17.対峙する玄
「その服、皇宮の人間やろう。帰ってくれ」
南城領に到着して三日。
どうしても夜明珠が欲しくて、南城領にある宝石店や鉱山をまわっていたが、まったくといって進展はなかった。お金なら払いますと言っても、浩宇先輩が話してくれた昔のことがやはり深い傷となっているようで、信用してもらえない。
わたしは額に浮かぶ汗を拭って、鉱山近くの岩陰で息をはいた。水が飲みたい、そう思うけれど、南城領に井戸は少ない。湧いていると思っても、そのほとんどが湯だ。しかも、鉄分が溶けだしていて飲むことはできなかった。目の前に水があるのに、乾いた体を癒すことすらできないなんて。
「……こんなに大変だとは思いませんでした」
南城領は白華と違って蒸し暑い。花都の南側に位置していることも関係しているのだろうが、それ以上に鉱山から噴き出す水蒸気や採鉱のための爆発、細工師たちが使うたくさんの炉によって、領土全体があたためられているらしい。
決して綺麗とは言えない衣服をまとう人々も、最初のころこそ、わたしの制服を見て物珍しげだったが、三日もすると慣れてしまったのか、今は誰ひとり見向きもしない。
鉱山を爆発する音が日に何度か響き、時々、地面が揺れる。岩が崩れおち、砂が舞いあがる。おかげで、綺麗な服もすぐに土埃で汚れてしまう。そのせいもあるかもしれない。
とにかく、ここの領民たちは、服飾というものに興味を持てるほど、余裕がある生活ではないようだった。
わたし自身も、もはや身なりにはかまっていられなくなった。
どこから聞きつけたか、物乞いのような人が現れて、わたしの持っているお金を盗んでいこうとすることもあって、気が休まることもない。
浩宇先輩が気をつけろ、と言ってくれた意味がようやくわかり始めたくらいだ。
「でも、こんなことで諦めてちゃダメですよね」
まだまだ鉱石商は多い。南城領は広く、鉱山を超えるだけで一日とかかる。足を止めている暇はない。
身銭を切って馬車を呼び、時には鉱石を運ぶ荷車と一緒になって移動する。
南城領の東、浩宇先輩の実家があるという村についたのは、夕暮れを過ぎてからのことだった。
「宿を探さなくちゃ」
わたしはカバンを背負いなおし、靴を抱えて、険しい山道を進んでいく。
しかし、わたしの足は最近身についた直感によって、すぐに止まることになった。
嫌な予感がする。
それは、人さらいにあったときと同じ。心臓を直接触られたような、ゾワリとした感覚が背筋を駆け抜ける。殺気にも似たなにかがそこにある。
引き返そうか、とゆっくり後ずさりすると、道の遠くに揺らめく黒い影が見える。暗くて距離まではわからない。ただ、もうあまり遠くないことだけは明確だった。
わたしはそっと近くの岩陰に潜んで息を殺す。
鉱山の向こう、サリサリと砂を削るような音と荒い呼吸音。人間のものではない。低い唸り声が聞こえる。そっと顔を出して様子を窺うと、黒い毛並みが目に飛びこんできた。
狼だ。
やつれているが、自分と同じくらいの大きさだろうか。片足をひきずっていて、乾いた血のような痕が足にこびりついていた。もしかしたら、鉱山に棲みついていたのかもしれない。採鉱のための爆発から、命からがら逃げてきたのかも。獰猛そうな瞳はぎらついていて、人間への憎悪をしたためているかのようにも見えた。
わたしの心臓がバクバクと高鳴る。相手は嗅覚を頼りにあたりを動き回っている。わたしは音を立てないように、ゆっくりと岩陰を移動する。カツン、と足先が岩を蹴り飛ばした。狼がこちらを見つめる。カラカラと乾いた音が地面を転がる。わたしは慌てて大きな岩の裏に身をしまいこむ。大げさに聞こえるくらいの鼻息と、地面を蹴る音が近づいてくる。
