「日常」という不和感
お盆明けの特別実習は炊事場を使って、グループで窯焼きピッツァを作ることになった。ヒトミを巡って姦しい争いが勃発したが、アイカはスミカの誘いで幸いなことにあぶれることはなかった。そもそも参加するつもりはなかったが、スミカがアイカを見つけ付きまとってきたせいで、逃げるタイミングを失った。
「アイカちゃん、ちゃんと実習に出ないと卒業できないよ! いいのそれでっ」
「……アタシ、そもそも学校通ってないんだが」
その言葉にスミカを始め、同じ班の名前も知らない女子たちも驚いていた。
「ああ面倒くせえ。もう勝手にやってくれ」
いちいち理由を尋ねてきそうな雰囲気から逃げる。答える義理はない。何を言っても、彼女たちがアイカを理解することはないからだ。
炊事場から少し離れたベンチに座り込み、周囲の喧騒に耳を傾ける。楽しげに笑う声が、針を指すように入ってくる。これが当たり前の日常で、世界の誰もが争いとは程遠い場所を望んでいるのだと。
では、それを壊したのは誰だ。壊した後、この束の間の平和に入って良いのだろうかという自問自答は尽きない。
「なにやってんだろうな、アタシ」
掌を開いて眺めてみる。一瞬、この手が真っ赤に染め上げた光景をみた。三年前前までは、この手が土と血が混じった色でこびりついてた。二度と消えることのないものだと思っていたが、この国へ来てから土と血の後は洗い流してしまったようになくなっていた。
ミソラが加入する以前、ユキナが傷だらけの手を見て言った。
──アイカちゃんの手は色んな人を守ってきたんだね。
そう言って、両手で包み込み、浮き出たかすり傷を慈しむように撫でていった。そのときは離せと突っぱねてしまった。爪の間にこびり付いた赤黒いものを、彼女は知っているのだろうか。この小さな傷の一つが、誰かを傷つけたものだと想像に及んでいたのだろうか。今なら、それを込みで言ってくれたのだとわかる。
だからこそ初めてこの手が醜く感じた。風呂に毎日入り、爪の間の人殺しの証をなんとか拭いたかった。汚れが落ちるのは早く、アイカはどこにでもある普通の手を獲得したが、それは以前より増して人殺しの手を助長させた。
ユキナの件が片付き、また一緒にアイドルをしようと約束を交わした。だがサヌールの一件で考えが変わっていたのは、なにもミソラだけではなかった。銃と血が蔓延する場所に、ユキナを連れていけない。彼女は普通におひさまの下で暮らせるような道を歩むべきだ。
「アイカちゃんみーっけ」
背後から抱きついてくるものをサラリと避ける。するとその勢いのまま階段下へ落ちそうな彼女の腕を掴んだ。落ちるか落ちないかの状態を保ち、アイカが嫌な顔を浮かべた。
「いい加減しつこいぞ。次も同じ目にあいたくないだろ」
「アイカちゃん、見た目にそぐわず力持ちだ……」
スミカは会話の繋げず、感想を口にした。アイカの手首から腕の先を凝視し、ふむふむとうなりながら続けて言った。
「こんなに細いのに、すごい引き締まってる。何処にそのパワー詰まってるの……?」
なぜ慈しむように見るのかアイカには分からなかった。大したことはない。逆に彼女がかるすぎると思った。
「お前が軽すぎるだけだろ」
そう言って引っ張ってあげる。バランスが戻ったスミカがそのまま隣に腰を下ろし、顔をしかめた。
「日の下にいて熱くない?」
「別に。アンタこそこんなとこにいていいんか?」
「そろそろピザ完成するけど、流石に手伝わない人には食べさせてあげないよ」
別に構わないと突っぱねつつもりだったが、さきほどから香ばしい小麦の香りが届いてきた。懐かしい味を想起させる。小麦を焼いた薄い膜みたいなものに野菜やチキンをのせて包んだものに似ていた。思わず喉奥を鳴らしてしまい、はっとしてしまう。スミカが案の定、弱みを握ったように卑しく笑っていた。
「ピザ好きなの?」
「……フォアグラ付きのを一回だけ」
「凄いじゃんっ。でもそれよりきっと最高だよ。みんなで食べると美味しいんだから」
手を引かれ、アイカは従うままについていく。みんなで食べると美味しい、それは昔から知っていたことで、この国から来ても変わらないものだった。
「ヒトミさん、こっちも食べてください」
「あ、ずるい! 私の方も、照り焼きマヨネーズなんで、めっちゃく美味しいんです」
「はあアイドルに何食わせんとじゃいボケ。……おほん、ヒトミ様、冷たいクレープを用意しましたので、どうかお召し上がりくださいませ」
料理が作り終わったあとの様相は各々違うが、ヒトミのグループに関しては鬼がはびこる修羅場とかしていた。さすがに当の本人も困惑していた。
「あらあら、みんな落ち着いて。順番に食べるから、ほら、まずはこれでいっぱいお腹満たして」
そう言ってヒトミは自分が作ったピザを差し出した。すると各所から手が伸び、あっというまに切れ端がなくなった。二枚ぐらい作成していたはずだが、ヒトミの周りに集まっている女子生徒の数は二枚のピザを細かく切っても足りていなかった。
