2.ブルーな心をしまって
「本当に行くのかい」
支度をしていたわたしの背後から声がかかる。
合格通知書を受け取ってから早一週間。明日はいよいよ宝飾殿へと出勤する日だ。
「もちろんですよ」
振り向いた先、部屋の入り口には梓英兄さまが立っていた。
彼は白華領主の長男であり、皇族の娘を嫁に迎え、名実ともに次期領主と名高い。なにより、わたしが宝飾殿に勤める夢を抱く、そのきっかけを作ってくれた人だ。
「梓英兄さまが責任を感じる必要はまったくありませんからね!」
「そうは言われてもね……」
梓英兄さまは、大きなため息とともに腰をおろす。わたしの隣に座ると、カバンへ仕舞いこまれた服を見つめた。試験のために作った、体のラインを隠す男性用の服だ。
「昔から、猪突猛進なところがあると思っていたけど。まさかここまでとは思わなかったな」
兄さまは苦笑する。
わたしの悪い癖だ。もっと考えてから行動しなさいと言われているのに、止められない。
でも、今回のことは結果オーライですし!
「まさか、出勤前日にお小言を言いにきたわけじゃないでしょう? どうかしたんですか?」
これ以上愚痴が続いても困る。わたしが尋ねれば、兄さまは肩をすくめた。
「珠翠が白華を出ていくのは僕のせいだから、引き止めてこい、と言われてね。もう一度説得してくれとうるさい弟たちのかわりに来たのさ」
容易に想像がつく。特に、わたしを可愛がってくださった次男の紫釉兄さまからは散々泣き落としをされたし、三男の桂兄さまからもあれやこれやと心配されたのだ。最終的には、なんとしてでも宝飾殿に行くとわたしが押し切ったけれど。
「なにも梓英兄さまにあたらなくたって」
「しかたないよ、みんな寂しいんだ」
梓英兄さまはわたしの頭をそっと撫でた。わたしももう十五才だ。あと数年もすれば、大人の仲間入りになるというのに。ひとまわり以上年の離れた兄さまにとってはいまだ小さな子供に見えるらしい。
「雨桐も心配していたよ。男装して皇宮だなんて、恋も知らない純粋な珠翠が男にたぶらかされないかってね」
「なっ⁉ こ、恋なんて! わたしには、宝飾のお仕事があれば充分です‼」
「兄としては、いっそ結婚して皇宮を辞めてくれるほうがいいんだけど……」
「お兄さま!」
「はは、ま、それは冗談だよ。多分、雨桐も責任を感じてるんじゃないかな」
「もう、雨義姉さまったら……。兄さま、ちゃんと雨義姉さまに、雨義姉さまのせいでもないとお伝えくださいね」
兄さまに嫁いできた雨義姉さまはわたしに夢を与えてくれた、もうひとりの人だ。
兄さまと皇族の娘である義姉さまの結婚式は、今から十年前に行われた。
国の中心部である花都からこの北方の地、白華領へ、皇族の方々がみんなお祝いにやってきてくださったのだ。
そこで、わたしは恋をした。
皇族の服飾に。
きらびやかな金をあしらった品のよい伝統服の数々、それぞれが身に着けている宝飾はどれもキラキラと輝いていて、当時まだ五才だったわたしには、それはもう夢のような光景だった。
そして、わたしは子供ながらに決意したのだ。
いつか必ず、あんな服飾をこの手で作ってみせます。
兄さまと雨義姉さまの結婚式が偶然きっかけとなっただけだ。その後のなにもかもは、すべてわたしが選んだこと。心配してくれる家族の気持ちがわからないわけではないけれど、同じくらい応援もしてほしいと思うのは、わたしのわがままでしょうか。
「これは、わたしが決めた道なんです」
わたしが梓英兄さまを見あげて、だから引き止めないでくださいと目で訴えかければ、兄さまはわたしの髪から指をほどく。
