第02話 自動車
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久保井先輩が東京に行ってしてしまうと、僕と涼子さんとが繋がっていたものがプツリと切れた。
それはごく当然なことで、涼子さんは久保井先輩の彼女だったのだから、先輩がいなくなると会うこともない。
これがもし涼子さんと僕が同じ大学だったとしたら、構内で会ったり、なにか他の友人経由で繋がりがあったのかも知れない。
けれど僕と久保井先輩は同じ大学の同じクラブだったのに対して、涼子さんは違う学校だった。先輩と涼子さんはバイト先で知り合ったのだ。
だから本来僕と涼子さんは出会うこともなかった。久保井史哉という人がいなかったのならば。
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久保井さんは晴れて都市銀行の銀行員になった。金融か商社に勤めたいと言っていた希望が叶ったのだ。僕とは違ってエネルギッシュで、前向きで、とにかく久保井さんは僕には無いものを全て持っているような人だった。
高校時代から数えて涼子さんは久保井さんの三人目の彼女だと、僕は知っていた。いや、久保井さんとある程度親しい人なら、その程度のことはみんな知っていた。そのくらい久保井さんは開けっぴろげな人だった。僕はそんな表裏の無い久保井さんが好きだったし、そんな自由奔放に生きる久保井さんがほんの少しだけ……妬ましかった。
でも久保井さんは二つ下の僕を可愛がってくれたのだった。それはお互いに下宿が近かったというだけでなく、『お前は出来がええんか悪いんか分からん弟みたいやから』という理由もあったという。そんな訳の分からない理由を僕に対してハッキリ言うところが、やっぱり久保井さんなんだなと僕は思っていた。
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僕は四月になって久保井先輩と涼子さんという二人を同時に失い、本当ならポッカリと心に穴が空くところだったと思う。ところが現実にはそうはならなかった。ポッカリと空くはずだった部分に、埋まってしまったものがあったのだ。
三月の一番終わり、久保井さんが引っ越す前に僕は久保井さんからあるものを預かった。それは久保井さんが乗っていた自動車で、大学に入ってからアルバイトをして買ったというスターレットだった。
僕はこれまで何十回、いや百回以上もこの車に乗せてもらっていたし、先輩が免停になった時などは喜んで運転手代わりをしていた。なにしろ先輩が免停中は僕が好きな時に車を持ち出せたのだから。
「和田、俺が卒業したあと、これ預かっといてくれるか。もしかしたらそのままお前にやるかもしれんけど」
先輩は三月の終わりにそう言ってニコリと笑ったのだ。
その時点で車検がまだ一年残っていたスターレットは走行距離が十万キロで、まだもう一回は車検を通しても十分乗れそうな感じだった。
「ええっ!? ホンマですか?」
僕は驚いた。当然久保井さんは引っ越し先に車は持っていくものと思っていたのだから。
「うんええで。研修中は車を置くとこなんか無いし、よほどの地方やない限り、寮とかに車を置けるかどうか行ってみんとわからへん。それに――」
それに、社会人になったらもうちょっといい車を買うと思うから。という意味のことを先輩は言った。
「じゃあ、保険とか、名義とか、変えんとアカンですよね」
「うーん、そうやな。まあ任意保険は全年齢担保やったし、家族特約も付けてないからあと半年はそのままでええで。それまでにはどうするか連絡するわ」
そう言って、久保井さんは僕に車のキーといろんな書類を渡してきた。僕はもう嬉しくなって、何度も何度も久保井さんに頭を下げたのだった。
そして四月中旬、久保井先輩は研修が終わって東京に配属となった。寮には駐車場はあるものの、今は空きがないという。近くの月極駐車場は月に三万円もするらしく、それなら寮の駐車場が空くまでその三万円を新車購入資金に充てると、先輩は電話で僕に言った。つまりは、スターレットは僕のものになったのだった。
『あれなあ、アライメントがちょっとだけおかしいやろ。直してもらったらエエんやろうけど、放ったらかしやから気をつけなアカンで』
「そんなん前からですやん、もう慣れてますって」
先輩のスターレットはタイヤのアライメントがちょっとだけ狂っていた。直線でハンドルから手を離すと、いつの間にか右に寄ってしまうのだ。
『そうやったな。じゃあ名義変更とかの手続きは和田がしてくれるか? 俺、新生活でバタバタやから』
そう言って先輩は電話を切った。僕はまだ大学生で、ある意味拘束時間なんて無いようなもの。それに対して久保井さんはもうサラリーマン。それに加えて自動車は僕が貰う立場なもので、譲渡証明やら何やらの必要書類は僕がいろいろ書いて集めて回って、先輩には印鑑と印鑑証明だけを貰った。
なんだかんだで名義変更には二~三週間かかり、ようやく車検証の名前が僕の名義に変わったのはゴールデンウイークも明けて、五月も中旬になろうとしていた。
自分の車を持てたとことに僕はもうすっかり嬉しくなってしまい、一ヶ月ほど自動車で掛かりっきりになっていた。涼子さんのことを忘れた訳ではなかったけれど、譲渡の手続きとか、未来のドライブの計画とか、それから車の維持費をどうしようかなどと、そっちの方に頭が行ってしまっていたのだった。
けれどそれが一段落ついた頃、あることで僕は涼子さんの存在を強烈に思い出してしまったのだ。そのきっかけは自動車の掃除をしていた時に座席の下から見つけた、涼子さんのヘアブラシだった。




