳しい~!」
「うるさい、沐辰、静かにしろ」
成人の儀まで残りわずか三日。
わたしは、袍衣に施された細かな刺繍に、鎖子甲を止める糸を紛れこませていた。隣では浩宇先輩が細工に不具合がないか最終チェックをしている。暁さまに最も体形が似ている沐辰先輩は、衣装の重さに耐えられずヨロヨロとしている。
「できた!」
わたしが最後のひと針を縫い終えると、浩宇先輩も「よし」と立ちあがる。どうやら、浩宇先輩のほうも作業を終えたらしい。
「翠、すぐに暁さまを呼んできてくれ!」
「ボクもうヘロヘロ~! こんなに重い衣装を着るなんて信じられない!」
「いってきます!」
沐辰先輩の愚痴を完全スルーして、わたしは宝飾殿を飛び出す。今まで散々成人の儀を逃げ回ってきた暁さまも、さすがに逃げ切れなくなったらしい。最近は本来の皇族らしく儀式に使うさまざまな物品や食事、金回りの確認に追われている。逃げているせいではなく、仕事のためになかなか捕まらないのだ。機会を逃してしまえば、当日の着付けでぶっつけ本番を迎えることになってしまう。
少しでも、暁さまにご満足いただけるような衣装にしなくては……!
わたしは成人の儀に関係している部署ひとつずつに顔を出す。けれど、見つからない。すでに陽は傾いてきており、気持ちが焦る。わたしは怒られない程度に廊下を走り、広い皇宮内を駆けまわった。
文化殿の角を曲がり、牡丹宮へと続く廊下に差し掛かったとき、
「あら、暁さま」
聞き馴染みのある声がした。桃姉さまだ、そう思うと同時、
「やあ、清桃」
まさに今、探している張本人、暁さまの声が聞こえた。反射的にわたしは体を柱に隠す。別にやましいことをしているわけではないのに、ふたりを直視できなくて、けれど、気になってしまって、会話に耳をそばだてる。
「今、少し話せるかい?」
「ええ、もちろん。わたくしでよければ」
「はは、君がいいんだ」
ズキン、と胸が痛む。
やはり、ふたりはそういうことなのでしょうか……。暁さまと、お姉さまは……。
わたしはバクバクとうるさい心臓に、もう失恋したのですから、と必死に言い聞かせる。往生際の悪いわたし自身に嫌気がさす。すっぱりと忘れてしまえれば、どれほどよいでしょう。
わたしが自らを叱咤しているうちに、ふたりは中庭のほうへ移動していた。ふたりの会話が聞こえなくなり、かわりにわたしはそっと様子を窺う。
「あ……」
牡丹宮の中庭、静かな池を望む四阿にふたりが並んで腰かけていた。楽しげに笑うふたりはよくお似合いで、まるで一枚の絵画のようだ。
ふたりは周囲を見回すと、互いに顔を隠すように袂を広げた。
内緒の逢瀬。まるで、キスでもしているかのような……。
わたしがふたりから目を離せずにいると、ふっと暁さまが視線をこちらに向けた。
しまった。
わたしが顔を逸らすよりも先に、
「翠!」
暁さまの声が聞こえる。桃姉さまが「翠?」とわたしの名を呼ぶ声も。
できれば、見たくなかった。ふたりが並んでいるところを見て、平気でいられるほど、神経は図太くない。むしろ、初めての恋を失って、まだ、それほど日も経っていないのに。
だが、当然無視などできるはずもなく、わたしは必死に笑みを作って柱から顔を出す。
「衣装が完成しましたので、ご試着をと思ったのですが……すみません、お邪魔してしまって」
「あら、翠がお邪魔だなんてそんなことないわ」
桃姉さまも暁さまの隣から顔を覗かせて、「久しぶりね」と笑う。わたしの作り笑いとは別格の美しい笑みだった。
「暁さまがいらっしゃらなければ、翠とゆっくり話ができたのに」
「はは、つれないな。そんなことを言うのは君くらいだよ、清桃」
「ふふ、ふらふらとどこかへ逃げ隠れする皇子より、仕事に一生懸命な翠の時間のほうが貴重ですもの」
「手厳しい」
「翠、また遊びに来てちょうだいね。それじゃあ、暁さま、また夜に」
「ああ、すまないね」
桃姉さまは、にこりと笑ってわたしに手を振ると、その場を優雅に去って行く。
また夜に。何気なく言った桃姉さまのひと言が、わたしの耳にこびりつく。ふたりの関係性を推し量るには充分すぎる約束だ。
うまく、笑えていたでしょうか。
桃姉さまの後ろ姿を見送ると、暁さまが「行こうか」と切り出した。
白い羽織をひるがえして歩く暁さまの後ろ姿も、やはり桃姉さま同様に優雅だ。やっぱり、ふたりは。そんなことを考えずにはいられないほど。
「翠?」
わたしがぼんやりと歩いていたからか、急に暁さまが立ち止まったことには気づかなかった。振り返った彼の鎖骨に、わたしの額がぶつかる。
「わっ⁉」
反射的にのけぞった体を支える腕。そのまま体を引かれ、わたしは暁さまの胸の中におさまった。
「大丈夫かい?」
「あ、えと……すみません!」
わたしが慌てて距離をとろうとするも、暁さまは逃がしてくれなかった。
「翠は本当に華奢だね。女性みたいだ」
耳元でささやかれる。わたしの心臓が、せわしなく動き始める。背中に、冷たい汗が伝った。
「……ぼくは、男ですよ」
「うん、知っているよ。でも、翠を知れば知るほど、僕は君に不思議な感情を抱いてしまうんだ」
もしも彼がわたしの性別を疑っているのだとしたら――
ばれては困る。わたしが言い訳を考えているうち、
「男でいてくれてよかったと思う。けれど、女性であってほしかったとも」
冗談めかした口調で暁さまが呟いた。それは、想像していたどの言葉ともまったく違う。不思議な感情の正体は、暁さまにもよくわかっていないらしかった。
どういう意味ですか。
そう尋ねる前に、わたしは彼の腕から解放される。慌てて距離を置き、顔をあげると、暁さまの金色の瞳が切なく揺れていた。
「さ、宝飾殿へ行くんだろう。あまり待たせると、また浩宇たちを怒らせてしまうよ」
暁さまはパッと体を回転させて歩き出す。彼の朱髪が、その複雑な表情をあっという間に隠してしまう。
宝飾殿につくまで、暁さまがわたしを見ることはなかった。




