第01話 ’92 不便な時代の記憶
あの日の朝のことは、いまでもよく覚えている。
テーブルの目覚まし時計に目をやると、その針は八時五十分になろうとしていた。
僕は「そろそろ行くか」と、独り言を呟いて部屋を出る準備を始めたのだ。
一人暮らしのアパートは窓が東向きに面していて、カーテンの向こう側からは五月の日差しが照っていた。
そのカーテンを少しあけて、「暑いかなあ」と、また独り言を吐いてから僕は半袖のシャツを着てジーンズを履く。
ジーンズのポケットに財布を入れるときにその中身を確認し、上原先輩から無理矢理渡されたソレがまだ入っていることに、僕は「はあ……」とため息をついたのだった。
彼女が最寄り駅を出たのは多分七時前。電話で言っていた通りに電車に乗ったとすると、九時十五分頃にはこちらに着くはずだった。
彼女――、そう僕の彼女の倉本小夜香は一つ年下の高校三年生だった。大学で一人暮らしを始めた僕のところに遊びに来るといって、彼女は電車を乗り継ぎ二時間もかけてここに向かっていたのだ。
電車を乗り継ぎ、といってもあの時はまだ電化されていないところが半分もあって、ディーゼル機関車が長々と客車を引いていた時代。それに携帯電話も普及していなかった時代。そこそこあったのはポケベルくらいで、朝に「今から家を出る」、と彼女から電話をもらったのが一番速い連絡手段だったような、――そんな不便な時代だった。
△
アパートの三階から階段を降りようとすると、煙ったような海峡の向こうに大きな島影が嫌でも目に入った。淡路島だった。
今では吊り橋で繋がっている本土と淡路島だけれど、当時はそんな巨大な吊り橋は影も形もなかった。
もちろん橋の工事は始まっていたし、テレビで大きなケーソンが沈められたニュースも見ていた。けれど未だ橋の主塔も何もないこの海の上に、本当に大きな吊り橋が架かるのだろうかと、大学生になったばかりの僕には半信半疑だったことを覚えている。
そんな海の向こうに見える淡路島から腕時計に視線を移すと、時間はもう九時を過ぎようとしていた。僕は「やばっ」と呟いて階段を降りた。
アパートから駅までは歩いて十五分程度で、片側二車線の主要道路は交通量もそれなりに多い。行きはいいけど帰りは少々疲れる坂道を僕は軽快に下り、いつも買い物をしているダイエーの前を通って、ようやく電車の架線が見えてくるところまでやってきた。
ここまで坂道を下ると、もう淡路島の島影も見えず、排気ガスのにおいで潮風も感じない。ここから十分も歩けば舞子の海岸線に出ることになるのだけれど、この周囲で海を感じるのは、「釣りエサ」と書かれた看板くらいのものだった。
やがて前方に見えていた電車の架線が近づいてきて、道路と並行に電車が走るようになる。
その線路上を舞子駅には止まることのない新快速が、全速力で東に走っていく。それを見た僕は、『まさか小夜ちゃん、アレには乗ってないよな』と思いながら、出会った時のことをふと思い出したのだった。