22.藍に呑まれる夜
「いつもこんな遅くまで起きてるの?」
牡丹宮から夜伽の物音だけが微かに聞こえる深夜。
わたしは窓の外から聞こえた声にビクリと体を震わせた。顔をあげると、薄明るい月光にきらめく朱の髪が目に止まる。反射的にわたしは立ちあがった。
「暁さま⁉」
暁さまは、シーッと口元に人差し指をあてがった。わたしが慌てて窓を開けると、彼は窓枠に手をかけてそのまま体を持ちあげる。ひらりと優雅に深紅の裾がひるがえる。わたしが目を見張っているうちに、暁さまは易々とわたしの部屋へ侵入した。
「……ど、どうしてここが」
「清桃から聞いたんだ。君が最近、あまり眠れていないようだとね」
暁さまは呆れたようにわたしを見つめる。
「僕のせいかな、蔽膝を依頼したから」
「そ、それは! 好きでやっていることですので」
わたしが机の上に広げていたデザイン画を手早くまとめて背中へ隠すと、暁さまが深いため息をついた。
「無理をしてほしくて言ったわけじゃないんだ。もちろん、楽しみにはしているけどね」
わたしへズイと近づいた暁さまに、わたしは思わず身を縮める。暁さまの綺麗な顔がわたしへと近づく。あまりにも近い。バクバクと心臓が動き出す。わたしがギュッと目をつぶった瞬間、わたしの背中側の手から紙の束が引き抜かれた。
「あっ!」
しまった、と顔をあげれば、唇が触れてしまいそうな距離に暁さまの顔がある。
「っ……」
わたしが息を飲むと、暁さまがじっとこちらを見つめる。空いている彼の手が、わたしの背にまわる。熱い。なぜか、その手から逃れることはできなかった。
「翠」
甘い声に名前を呼ばれ、心臓が掴まれたみたいに縮まる。このまま心拍を止められてしまうのではないかと思うほど、わたしの胸がキュゥと痛いんだ。
「悪い子だね」
暁さまの手はいつの間にかわたしの背から離れていた。かわりに、おでこを指ではじかれる。
「痛っ⁉」
わたしが額を押さえると、暁さまがクスクスと笑って、わたしから離れていく。彼はわたしのデザイン画を机の上へと戻した。
「眠れないのかい?」
「いえ、そういうわけでは……暁さまこそ、こんな時間まで起きていらっしゃるではありませんか」
体内に湧きあがる熱を鎮めようとわたしはわざと悪態をつく。
ここは牡丹宮のはずれだ。第一皇子である暁さまの住まいはここから離れた龍宮にある。この時間にわざわざここまで来る理由なんて。
「言っただろう、清桃のところにいたんだよ」
「あ……」
サラリと答える暁さまに、わたしはハッと口を押えた。
理由なら、あるじゃないか。成人の儀を迎えれば、暁さまは妃を選ぶ。牡丹宮は妃候補である姫君の住む場所で、こんな時間に姫君と会う理由となれば……。恋を知らないわたしでも、それくらいは知っている。
途端、わたしの胸にズキンと痛みが走った。考えたくなくて、わたしは暁さまから目をそらす。謎の不快感に顔をしかめ、けれど、それを暁さまには悟られたくなくて、笑みをつくる。あまりうまく笑えていないことは自分にもわかった。
「す、すみません。えと……」
しどろもどろになる。言葉が出てこなくて、かわりになぜか目の奥がカッと燃えるように熱くなって、わたしは「も、もう寝ますね」なんて嘘をついた。
「翠?」
どうしてか、その優しい声で、名前を呼ばれたくなかった。
「とにかく、蔽膝は無事に完成させますから! ご心配なく! ほら、暁さまも早く寝ないと。明日のご公務に差し障りますよ」
「いや、僕は……」
「ここから龍宮までは遠いですし、気を付けて帰ってください! もし、途中で武官さまがいらっしゃれば、ちゃんと護衛としてつけなくてはいけませんよ!」
わたしは暁さまの大きな背中をぐいと手で押して、今度はちゃんと扉から出ていってもらうように玄関へ案内する。部屋があまり広くなくてよかった。すぐに暁さまを追い出せる。
わたしが扉を開けると、暁さまが困惑した顔でこちらを窺っている気配がした。けれど、目は合わせられなくて、わたしは「それじゃあ」と見送りも半端に扉を閉める。
「……おやすみ」
扉の向こうから、くぐもった暁さまの声が聞こえた。
わたしは返事ができなかった。ただ、扉に背を預け、その声を聞いていた。しばらくすると暁さまが去っていく足音が聞こえ、やがて、再び牡丹宮からのかすかな夜伽の物音だけが耳にさわる。
「どうして、でしょう」
わたしは胸を押さえ、声を殺し、膝を抱えてその場にうずくまった。
桃姉さまは妃候補だ。美しくて、優しくて、頭もいい。暁さまは探している人がいて、妃候補を選ぶなんてまだだとおっしゃっていたけれど、気が変わることだってあるだろう。特に、桃姉さまになら、ひとめぼれしたっておかしくない。そういう男の人がたくさんいることは知っている。
なのに……。
「もう、どうして……どうして、涙が出るんですか」
わたしはどうしてかあふれてくる涙を止められず、ゴシゴシと目元を拭う。自らの体のことなのに、なにもかもがちぐはぐで、自分のものではないみたいだった。
「暁さまの服飾を作れるだけで、幸せじゃないですか」
自らに言い聞かせる。何度も。何度も。
「皇族の宝飾を作る。それが、わたしの、夢じゃないですか」
それなのに、どうして。
わたしはぐっと奥歯をかみしめる。これ以上、泣いてはいけない。それこそ、明日の仕事に差し支える。
成人の儀まで、もう一月と少ししかないのだ。手を止めている暇はない。この気持ちがなんなのか、今はわからなくてもいい。わからないほうが、いい。
よろよろと立ちあがると、暁さまのためにと考えたデザイン画がわたしの目について、また胸が痛む。
僕のせいかな。そう言った暁さまの声がよみがえる。
「暁さまの、せいじゃ」
ない、と言えなくて、それがなぜか無性に腹立たしくて、わたしはデザイン画を思い切り机から払いのけた。