そんな様子を眺めていると、真正面から声がした。
「あ、あっちはいつもすごいですよね。大空さんっていつもああなんですか?」
自分に話しかけていると気づかず、ユズリハは遅れ気味に応えた。
「あ、いえ、あの……あまり彼女のことは知りません。ヒトミさんのああいう振る舞いは今日はじめて知りましたので」
「そうなんですね。あ、ピザどうですか」
「はい、いただきます──とても美味しいです。分けてくださってありがとうございます」
ユズリハはピザぐらいなら自分で作れると踏んだのだが、野菜を切ろうとした瞬間に他の女子生徒がとめにかかり、窯にピザをくべようとしたら床に落としてしまったりと、さんさんたる有様だった。ピザを食べるときは宅配で済ませていたユズリハは、こんなの冷凍で十分ではないかと内心思いながら、他の女子生徒からお溢れのピザを口にしながら思った。
「……美味しいです」
「あ、本当ですか。よかった〜、口に合わないものだったらどうしようかと……って、ああごめんなさい失礼なことを言って」
「いえいえ、お気になさらず。私のほうこそ、全然お役に立てなくて申し訳ありません」
「それぞれ上手なこととそうでないことはありますって。私、あまり人づきあいとかできなくて、途中から学校へ行かなくなっちゃったんです。特別課外活動に参加している人って、明星さんや州中さんみたいに、外での活動で忙しい人がほとんどです。私みたいな不登校児が来るのは、余り歓迎されていない感じです」
ユズリハのグループは特別課外活動のなかで余り物同士で形成していた。あまり他人と関わらずにいる。恐らくオンラインで授業単位を取り、課外活動で卒業単位を取得する人たちだと宛をつけていた。ユズリハを含めて三人の生徒がおり、授業の合間や作業中な一人で黙々と勧めていた。
だからこそ、ユズリハたちに異様な視線がとびかっていることにも気付いていた。このグループの空気感はきらびやかなものとは程遠く、教室の隅っこで周りを伺いながら話しているような人たちを思い出させる。幸いなことに、外部から攻撃的な行動を受けることはない。おそらく、参加者はそれほど他人に関心を寄せていないのだろう。
「みなさんは、どれぐらいの期間で終えるのですか」
「私は二週間です。二年間、学校に通っていなかったので」
一週間目が終わったばかりだからか、残りの女子生徒も二週間と答えた。つまり来週には卒業できるだけの単位を取得できるということだ。ユズリハはそれぐらいなら大丈夫だと思い、彼女たちに思ったことを言った。
「いい学校に巡り会えましたね。……私も、そうだったらよかった」
最後の方は誰にも聞かれないようにつぶやいた。彼女たちは訝しげに思いながらも、「それは私も思います」と気持ちを同じにしていた。黙々と食べ進めていくうちに、目の前の女子生徒が伺うような態度を見せた。
「どうかしましたか?」
「い、いえその。じつは先日、ネットで『旅するアイドル』のことを調べていて……」
ユズリハは思わぬところからの話題に背筋が凍った。何を言わてしまうのだろうと危惧したそのとき、浮足立つような表情から勢いよく立ち上がった。
「ゆ、ユズリハさんがPVにいて、歌ってたし踊ってたし、なんか遠い人のことだと思ったら、実際はすごく優しいし、えっと、そのっ……」
急激に落ち着きのなくなる生徒にユズリハは慌てた。
「お、落ち着いてください。ゆっくりでいいですから」
「そ、そういうのがいいなあって思ったんです。……単刀直入に言えば、ファンになってもいいですかってことなのですが……」
想像を飛び越えた発言に、ユズリハは無心の境地に至りそうだった。旅するアイドルをやっているのは、彼女の悪事の証拠を揃えるためだ。一時はパフォーマンスに参加してしまったが、あれきりだと分かっていたからこそ、恥を承知で参加できた。
なのにファンになっていいかと、訊ねるものが居た。ファンとは何意味する言葉であるのか。不可解という結論が引っかかってしまった。
「ファン、ですか、へえ」
「いけません、でしたか?」
縮こまった態度を見せる少女に、ユズリハは即座に対応した。
「そうではなくて、ファンができるとは、思いもしなかったので」
「ありえませんよ。世間が何を言おうと、パフォーマンスに嘘はありませんっ。次の曲だって楽しみにしてますからね」
つまり彼女は『旅するアイドル』を応援し、その中でも新たに加入してきた「水野ユズリハ」をいわゆる推しにしたと認識していいのだろうか。こういうとき、どんな対応していいのかわからない。対応に困り果てているときに、少女がユズリハの後ろを見てはっとした。振り向くと、ヒトミが含みをもたせた表情でいた。
「随分と盛り上がっているかと思えば、ユズリハちゃんってばファンを獲得してたんだ。関心関心、アイドルとしての自覚出てきたじゃない」
彼女たちの手前、否定するのは容易ではない。代わりになんの用か視線で訴えた。
「みんなね、今週いっぱいで特別課外活動が終わっちゃうんだってね。ユズリハちゃんのところもそうなのかなっておもって」
