11.立ち込める鉛色の雲
「それは恋ね」
命の恩人について話すわたしに、桃姉さまがニコニコと生あたたかい視線を送る。
桃姉さまの突拍子もない相槌に、わたしはポカンと口を開けた。
「服飾のことばっかりだったあなたが、ついに恋だなんて」
「……いえいえいえ! 違います! そんなんじゃ!」
「だって、ずっとその殿がたのことを考えているんでしょう?」
「それはそうですけど、でも、それは命の恩人だからで……」
「本当にそれだけかしら?」
「本当にそれだけですよお!」
命の恩人の手がかりがないかと思って、姉さまに話をしたのが間違いだったかもしれません。
もう! とわたしが頬を膨らませると、桃姉はコロコロと笑った。
「珠翠……じゃなかったわ、翠は、まだ恋を知らないものねえ」
「別に、知らなくても生きていけます」
「ふふ、そうすねないで。恋をするのは悪いことじゃないわ」
「だから、違いますってばあ」
「その人のことを考えるだけで、胸が高鳴ったり、胸が締め付けられたりすることはない?」
途端、朱髪の青年が頭によぎる。なぜかドクンと心臓が鳴った気がして、わたしは思わず胸元を押さえた。
……いえいえ、ありえません! 姉さまが変なことをおっしゃるから!
わたしはブンブンと頭を振る。恋だなんてありえません。だって、わたしは宝飾が好きなのですから!
「今度の成人の儀に向けて、先輩たちが作っている宝飾を見ているほうがよっぽどときめきます!」
第一皇子が成人の儀で着用する予定の礼服はまだまだ制作途中だが、上等な絹の布を並べているだけでも心が弾む。皇族のみが使用を許される金糸に初めて触れた日は魂が震えたし、体中を雷が駆け抜けたみたいだった。浩宇先輩が作っている髪飾り用の金細工は日に日に美しさを増していて、見るたびに気分があがるし、沐辰先輩が作っている上衣の刺繍もどんどんと豪華になっていて、見とれてしまうほどだ。
戻ったら、髪飾りに使うかんざしの鉱石を選ぶんでしたっけ? 浩宇先輩が作っている細工の形に合うのは……。
「翠」
呼びかけられて、わたしはハッと目を見開く。
「口元、よだれが垂れてるわよ」
桃姉さまが、トントンと口の端を指でたたいて苦笑した。慌てて手で拭う。宝飾のことを考えてうっとりとしてしまうのはともかく、よだれまで垂らすのはさすがに恥ずかしい。
「ほんと、昔から服飾が好きなのね」
桃姉さまの呆れたような笑みにも、最近はすっかり慣れつつある。
「はい、それはもう」
「今の仕事は楽しい?」
「もちろんです! いつか、すごい宝飾師になって、桃姉さまにもとびきりの服飾を作ってプレゼントしますから、楽しみにしててくださいね!」
桃姉さまが梓英兄さまのように皇族の人と結婚なされて、皇族家の一員となるのかはまだわからないけれど。
そのときまでには、ひとりで皇族の服飾を任せてもらえるようになっていなくちゃいけませんね!
「そのためにも、まずは成人の儀を素敵なものにしてみせます!」
またひとつ新しい夢ができた、とわたしが期待に胸を弾ませていると、
「そうだわ」
桃姉さまはなにかを思い出したように声を潜めた。
姉さまは周囲をキョロキョロと見回し、身をかがめる。ちょうど昼飯どきの今は、中庭で思い思いに食事をとっている官人さまたちも少なくない。
桃姉さまは裾で顔を隠し、ちょいちょいとわたしを手招きする。そのまま、たおやかな裾でわたしと外界を遮った。さらに、なにかを警戒するように桃姉さまはわたしの耳元に手を当てる。
「成人の儀で思い出したのだけれど……。実は、牡丹宮でよくないうわさが流れているの」
「よくないうわさ?」
嫌な予感がする。わたしも身をかがめ、ふたりで四阿の影に体を隠す。
「皇宮の跡継ぎ問題のこと、翠はなにか聞いてる?」
「跡継ぎ問題、ですか?」
先輩たちが時折こぼしている愚痴を思い出して、わたしは眉をひそめた。
皇宮には現在、ふたりの皇帝候補が存在している。ひとりは本妻の息子であり、第一皇子の暁さま。もうひとりが第二妃の息子であり、第二皇子の黒星さまである。
暁さまは武芸と知性にあふれているが、やや不真面目で、よく姿をくらまし、どこをほっつき歩いているのやら、と側近たちを困らせているらしい。対して、黒星さまは暁さまに劣らず武芸にとんでいて、素手で戦わせれば暁さま以上だろうと名高い。頑固なところはあるが、政にも厳格でまじめな黒星さまは、暁さまの不在を任されることもあるという。
ふたりの年の差がたったのひとつということもあって、血筋や実力だけなら暁さま、普段の堅実ぶりを見れば黒星さま、と皇宮内でも派閥がわかれているのだ。
第一皇子である暁さまの成人の儀を目前に控えた今、皇宮内の派閥争いが顕著になってきているのはたしかなようだった。
「浩宇先輩も、沐辰先輩も、どちらが跡継ぎでもかまわないと思っていらっしゃるようですから、話題にのぼることは多くないですが」
「あのふたりはそうでしょうね、翠と同じで宝飾バカだもの」
「バ……」
「でも、牡丹宮じゃそうはいかないわ。わたくしはあまり興味がないけれど、妃になりたい女性陣は必死なの。選んだ男性が皇帝にならなければ、妃になることもできないでしょう?」
さきほど、バカと言われたような気がしますけど、きっと気のせいですよね! わたしは気を取り直して、なるほど、とうなずく。
「だから、いろいろなうわさも流れるわ。根も葉もないものも多いけれど……最近、黒星さまが本格的に皇帝になろうと動き始めたって聞いたの。それだけならいいんだけど、暁さまを暗殺するって計画もあるみたい」
「暗殺⁉」
思わず大きな声がでる。桃姉さまがわたしの口を慌てて塞いだ。
「成人の儀の宝飾を作っている宝飾殿の人たちは、暁さまと接触することもあるかもしれないでしょう? あくまでも、うわさだけど、翠も用心してちょうだいね」
桃姉さまの忠告に、わたしはコクコクとうなずく。暗殺だなんて、聞いただけでもゾッとする。
浩宇先輩も採寸がどうとか言っていたはずですよね……?
試着中に暗殺、なんてことがあれば、先輩たちも危ない。
まずは先輩たちに相談しましょう。
わたしは「桃姉さまも気をつけて」と会話を切りあげ、早速宝飾殿へと足早に駆け出した。