「日常」の違和感
たとえ血と硝煙にまみれた場所でも、子どもが教育を受ける場はあった。主に学ぶことは武器の扱い方や戦い方で、落第生は人殺しの実習をするために生徒が武器を使って始末する。その学校で優秀な成績を収める頃になると、組織の一員としての仕事が始まる。アイカが過ごしてきた学校というものは、血と悲鳴と殺意が蔓延した、地獄と呼ぶべきところだった。
最初、学校と聞いてあのときの記憶を呼び覚ました。もちろんまともな学校をいまは知っている。知っていたからこそ、学び舎の至るところに血と硝煙の香りが漂っている気がしてならない。
いま、教師が黒板の前に経ち、チョークで何かを書きながら説明をしている。器用なことをするものだ。アイカは似たような光景が合ったことを思いだす。逆に生徒が黒板にたち、戦略や戦術をプレゼーションするというものだ。そこでもあまりに滑稽な作戦を提示したものは罰が下る。死と罰の境目は厳格に定めていた。人が簡単に死ぬ状況だと、人間は仕方ないものだと思考停止に陥ってしまう。しかし、死に恐怖を与えてあげると、思考力や集中力が増加し、生きるために文字通り必死になるのだ。それに比べると、アイカがいま受けている「授業」は教師が一方的に喋り、生徒たちは好き勝手に受信するだけの装置に見えた。それが本来の授業なのかもしれない。
実に退屈だ。この退屈さが平和の象徴なのだろう。そんなふうにため息を付いていたときだった。
「ね、市村アイカちゃんだよね」
ふと横から声が聞こえ視線だけを向けた。アイカは彼女を知っていた。それ故に無視を決め込んだ。
「あ、今絶対無視したよね!? もう、せっかく友達になろうと思ったのに、そんなんじゃ一生友達はできないんだからね」
ぷん、という音が聞こえるような怒り方だった。アイカはため息をこぼした。
「関わると碌でもないことになるぞ。例えば、拳銃もたされて戦地へ連れてかれるとかな」
事実だった。実際にアイカと関わったばかりに戦闘技術を仕込まれ、突出した才能を持っていたなんてことが起こった。生まれた国、過ごした環境、関わった人が違うだけで、人は全く違う人生を進むことがある。以後、アイカは周囲に壁を作るのが常になった。
興味を持って話しかける人間も、特に己の善性を証明したいがために接触してくる輩には、ありのままの態度で臨むことにしている。
「アンタ、アイドルだろ。せっかくの命を、アタシに話しかけて無駄にするなよ」
「そんなの知らないよ。アタシ、ずっと文句言いたかっただけだから」
「文句だ?」
それから椅子と机が擦れるような音がして顔を向けてみると、隣の彼女が立ち上がり、こう言った。
「アイドルやるのはご自由にどうぞっ。けど、わたしの自己紹介をパクるのはいただけないな!!」
ぴしり、と指をアイカに突きつけて叫んでくる。「はあ?」と意味がわからない蔑むような声を出してしまう。一瞬だけアイカの態度にひるんでしまうも、彼女は立て続けにまくしたてた。
「君のあの可愛い自己紹介はね、アタシが研究に研究を重ねて生み出したの傑作なの! それを、とっっっても影響力のある人にやられると、スミカのアイデンティティが奪われちゃうじゃん。最近、アイカのパクリなんて言われて、腸煮えくり返って仕方ないんだから!」
小型犬が必死に叫んでいるとしか思えない州中スミカの慟哭に、アイカは端的に言った。
「……悪い」
「いや、普通に謝るの!? そこは主権がどちらにあるのか白黒はっきりさせるところじゃないの!?」
と瞬間、甲高い金切り音が響き渡った。発生源は黒板からだった。鼓膜から首筋をえぐり出すような余韻が残っている。教師が爪を立てて黒板を切り裂くように奏でたようだ。
「州中さん。特別課外実習とはいっても、不真面目生徒には落第を差し上げるんですよ。次、騒ぎ立てたら単位はないと思ってください」
