第10話 ヤバい、後輩に見られた
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「野田さん、このまえ月見山のところですれ違いましたけど、何してたんです? なんか駐車場から出てきてましたけど」
それは広池の人工中絶手術から一週間ほどが過ぎた頃だった。サークルの後輩がそんな質問を投げかけてきたのだ。
「えっ、えっ、いつ?」
俺は多少狼狽して後輩を見返す。
「一週間くらい前やったかな。僕が西浦さんの車を借りて走ってたら、野田さんの車を見かけたんですけど、月見山の……、ほら、インターに曲がる手前のとこで」
「ええ……、それ俺と違うやろ。秋山の見間違いとちがうか」
内心で焦りながらも俺は否定をした。
「そうかなあ、ツートンカラーのマーチなんか、野田さんの車以外見かけたことないけどなあ……」
その後輩、秋山はそうブツブツ言いながら俺のところから離れる。そして俺は、ヤバい、秋山に見られた、と臍をかんだ。
秋山という後輩は結構鋭く、頭の回転も速い。いまのところは俺が否定したけれど、そのうち否定したこと自体を不思議に思うかも知れない。そして俺が車を止めていた駐車場がどこかを調べるかも知れない。そうなると決定的にヤバい。そこは広池が人工中絶手術をした産婦人科の契約駐車場だったのだから。後日、「どうして産婦人科の駐車場から出てきたんですか」などと聞かれたら、どう言えばいいのかわからない。
俺は秋山に言うかどうかを迷った。ただ、言うにしても今はマズい。なにしろ部屋には俺たち以外にも部員がいる。話すとしたら秋山と二人きりの方がいい。
「おい秋山」
俺は秋山を呼んだ。「なんすか」と秋山が振り返る。
「今日、メシでも食う?」
「いいんすか?」
「ええで」
「じゃあ、ゴチになります!」
これで秋山を確保した。あとはどこで言うかという問題だけど、車の中で言うのが無難だろうと思う。
「秋山は原付やろ。じゃあ後で俺のアパートに寄って。車で王将でも行こか」
「六時くらいでいいすか?」
「うん、ええんちゃう」
貧乏学生の味方、餃子の王将。あそこなら秋山に腹一杯食わせても大丈夫、たいして金はかからない。それに秋山は『喋るな』と口止めすれば多分喋らない。どうでもいいことは結構ベラベラ喋るけれど、シリアスな話は大丈夫だろう。
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この一週間、俺は結構傷ついていた。中絶手術の同意書にサインしたことは納得しているつもりだった。けれどやっぱりあの当日の広池の憔悴した姿と、泣き顔をみてしまうと、『できればあの件には関わりたくなかった』という自分の本心に気づいてしまう。
つまりは、あの電話には出なければよかった。という悔いに行き着いてしまうのだ。
手術当日、俺は産婦人科近くの駅まで広池を迎えに行った。広池は夏らしいワンピースを着ていて、どこにでもいる女子大生に見えた。駅を降りて僕の車の助手席に乗り込む彼女を見て、まさか今から中絶手術に向かう二人だとは誰も思わなかっただろう。
駅から車で五分ほどで産婦人科には着いた。指定の駐車場に車を停めて、二人で病院へと向かう。
俺にはまったく疚しいところは無い。けれど「自分の子じゃないですけど、頼まれて同意書にサインしました」なんて言える訳もなく、俺は広池と一緒に今日の手術の説明を受けた。
広池の表情は朝から冴えなかった。それは駅で出迎えたときから感じていたことだったけれど、病院に入ってからは会話さえ無くなり、病院側の説明にも頷くだけになっていた。
やがて手術が始まる。中絶手術で死ぬなんて可能性は限りなく低い。けれどあり得ない話ではなく、同意書にもそのようなことが書いてあった。責任は本人とパートナーが取ります、と。
広池が処置室へと呼ばれていった。彼女はただ「じゃあ行ってくる」とだけ俺に告げて、自分で歩いて行く。そして一度だけこちらを振り返り、そして疲れたように微笑んだのだった。
術後はしばらく安静にするので、迎えに来るのはお昼を回ってからにしてください。そう病院側から言われて俺は一旦建物から出た。駐車場から振り返った建物は夏なのに白くて寒々しく見え、いまあそこで広池が中絶手術を受けているかと思うと、俺はいたたまれない気持ちになった。
恐らく秋山に見られたのはこの時だったのだろうと思う。この時駐車場から出ようとした俺を秋山は見かけたのだと思った。