25.瑠璃に閉ざす夜
「暁さまが、どうすれば笑顔になられるか……」
黄河領から戻ってきた夜、わたしはひとり、部屋で紙に向かって呟いた。
蔽膝のデザイン。今なら、よいものが浮かびそうな気がする。
わたしは暁さまの姿を思い描く。沐辰先輩の作った豪華な金の袍衣を身にまとい、袍衣と同じ色の裳と白の靴をはいた暁さま。彼の朱い髪を結いあげる金細工は浩宇先輩が作っているもので、赤の宝玉が埋まっている。
このままでは、暁さまはきっと、派手すぎると苦笑するのだろう。ならば……。
「蔽膝はあえて白で、すっきりとした印象にするべきでしょうか。刺繍は靴と合わせて、金糸で牡丹を控えめに。鉱石は……」
沐辰先輩が帯は赤にしようかと迷っていたはず。靴に使った夜明珠のやわらかな緑を蔽膝に使えば、きっと差し色になりますね。控えめながら存在感も出せていいかもしれません。暁さまが好んでくださった靴のデザインにも合うし、もしかしたら気に入っていただけるかも。
わたしの口角が自然とあがる。ずっと悩んで止まっていた筆がするすると動き出す。いいものができる。そんな予感だけが胸にある。
色は明日、実際に布や石を使って合わせてみなければわからないが、刺繍のデザインさえ完成させられれば……。
「やっぱり。まだ起きてる」
その声に、胸の奥が一気に熱を帯びた。無意識のうちにピタリと手が止まり、耳が声の方向を探し、目が、彼の姿を探す。恋だね、と笑った沐辰先輩の姿が脳裏をよぎった。違いますと否定できなかったわたしが、再び顔を出した。
「なんだか久しぶりだね、翠」
窓の向こうに、今しがた思っていた暁さまの姿がある。その事実が容易くわたしに思いを自覚させ、同時、浮足立ってしまいそうになる体を心が引き止めた。
本当に自覚していいのでしょうか。
だって、この人は……。
「翠は、本当に悪い子だね」
クスクスといたずらっぽく笑う暁さまの声で、思考が遮られる。わたしは戸惑いを心の底にしまいこんで、窓の外を見つめた。
「今日は、入れてくれないの?」
甘えるような暁さまの声。
ずるい、と思ってしまう。
わたしはずるいです。この思いを認めてしまったら、同時に向き合わなければならないことがあって、それが辛くて、逃げているのですから。
それでも、窓を開ける手を止めることができなかった。
人々はこの熱を、どうしようもなく体を突き動かしてしまう情を、恋と呼んでいるのかもしれない。
暁さまが身軽に窓を飛び越えてくる隙に、わたしはデザイン画を机の引き出しにしまう。
完成するまで、しまっておきたかった。暁さまの喜ぶ顔を自分へのご褒美にとっておかなければ、なんだかもう、それ以上は進められないような気がして。
「おや、仕事はおしまいかな」
「……はい」
わたしの返答に満足したのか、暁さまは「いい子だね」と先ほどまでと一転、わたしを褒めた。それがくすぐったくて、わたしは顔を背ける。
暁さまを食事用の席へ案内し、お茶を沸かす。空白を埋めるための質問は、ひとつしかなかった。
「……どうしてここに?」
「翠に会いたくて」
「え」
「そう言ったら、迷惑かな?」
振り返れば、暁さまは椅子に腰かけてなどいなくて、わたしのすぐ背後に立っていた。
そのせいで、知りたくなかったことにまで気づいてしまう。
――お茶の香りに混ざった、甘い芳香。
それは、知っている香りだった。桃姉さまが愛用している香のにおいだ。
先日も、桃姉さまに会っていたと言っていた。彼が今日もその香りをまとっているということは、また……。
瞬間、わたしの心が急激に冷えて、凍てつく雪を触ったときみたいに痛む。こんなことなら、やっぱり会いたくなかったなんて、そんなことを思ってしまうほどに。
けれど、暁さまはわたしの思いには気づかなかった。
「翠に、聞きたいことがあるんだ」
やけに真剣な声で切り出され、わたしは思わず返事をしてしまう。
「聞きたいこと、ですか」
趣味ですか、それとも、好きな食べ物ですか、と軽くごまかしてしまえればよかったと後悔したけれど、そのときにはもう遅かった。
「君は、本当に僕と会ったことがない?」
わたしを逃がさないと言うように、暁さまの瞳がわたしを貫いていた。
やかんから湯気が立ち昇った気配がする。コトコトと沸騰する音が聞こえる。それらが、なんとかわたしを現実につなぎ止める。
それを知って、どうしようと言うのでしょう。だって、この人は、桃姉さまのことを。
「……以前も、お話したじゃないですか」
わたしが苦し紛れに呟くと、暁さまは「うん」と素直に肯定する。彼はわかっていて、聞いているらしい。
「でも、諦めきれなくてね。正直に言う。翠は、僕がずっと探している子によく似てるんだ。白華領で十年前に出会った少女にね。その瞳が、特に似ている」
わたしの、翡翠色の目を、暁さまの金の瞳が捉えて離さない。
「不可解なことがひとつだけあるとすれば、君の性別かな。宝飾殿は過去の事件を踏まえて女子禁制だと、君も知っているだろう?」
なぜか、暁さまが痛ましい顔をした。まるで、その過去を疎ましく思っているように。
過去、痴情のもつれから、皇族の体に触れることのできる宝飾師という立場を利用して、王妃さまを殺した宝飾殿の女官がいた。以来、宝飾殿は――いや、牡丹宮を除く多くの皇宮官僚は男子中心の社会なのだ。
「君が、もしも、女子なら……」
わたしの後ろで、やかんが音を立てた。それが暁さまの声を遮る。湯が沸いたのだ。ピー、となにかを警告するように甲高い音で鳴いている。
もしも、今わたしの正体がばれてしまったら、どうなるのでしょう。わたしは、ここにはいられなくなり、暁さまに会うことはおろか、夢を叶えることも……。
わたしはコクリとつばを飲みこんだ。
「……では、人違いでは? もしくは……」
声が震える。わたしはやかんの火を止めるために、というよりは、顔を見られたくない一心で、命を守るように暁さまから背を向けた。
火を消せば、静寂とお茶の香りが部屋を満たす。
「もしくは?」
暁さまは引くつもりなどさらさらないようだった。とがめるでも、責めるでもなく、けれど淡々とわたしの言葉を待つ。
ここで、わたしが女であるとばれてしまったら、それこそすべてが壊れてしまう。
ならばいっそ――
「もしくは……清桃さまこそ、その人なのでは? ぼくと、姉さまは親戚関係ですから、瞳の色も似ているかと」
わたしは運命の人なんかじゃない。
自分で言ってから泣きそうになって、ごまかすために笑みをつくる。
これでいいのです。もしも、この感情を恋だとするならば、この恋はどうせ実らないのですから。ここにもいられなくなります。暁さまとはもう一生お会いすることもできなくなるでしょう。皇族の服飾を作りたいという夢も叶わなくなってしまうのです。
だったら、せめて。せめて、この恋を諦めて、暁さまが姉さまと幸せになってくだされば……。
夢だけは、失わずにすむではありませんか。
「きっと、そうですよ」
暁さまの瞳は、湖面に映し出された満月のように儚く揺れていた。