これ以上はまずい。
わたしが咄嗟にしゃがみこむと、同時、わたしの数歩先まで来ていた狼の足がザリザリと小石を踏みわける音を鳴らしながら遠ざかっていく。
ホッとわたしが胸をなでおろした瞬間――
「グルルルゥゥウウ!」
わたしの頭上にぬっと狼の体が現れた。
「ひっ⁉」
恐怖のあまり、わたしの声が出なくなる。狼がわたしの体めがけて飛びかかる。わたしは靴を落としてしまわないように必死に胸元へ抱えこみ、体を横へと転がした。ゴツゴツとした岩がそこらじゅうに転がっているおかげで、狼も簡単には動けないらしい。安定した岩場に足を定め、わたしの動きをじっと見つめている。
荒い呼吸、山地の熱、さびた鉄のようなにおい。そのすべてに頭がおかしくなってしまいそうだった。
周りは暗く、人の気配はない。そもそも、南城領に土地勘はなく、どちらへ向かっていけばよいのかもわからない。
どうすれば……。
考えている間に、狼が再び乱雑ともいえる動作でわたしに襲い掛かる。切り裂くように動かされた爪がわたしの腕をかすめた。痛みよりも、熱が体を駆け抜けていく。
「っ!」
奥歯を軋ませ、ぐっと悲鳴をこらえる。
まだ、こんなところで、死にたくない。
暁さまに、もう一度笑ってもらうまで、わたしは死ねないんです!
決死の思いで睨み返すと、狼と目が合った。にたりとひきつった笑みを浮かべているように見える。狼の目は肉がなく深くくぼんでいて、全体的に痩せこけている。太い唸り声に似合わず、腹のあたりもガリガリだ。背中は骨が浮いている。大きく見えた体は、思っていたよりも細く、脆いものに見えた。
これなら……。
白華の民は、狩猟民族だ。雪に閉ざされる土地では、山々に棲む動物たちが貴重な食料。兄さまたちが狩ってきたもののほうがもっと立派だった。
わたしがゆっくりと立ちあがると、狼はグルルル、と低い声を出しながら距離を取った。向こうも人間は怖いはず。まずは相手を威嚇する。わたしも精いっぱいに体を大きく見せ、腰を低くさげる。抱えていた靴を両手に持ち変え、靴底をバツンと合わせて鳴らす。皇族の大切な靴だが、これは試作品だ。どうせ、捨てられてしまうもの。ならば……。
「ごめんなさいっ‼」
わたしは、大声で謝罪を述べ、力いっぱい岩場を踏みこんだ。突進してくる狼に向かって、靴で狼の顔をはさみこむ。皇族の靴底には、足の形を美しく保つために小さな鉄板が一枚敷かれているのをわたしは知っている。
狼の痩せこけた頬骨に、ガツンと鉄がぶつかったような感触があって、わたしの手がビリビリと痛んだ。
「キゥッ⁉」
短い悲鳴。狼は力を失い、続けて、体がずるりと地面へ吸いこまれていく。細身の黒い影が転がり、あたりの岩場が崩れてガラガラと音を立てる。
終わった……。
だが、同時に、わたしの体からも力が抜けていく。ハァ、ハァ、と肩で息をする。狼が呼吸していることだけを確認して、わたしはズルズルと恐怖ですくむ足を引きずった。
燃え広がらないように松明を掴んで、わたしは岩に体をこすりつけながら立ちあがる。
初めて狼を倒した興奮か、それとも襲われそうになった恐怖か、まったく別のなにかのせいなのか、それはわからないけれど、頭がクラクラとする。
「翠!」
後ろから、どうしてか聞き覚えのある声がした気がした。
けれど、わたしはそれ以上自らの体を支えることもできず、その声の主を確認することすらできず、ゆっくりと闇に飲みこまれていった。




