23.黄河に流されるまま
「うわっ、翠ちゃんどうしたの⁉」
暁さまとの夜から一週間。成人の儀まで一か月を迎えた朝、わたしを見た沐辰先輩が大声をあげた。
わたしも今朝、自らの顔を鏡で見て驚いた。鏡が黒ずんできたのだろうかと思ったくらい、目の下には大きなくまができていたのだから。
それもこれも、先週から、蔽膝のデザインが一向に進んでいないせい。暁さまが部屋にやってきて以来、どんなに考えてもよいアイデアが浮かばない。こんなことは初めてだった。
先輩たちからも叱咤激励を受ける毎日なのに。このままでは間に合わなくなってしまう。
わたしが「なんでもないです」と笑みをつくると、沐辰先輩は「なんでもないわけないでしょ!」とわたしの頬を両手で包む。いや、包むというよりは、はさむと言ったほうが適切かもしれない。むにっと持ちあげられた頬、そのせいで唇が突き出る。
「へ、変ひゃ顔ひないまふぅ……」
わたしが苦し紛れに声をあげると、沐辰先輩はようやくわたしの顔から手を離して、
「変な顔になっちゃうほうがマシだよぉ!」
と大真面目に言い放った。それはそれでひどいと思います、先輩。
「とにかく、最近の翠ちゃんは働きすぎ! このままじゃ体がもたないよ、成人の儀までに倒れちゃ元も子もないんだから」
沐辰先輩はそう言うと、わたしの手を取って宝飾殿の扉を開ける。
「浩宇先輩、ちょっと翠ちゃんと出かけてきま~す!」
「今日一日だけだぞ」
「え⁉ え、ちょっと⁉ 出かけるってなんですか⁉」
「そのままの意味!」
わたしが困惑して浩宇先輩を見るも、彼は早く行けとわたしを追い払うように手を動かしただけ。沐辰先輩も「ほら」とわたしの手を引いてズンズン歩いていく。
「し、仕事がまだ……」
わたしが半泣きで沐辰先輩にすがりつくと、先輩は栗毛をふわふわと揺らしたまま、振り返りもせず
「だからあ、今日はお休みだって言ってんの。誰がなんと言おうとね」
と強く断言した。
沐辰先輩に引きずられながら移動すること一刻。もはや仕事に戻ることも許されず、落ちこむわたしの前に見えてきたのは黄河領だった。
花都とは大きな川を隔てて西にある領地は、豊かな緑と砂地が広がる神秘的な場所だ。わたしは思わず目を見開く。
「いいところでしょ~」
馬車からわたしを降ろした沐辰先輩が自慢げに笑う。ここは彼の故郷らしい。
「はい、とっても素敵です!」
「そう言ってもらえてよかった。さ、行こっか。翠ちゃんに見せたいものがいっぱいあるんだ~!」
沐辰先輩は再びわたしの手を取ると、いつもより少しだけ早いスピードで歩き出した。
砂混じりの足元には白い石畳が敷かれていて、緑の木々を縫うように建てられた石膏の家々はみな、色とりどりのタープをさげている。異国の情緒をまとう黄河領を行きかう人々もまた、花都や白華ではあまり見ない服装だ。鮮やかな発色と派手な柄の布を巻き、みな大胆に足や肌を露出している。健康的で、けれどどこか艶っぽい。
先ほどまでの焦燥がすっかり消え去ってしまう風景に思わず目を奪われていると、沐辰先輩がクスリと笑う。
「西の国と近いからね、違う文化が入り混じるんだあ。花都では派手すぎるって敬遠されちゃうんだけどねえ」
「そんな……すごく綺麗なのに」
「あはは、翠ちゃんならそう言ってくれると思った! 着てみる? ボクのだと、ちょっと大きいかもしれないけど」
遠慮する間もなく、沐辰先輩が「すぐそこだから」と家までわたしを案内する。それだけでなく、断る間もなくわたしにお茶を出して座らせて「ちょっと待ってて」と部屋の奥へ駆けていった。
沐辰先輩の家は小さな一軒家で、部屋も数えるほどしかないようだった。人の気配がなく、シンと静まり返っている。なんとなく、沐辰先輩は大家族のイメージだったから、これだけ殺風景なのは少し……。
「意外だった?」
わたしがキョロキョロと見回していたからだろう。服を抱えて戻ってきた沐辰先輩がわたしに尋ねる。沐辰先輩も制服から着替えたようで、眩しいくらいの橙と白の布は彼の溌剌とした雰囲気によく合っていた。
わたしが先輩の質問に素直にうなずくと、沐辰先輩はわたしの後ろへまわって、わたしの制服の上から手早く布を巻いていく。
「ボク、両親が早いうちに死んじゃってさあ。ばあちゃんに育てられたんだあ」
「え……」
「ばあちゃん、おしゃれが好きでね。昔は牡丹宮にもいたんだよ。それで、医官のじいちゃんと結婚して。でも、じいちゃんも死んじゃって、ばあちゃんとボクだけが残ったの」
沐辰先輩が「できた」とわたしの背中を軽くたたいた。碧の制服と、黄色の布地が見事に調和している。普通なら同系色でまとめてしまいそうなところを、あえて対照的な色合いにするあたりが、沐辰先輩らしい。夏を感じさせる爽やかな色合い、布地にきらめく銀の刺繍が美しかった。
「翠ちゃんってほんと、女の子みたいだよねえ」
沐辰先輩が「本当にかわいい」と目を細めるから、わたしの胸は嫌でもドキリと音を立ててしまう。わたしが慌てて顔をそらすと、沐辰先輩はわたしが気を悪くしたと思ったのか、軽い口調で謝った。それから、わたしに気を遣わせないためか、自らの発言を流すように
「なにか、悩んでるんでしょ」
と切り出した。
沐辰先輩は、わたしの蔽膝が完成するのを待っている身だ。
帯も裳もデザインは完成している。後は縫いあげるだけ。だけど、蔽膝が無ければ、全体のバランスを見ることができない。だから……。
「すみません、ご迷惑をおかけして」
「あはは、迷惑だなんて。むしろ、翠ちゃんのおかげでボクは楽できてるんだし」
「でも」
「大丈夫だよ。まだ後一か月もあるんだし。ボクも、いっぱい失敗してきたけど、なんとかなったしね」
沐辰先輩はあっけらかんと笑って、家の前を往来する華やかな服装の人々へと視線を映した。
爽やかな風が緑の香りを運び、わたしと先輩の間を通り抜けていく。心地のよい風に吹かれ、外に出たのはいつぶりだろう、とわたしは気づいた。ずっと皇宮の中で引きこもっていて、机に向かっているだけの日々だった。
沐辰先輩は、きっとそれを知っていて、だからこうしてわたしを外へ連れ出してくれたのだろう。
「……どうして、沐辰先輩は宝飾殿に入ったんですか?」
わたしが切り出すと、沐辰先輩はいつになく真剣に言った。
「ばあちゃんの夢を叶えてあげたかったんだ」