どういう意図の質問なのか。女子生徒が代わりに答え、同じく二週間で終了だと告げた。ヒトミはなるほどと唸り、それから炊事場の奥の方へ視線を向けた。二人きりで作業をしている、アイカとノアが同じ釜を眺め、楽しんでいる様子だった。するとヒトミが小鳥の吐息のような声がユズリハの耳に届いた。
「あれもダメか」
普段の彼女から放ったとは思えない、凍てついたものだった。ヒトミは普段から声も仕草も華やかだ。熱のない彼女を想像するのは難しいが、もし冷めた態度をとるなら外的要因によるもので熱が冷めていくのだと思った。そんな態度をとったのは、なにもアイカだけではない。風邪を引いてダウンしている彼女も同じ対象だと思った。
「ねえ、ユズリハちゃん。しっかりファンサービスをするアナタにお願いがあるのだけど」
彼女の物言いにユズリハは顔をしかめそうになった。このお願いは、きっと碌でもないことだ。
そして碌でもないことを、大空ヒトミは言った。
約束を取り付けた夜中。キャブコン内でMac bookを入手したユズリハたちは、ロックを解除するためにミソラの部屋へ向かった。幸いなことに、指紋認証でロック解除できる形式だったので、寝込んでいるミソラの指を借りた。ロックが解除されると、一目散に退散した。
二人の寮部屋へ戻り、ローテーブルの上にMacbookを置く、長野へ向かうまでのあいだ、ミソラは様々な機器を取り付けて曲作りに勤しんでいた。旅するアイドルの楽曲は、ミソラが主導で作成している。
「あっさりと中身開けたけど、どうする、ユズリハちゃんから探していいく?」
「そういう約束でしょう。まずは私から中身を検めます」
ユズリハは手当たりしだいに、Macbookのデータを開いていった。PC内の入っているものは、ミソラが作った曲のデータと、ネットで見つけた動画の録画、MVやPVの元となった素材たちが占めていた。ヒトミが提案したことは、ミソラのMacbookを覗くというものだった。各自持っている端末はスマートフォンとこのMacbookにおいて他になかった。
公安はときに他人の情報端末を探ることがある。それが凶悪犯罪を抑止するための必要なことだからだ。これは公務であり、何ら呵責を受けることはない。そう教育を受ける。大勢の人を救うために、一個人のプライバシーは無視することになる。
「どう、お望みのものは見つかった?」
ファイルやネットの検索履歴、隠しファイルの至るところまで探ってみたものの、めぼしい情報は何もなかった。
「このパソコン、曲と動画、あとはちょっとしたメモ書きしかありませんでしたよ」
「メモ書きってどんなもの?」
「曲の構想を書いたものみたいですが、どうにも抽象的で分かりづらくて」
するとヒトミが正面に割り込んできたので譲る。メモソフトを開き、上から並ぶメモを見ていた。ふうん、と納得したようで、彼女はそのまま別のソフトを開いた。
「いまので何が分かったんですか?」
うーんと言いよどむ態度をみせる。別にいいかと前置きして、言った。
「ミソラちゃんたちが、まだまともだった頃が分かったの。長野に到着するまで、このメモ書きは機能していた。けどここへたどり着いて以来、あの子はこのパソコンに触っていないことを確かめたかったのよ。あの子達にあんなこと言っちゃったけど、間違いだったら恥ずかしいし」
「はあ、言っていることはよくわかりませんが。……で、本当に確かめたかったのはこのことですか?」
「確かめるのは終わり。私がやりたいのは一つだけ。だからこれを借りたのよ」
ヒトミはメールを開き、受信フォルダを探った。そこには数件のメールしかなく、ほとんどが削除されていた。宛名は〈P〉とあり、次なる旅先のマップデータと、一件だけ曲のデータが封入されていた。ヒトミは新規メールを作成し、手慣れタイピングで文章を打ち込んだ。文面は二行で、彼女の突飛な印象を表した内容だった。しかもこれを送る相手は、絶賛療養中の〈P〉にだった
「あの、あの人が返信できるとは思えないのですが。あとなんですかあの内容は。それならこの中にだって」
「いいえここにはなかった。なら頼るのはプロデューサーにこそよ──ほら、きた」
ちょうど通知が入ってきた。送ってから十数秒も経っていない。〈P〉の行った数々の所業は人間の能力を超えたものが多いが、こうも見せつけてくるとユズリハの正体を看破している気がしてならない。
メールの内容に文章はなく、添付データが入っていた。形式は音声データのようだ。それからヒトミは懐から記録メディアのスイッチを入れた。これによりスクリーンにまばたきが終わるくらいの速さで「コピー中」の表示が浮かんでいた。記録メディアに音声ファイルが記録されたようだ。
ヒトミはそれを掲げて、ユズリハに言った。
「──私達が再び旅立つために必要なものを、これから作らないとね♪」
楽しみを見つけた人間の表情は、ユズリハにとって毒以外の何者でもなかった。なにせ巻き込まれる予感しかしないからだ。