「珠翠も大人になったね」
ちょっとだけ湿っぽい声だった。なんでもできて、優しくて、完璧な兄さまから発されたとは思い難い、幼さを残した口調にきゅっと胸が締め付けられる。
わたしだって、寂しくないわけではない。十五年間育ってきた白華領を出て、ひとりで生活をするなんてまだ想像もできていない。宝飾殿のある皇宮がどんな場所かもわかっていないし、皇宮のある花都だって、人が多くて賑やかな街だというけれど、反面、悪い人もたくさん住んでいると聞く。不安がないと言えば、嘘になる。
でも。
「……わたしはもう大人だから、いつまでも甘えていちゃダメなんですよ」
どんなに厳しく険しい道になろうとも、自分の足で歩いていかなくちゃ。
「中身まで男前だねえ」
「なっ、なんて失礼な! 中身はちゃんと乙女ですよ! そりゃあ、男装して、見た目は男性のようになってしまいますが!」
わたしがポコポコと兄さまの胸元をたたくと、兄さまは笑い声をあげる。軽やかなそれは、昨日までと同じ兄妹のやり取りだ。そのことにホッとする。わたしには帰る場所がある。餞別は、それだけで充分なのです。
「僕の説得が失敗したとわかったら、紫釉と桂から怒られてしまいそうだな」
「そのときは、わたしがもう一度ふたりを説得しますから。お母さまとお父さまにも負けませんよ」
「はは、それは頼もしい。でも、困ったことがあれば、すぐに相談しておくれ」
「大丈夫です、皇宮には桃姉さまもいますし!」
「そうだね、清桃にもよろしく伝えておいてくれ」
「はい、梓英兄さま、ありがとうございます」
頼もしいのは兄さまのほうだ。わたしがいなくなってからのもろもろは、きっと梓英兄さまがなんとかしてくださるのだろう。特に、紫釉兄さまと桂兄さまのアフターケアはしっかりとしてくれるはずだ。
「それにしても、男装してまで宝飾殿に行きたいとは……」
散らばった型紙の一枚を拾いあげた兄さまは、それも男性用の型紙だと気付いたらしい。先ほどの優しい兄さまから一変、冷ややかな視線がわたしへと投げかけられる。
「徹夜は禁止だよ。当日風邪をひいて花都へ行けなくなってしまってはいけないからね」
「うっ」
せっかく合格したのだし、新しい服の一着や二着、作っていきましょう! そう考えていたのがばれたようだ。わたしが視線をさまよわせると、兄さまが目元だけで笑みを作る。白華の冬のように凍てついた笑みだった。
「返事は?」
「……はい」
背筋を駆けあがる寒気。わたしは渋々うなずいて見せる。兄さまは今度こそ満足げに笑うと、型紙を元の場所へと戻した。
梓英兄さまはわたしの前へと座りなおすと、真剣な表情でじっとわたしを見つめた。
「いいかい、珠翠」
改まって名を呼ばれ、わたしは背筋を正す。
きっとこれが、兄さまからの、最後のアドバイスだ。
「無理はしないこと。辛いときには、帰ってきてもいいんだよ。白華の地は、いつでも珠翠を受け入れる。珠翠が帰って来る場所はここだ。それだけは忘れないで」
梓英兄さまの言葉に、わたしは泣きそうになるのをぐっとこらえた。唇をかみしめて無理やりに笑みを浮かべれば、兄さまが困ったように笑ってわたしの頬を撫でる。
「ほら、珠翠はすぐに無理をする」
「無理なんてしてません、からっ……!」
わたしがプイと視線をそらすと、兄さまの手が頬から離れた。
寂しい。けれど、わたしは、今から夢に向かって歩いていくのですから。そこに泣いている暇なんてありません。
「いってらっしゃい、珠翠」
「はい! いってきます!」
今度こそ笑みを浮かべる。
わたしは夢を胸に抱き、カバンのフタをしっかりと閉めた。