教師は淡々とした口調でありながら、どこか凄みを感じた。アイカは教師の奇行にドン引きしていたが、スミカが「すみませんでした」とわざとらしい謝罪を返したところを見るに、生徒をおとなしくさせる効果はあるらしい。
「お前のせいで耳の奥が気持ちわるくなってきた」
「ええっ、スミカのせい!? ──もうこうなったら、どちからが可愛い自己紹介権利があるのか徹底して戦ってやるんだから」
ぷん、と鼻を鳴らして騒がしいのは止まった。自己紹介に権利もなにもないと思うが、州中スミカと全く関係がないわけではない。アイカがアイドルというものを知るために一番最初に見たのが、何を隠そう隣の彼女だった。
アイカにとって「カワイイ」というものは外見の美醜を現すものでしかなかった。しかし美醜以外で、人がこうありたい自分を表現できることを知り感銘を受けた。確かに真似といえば真似なのだが、他にも似たようなことをしているアイドルはたくさんいる。アイカの自己紹介はいうなれば、それの寄せ集めだ。
厄介な人間に捕まってしまった。それもこれからアイドルをしていくために利用したご本人様だ。別に州中スミカに愛着があるわけでも、好ましく想っているわけではない。アイカは早くこの場から脱出するために、授業中の間は思考を巡らせることにしたのだった。
たった一日でグループができあがっていた。ヒトミは授業中や休憩時間のあいだに、生徒たちとコミュニケーションを積極的に取り、その蠱惑的な雰囲気に女子生徒たちが熱を浮かすようになっていた。
「まあ、かわいい子猫ちゃんだもの。でも火遊びはしない主義なの」
と、ヒトミは学園生活を楽しむ気でいるようだ。ユズリハは自分の置所を迷っているようで、常に自分の席を離れようとしなかったが、そこに一人の女子生徒が戸惑いがちに現れていた。どうやら先日のサヌールの一件を知っていたらしく、さらにPVをみてユズリハが気になった様子だ。ミソラは「ファン獲得ね」とからかってみた。それを機に、旅するアイドルに興味を持つ人達が、ミソラやヒトミたちに殺到した。たった一人を除いては。
その例外的な一人は、別の人間に絡まれていた。ファンというよりクレーマーだ。授業を受けている最中はおとなしくしていたが、休み時間になると親の仇と言わんばかりの罵声を浴び続けた。たしか州中スミカというノアと同い年の現役アイドルだった。
やれ「芸歴はこちらが上」だの「金髪ギャルがアイドルやるな」とのネジ曲がった持論まで飛んできた。アイカは鬱陶しくなった場合は教室の外へ出ていき、しばらくすると授業をボイコットしてしまった。スミカは罪悪感を一杯にして、「アイカの単位、わたしのせいで」と泣きそうになったが、アイカに単位は関係がないと言って聞かせると安堵したようだ。
ミソラはこの場で、世間が抱くイメージを知った。まず旅するアイドル。控えめにいっても、器物破損、銃刀法違反、拉致監禁、捏造、ハッキングなどと、数々の犯罪行為に手を染めている。メディアでも大々的に取り上げていたはずだが、意外にも悪印象を持つ人は少なかった。無論、教師たちはミソラ達を見て眉をひそめていたが、生徒たちは積極的に関わりにきた。ミソラ、ユズリハ、ヒトミ、中にはユキナのことを憂う人もいた。
反面、アイカには誰もが関わろうとしなかった。腫れ物扱いというレベルではなく、起動スイッチの付いた爆弾のような扱いだ。彼女に衝撃を加えようとするのは、いかにもマイペースな州中スミカぐらいだった。
特別課外実習のスケジュールは週毎に決まっていた。月曜から水曜までは座学。主に三教科とネットワークやマネーフェイシャルなどと、通常授業ではお目にかかれない科目まで合った。ヒトミとユズリハが感心していたのをみるに、過去にはなかった科目だったのかもしれない。
木曜から土曜日は座学以外でレクリエーション的な事を行うらしい。今週は料理と庭の手入れ、来週は創作全般、最終日はお楽しみ、とのことだ。学校ではなく、まるで林間学校の一幕だ。
