第13話 王様の耳は――
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「――で、野田さん、その女の人を部屋に送っていって、すんなり帰ったんですか? 一緒にいて欲しいって言われたのに」
真剣な目をした秋山の顔がそこにあった。俺は青信号に変わったことを確認して、クラッチをつなぐ。もちろんエンストなんてせずに車は発進した。
「帰ったよ、あたりまえやん。手術の直後やからアイツも混乱してたんやろうし、もし一緒におって……、まあ術後やからエッチなことは出来へんけど、抱きつかれたりしたら理性飛ぶやろ。そんなんアカンアカン、君子危うきに近寄らずやって」
あの後、俺は広池を部屋まで送っていった。そこで広池は半分笑いながら『今日は一緒にいて欲しいんやけど』と言ったのだ。俺は敢えてそれを冗談と受け取り、『安静にしとかなアカンやろ』と断ったのだ。
「でもアレでしょ? その人、野田さんのこと好きやった、って言ったんでしょ?」
なぜか秋山は不満そうな顔で聞いてくる。
「いや違うって、『私、野田くんのこと好きやったんやと思う』って言うたんや」
「そんなん、どう違うんです?」
一転して吹き出しそうな表情に変わった秋山が言った。
これはあの場にいなかった秋山なら同じだと思うかもしれないけれど、現場にいた俺ならわかる。あれは俺に向かって言った台詞じゃない。広池が自分を納得させるために言った台詞なのだ。
「違う違う、全然ちがう。秋山もそれが分かったら彼女が出来るって」
俺がエラそうにそう言うと、「モテる人は言うことが違いますね」と呆れたように秋山が肩をすくめる。
「で、どうなったんです、そのあと。その女の人と」
「うん。一回電話があったわ、ありがとうって」
「それだけですか? ホンマですか?」
今度は疑わしそうな顔つきになった秋山がこっちを見た。
「ホンマや、それ以外ない。そんなもんやって、心細いときには誰かに頼りたいんやって。それが一番身近な親兄弟とか親友と違う人間が最も適役、っていう珍しいこともあるんやと思うわ。自分のことを知ってて、適度に離れてて、それでいて現状は利害関係のない人物。喉元過ぎれば熱さを忘れるやないけど、アイツもいつまでも今回のことに拘るよりも、早く忘れて欲しいわ、ホンマに」
「フッ、野田さん、それその諺やったらちょっと意味が違いますやん。『喉元過ぎれば――』って、野田さんに世話になった恩を、その女の人がサラーッと忘れるっていうことですよ」
「ええねん。それでええねん」
俺は心の底から、それでいいと思った。広池には、今回のことを綺麗さっぱり忘れてもらいたかった。たとえ同窓会で出会っても、何食わぬ顔で「久しぶり」と言ってくれるくらいに忘れて欲しかった。
「ホンマですか、それでええんですか?」
秋山が再確認をしてきた。俺は無言で何度か頷く。
「やっぱりモテる人は言うことが違いますねえ~」
今度の秋山は、何かを悟ったように言った。
「秋山やったら、どうしてた?」
俺は意地悪な質問をしてみる。
「そうですね、その女の子が美人かどうかで決めますね」
秋山のメガネの奥がニヤッと笑う。どう見ても本心じゃないし、コイツは本当にそういう逃げ方が上手い。
「で、野田さん。なんで僕にこんな話をしてくれたんです? ただ変な場所でこの車を見かけただけですやん」
「そうやな……、なんでやろな。やっぱり、『王様の耳はロバの耳』って言わへんかったら、なんかしんどいんやろな。あの童話はうまいこと出来てるわ」
『王様の耳はロバの耳』、広池は自分が妊娠していることを俺に告白して心が落ち着いたのだろうか? そして今後は、この秘密を俺と広池が共有することに不安はないのだろうか。いや、そんなことよりも俺は広池に早く忘れて欲しい。広池がこの事件全部を忘れたいのならば、いっそ俺のことを忘れてもらっても構わない。
「へえ、じゃあ僕が『王様の耳はロバの耳』って言う可能性もありますよ」
俺の思考を秋山が遮ったけれど、不思議と腹は立たない。それどころか秋山がいつもするしょーもない話をして欲しいくらいだ。たとえばイルカとクジラは生物学的には一緒、とかの無駄話を。
「それも考えたけどな、秋山が誰に言うねん、ていう話や。どう考えてもその女の子には繋がらへんやろ、俺、名前も言うてへんのに」
「でも僕が野田さんの彼女に言うかも知れませんよ」
ニヤリ、と秋山が笑う。これもどうみても本気ではない。
「ああ、それな。もう彼女には言うた、残念やったな」
「マジですか? やっぱりモテる人は行動も早いですねえ。で、ところで野田さん。さっき王将、通り過ぎましたけど」
「え、マジで!?」
俺がバックミラーを確認すると、餃子の王将の看板はドンドンと遠ざかっていくところだった。
<高校のクラスメイトだった女の子が妊娠したらしいから産婦人科について行った話、もちろんヤった相手は俺じゃない。:終わり>