13.秘色、胸にしまうふたり
「今までのご無礼、大変申し訳ございませんでした!」
「はは、いいよ。気にしてない」
謎の青年、改め、暁さまにわたしは勢いよく頭をさげる。彼はクスクスと笑った。
宝飾殿の倉庫脇、ひとけのない中庭を見ながら、気にした様子もなく石段に座る彼は、そうしているととても第一皇子とは思えない普通の青年だった。
「さあ、採寸しようか」
薄手の長襦袢一枚になった暁さまは、のんびりと気持ちよさそうに日差しを体にたくわえているように見える。わたしはその休息を邪魔しないように、後ろから肩幅を測り、背中周りを測り、ときには前にかがんで腕の長さや手首の周りを測り、紙に数字を書き写していく。決して大柄には見えないけれど、しっかりと鍛えられているのがわかる。
再び背中側へまわると、絹の光沢を反射する下着越しに、彼の背中に無数の傷があるのが見えた。
「……ずいぶんと、お怪我をなされているのですね」
思わずわたしは布越しにその傷を撫でる。くすぐったそうに暁さまが身をよじった。
「この国を守るための鍛錬さ」
当たり前のことのように彼はサラリと流す。助けてもらったときも、ずいぶんと強い人だと思ったけれど、きっとたくさんの鍛錬を積んでいるのだろう。
「翠と言ったね」
わたしが答えに迷い、腰回りに手をかけたところで、今度は暁さまがチラとわたしを見た。
「僕からも聞きたいことがあるんだ」
「なんでしょう?」
「不思議なんだけど、君とは以前にも会ったことがあるような気がしてね。君を助けたあの日よりも、ずっと前に」
手からすべり落ちた巻尺が木目の上を転がっていく。わたしは慌ててそれを追いかけた。
拾いあげ、顔をつくる。なんのことかはわかっている。心当たりもある。ただ、肯定してはいけない。親戚がいますとただひと言そういえばいい。それだけでいいのだ。
わたしが振り向くと同時、わたしを覆うように影ができた。
木漏れ日に揺らめく朱の髪と、その隙間に射す金の光に、ドクンと大きく心臓が跳ねる。
彼の手がわたしの頬をなぞる。顎が掴まれる。じっとわたしの瞳を覗く暁さまの目は夜明けを告げる色に輝いている。すべてを見透かして燃やし尽くしてしまいそうな、飲みこんで消し去ってしまいそうな、見えないなにかがわたしを捕らえて離さない。
彼は次期皇帝だ。身分詐称がばれれば、いや、性別がばれた時点で、わたしは追放される。おそらく、白華の家族にも迷惑がかかるだろう。
でも……でも、まだ、わたしは夢を叶えていない。
わたしはカラカラになった喉を潤すために、ゴクンと一度つばを飲みこんで、巻尺を握りしめた。
「……そう、でしょうか。すみません、ぼくはまったく覚えがなくて」
以前にも会った、という暁さまの記憶は、きっと間違ってなんかいない。おそらく梓英兄さまの結婚式で、わたしたちは顔を合わせている。でも、わたしが覚えていないのは本当。あのとき、わたしは皇族の宝飾ばかりに夢中で、皇族の顔など一切見ていなかったのだから。
嘘じゃない、嘘じゃないです。わたしは自分に言い聞かせる。
無理やりニコリと作り笑いを浮かべると、暁さまの目が少しだけ陰った。けれど、彼もそれ以上はなにも言わず、わたしから手を離す。
「そう、僕は記憶力がいいほうだけど……勘違いかな」
「きっと、勘違いですよ」
先ほどまで座っていた場所にもう一度腰をおろした暁さまの背が切なく見える。わたしは巻尺をそっと彼の腰にまわして、その数字を記憶する。紙に書いて、今度は股下から足へ。彼の前へまわりこむ。
暁さまは、もう、わたしを見なかった。
「初めて見た日からずっと、探している人がいるんだ」
叶わぬ夢を語るように、ポツリと暁さまの口からこぼされた言葉に、胸がキュッと締め付けられた。その胸の痛みに、わたしは、あれ、と首をかしげる。なぜでしょうか。わたしは胸元を抑える。サラシをきつく巻きすぎたのかもしれません。
わたしが相槌をうたないことをよしとしたのか、暁さまは続けて呟いた。
「成人の儀が済んだら、本格的に妃を探さなければいけないんだけど。君、いい子を知ってるかい?」
今度は明確な問いかけだったから、わたしは少し戸惑った。顔をあげれば、やはり、暁さまは寂しそうに笑っている。彼の心には、優しさと困惑と諦めが混ざり合って共存していて、そのことにも辟易としているようだった。わたしはただ、彼の望む答えを探す。
「ぼくは、新人ですから、まだ女性のことはよく」
「はは、それもそうだったね」
正解だったらしい。彼の顔が少しやわらぐ。わたしはそっと彼の足を持ちあげ、巻尺で足の甲を測る。靴を作るのも宝飾殿の仕事。実際の型紙や靴型を作るのは別の部署だが、そこに宝飾をつけるのだ。
「……成人の儀が、お嫌なのですか?」
気になっていたことを尋ねれば、暁さまは少しだけくすぐったそうに目を細めて、
「難しい質問だね。嫌ではないよ。正しくは、その日が来てほしくない、かな」
といたずらっ子のような口調でささやいた。内緒にしておいてくれ、と人差し指を口元に当てることも忘れずに。
「成人の儀なんてなくたって僕らは成人になるだろう? だったら、儀式を辞めて、そこに使う経費を国民の生活に回したいんだ。そうすれば君みたいに、人さらいに合う人も、人をさらわなくちゃ生きていけない人も、少しは減らせるはずだしね」
「あっ」
わたしがうつむくと、彼のささやかな笑い声が頭上に降った。からかわれたのか、真剣なのかわからないけれど、国民のことを本気で思っているのだろうということだけは、わたしにもなんとなくわかった。
「妃だって、まだ選ぶつもりはない」
「先ほどの……ずっと、探している人と、関係が?」
「はは、笑えるだろう? 夢のまた夢だ。でも、諦めきれなくて」
暁さまの言葉に、わたしの手が止まる。
この人も、次期皇帝という自分の立場に関係なく、諦めきれない夢があるんだ。
――きっと、暁さまは、その人のことが……。
そう思うと、胸が熱くなって、目頭がどうしようもなくあばれて涙がこぼれそうになって、わたしはそれを隠すためにうつむいて黙々と採寸を続けた。
この人を見ていると、どうしてか、無性に胸が痛い。わたしと同じように、諦めきれない夢を抱いているからでしょうか。それとも……。
わたしは足先を測っていた巻尺をほどいて丸める。
「……終わりました」
「おや、早いね。沐辰はおしゃべりが長くて退屈だし、浩宇は小うるさいか静かすぎて退屈だし、採寸はあまり好きじゃなかったんだけど。君はその点、僕の話を聞いてくれるし、丁寧だ。今度から君が来て」
「逃げずに、採寸させていただけます?」
「はは、そうだね。約束する」
暁さまが試着着を渡そうとするわたしの手を取って、親指を合わせる。子供っぽい、約束の合図。その指先が熱くて、わたしの心臓がもう一度跳ねる。
木製の廊下が小刻みに揺れ、遠くで暁さまを呼ぶ声がした。
「だから、また会おう、翠」
ニコリと微笑んだ暁さまは、着衣をきちんと羽織りなおして立ちあがると、声の方へと歩いていった。