表向きは平穏そのものだったが、決して油断することはなかった。いつ敵が潜んでいるのか分かったものではない。特別課外実習を受けている生徒以外でも、部活動でやってくる生徒も数多く、ノアやスミカをひと目眺めようとする生徒が後を立たなかった。
ノアとミソラは四六時中一緒にいた。もちろんノアが勝手に付いてきているだけだが、アイカのように拒絶する気はなかった。放課後は流石に自由時間のようで、各々好きなように時間を過ごすようだ。
ミソラはノアと共に中庭のベンチに座って雑談をしていた。
「ああ、学校の授業おわった! なんか普通の授業も新鮮だったなあ、〈エア〉もそう思うでしょ?」
「あのねえ、さっきも思ったけど、私は〈エア〉じゃない。変に誤解受けたらどうするわけ」
「……やっぱり内緒にしなきゃだめ?」
「だから私は──」
〈エア〉ではないと何度も説明しても、ノアは譲らない。ミソラを〈エア〉だと見抜いている。根っこの部分で感じ取っているのだろう。それを言葉一つで説得、もといごまかすことなんてできやしない。
「貴方は、前の私じゃなくても、〈エア〉だと思ってくれるのね」
観念してミソラは自分がエアだと認めた。ノアの眩い顔が迫って、真っすぐに煌めいた眼光が自信満々に射抜いてきた。
「当たり前じゃん。見た目が変わったって、〈エア〉は〈エア〉だよ。大好きで、頼りになる、〈エア〉。……でもさ、ちょっとだけわたし進んでもいいのかなって」
「進むって?」
「〈エア〉じゃなくて、ミソラって呼びたいなあって話なんだけど……」
反応を伺うノアに、ミソラは一言で返す。
「好きに呼んでちょうだい。私もノアって呼ぶことにするから」
嬉しそうな笑顔に言い繕った感じは出ていない。ノアが心の底からミソラを慕っているのは、かつてを思わせる様子で感慨深いものがある。〈ハッピーハック〉が解散してからの三年で、ノアとハルがどう過ごしてきたのか訊ねたい。特にハルのことについてだ。
「ノアは〈ハッピーハック〉が解散してから、ずっとアイドルやってたの?」
ノアは息を吸う間のあとに切なげ表情になった。まるで遠い昔の出来事を語るかのように。
「うん。あそこで辞めちゃいけないって思ったの。……誰にも負けなくないから、私はステージで戦うことを決めた」
抽象的でありながら、ノアが誰に負けたくないのか理解していた。悪意だ。ミソラたち〈ハッピーハック〉を襲ったものは、三人の人生を狂わせるほどの悪意に満ちていた。人はその気になれば世界を壊すことができる。そんな証明を徹底的に知ってしまった。
「ハルも同じ。アイドルとは別の方面から戦っている。場所が変わっただけで、目的自体はあのときから何も変わっていない」
ミソラは思わず息を呑んだ。あのときというと〈ハッピーハック〉が掲げてきた理念を、解散後も実行しているということだ。ノアは立ち上がり様に、ミソラへ振り向いて言った。
「わたしたち、世の中すべての人間を幸せにすることを諦めてないよ」
それは一種の宣戦布告に思えた。幸せを求めて活動してきた〈ハッピーハック〉のメンバー内で、唯一その理念を甘く捉えていた〈エア〉は、最終的に『わたし』を失う羽目になった。もしその理念を掲げて活動できていたら、〈エア〉は生き残っていたのだろうか。
ミソラは彼女たちが眩しすぎて視線をそらした。ノアどころか、ハルも変わっていない。すべてのことが、変わらない理念の元で動いているなら、きっと正しいことなはずだと。
ではミソラはどうなのだ。旅するアイドルの理念と呼ぶべきものがあるとするなら、大切なもの取り戻すことだ。そのために様々なことをしてきた。けど、結局の所、誰も何も救っていない。唯一救った人ですら、その旅のせいで首を絞める結果となった。
果たしてどちらが正しい理念であるのか。気持ち悪さを残した放課後の喧騒が、どこまでも頭の中に響いていた。




