雪、見舞う
盛大なため息を吐きながら、ミソラは船長室から何もできないでいた。人質が居たとはいえ自ら敗北し、奴隷施設から外に出たかと思いきや、神戸港での通信もできずに時間だけが過ぎていった。
それでもやることは決まっている。姉がやろうとしたことを、自分が行うことだ。奴隷船を姉は許さなかった。ミソラも到底許すことのできないことだった。
「物はさわれない、シャワーは浴びれない。そして、お腹が空いた」
船に乗ってから食事をとっていない。カジノで精神を疲弊し、船底で体力を消費したミソラにとって、栄養を求めるのは当然だった。
「うー、冷蔵庫あるのに、殴られて食事取るか、船長帰ってくるまで何もせずにいるのか、どうすればいいのよ」
アイカやユズリハはどうしているのだろう。〈P〉やラムは、こちらとの連絡がなくて困っているはずだ。なにより姉の動向が気がかりだ。大海のど真ん中で落ちたとオービスは言った。生存確率は限りなく低い。でも信じ、祈るしかない。
本当に何もできない。ならばやれることは寝転がって体力と気力を回復させることだけだ。
オービスが部屋から飛び出して一時間以上が経過している。彼も立場上忙しいのだろう。
ふと窓の外をみる。雨が降っていた。船に乗ったときは晴天だったので、空の位置が変わるほどに移動していたようだ。横浜から神戸の旅が四時間とは思えないほどに濃密な時間が過ごしている。拳銃の音を聞いたからか、船内が殺伐した様相を容易に思い描ける。警察隊は国の治安を担っているが、もう一つの側面は兵士を売り付ける側面もみえてきた。
「……あの兵たち、強制されているなら、もしかしたら」
協力を取り付けることが出来る可能性がある。ミソラが相手した兵は他の人より職務に従事している堅物な印象を持った。だが兵たちが兵である以上は、うかつに戦力に加えるのはやめたほうがいい。
せめてアイカが脱してくれたら、と思う。彼女の戦闘能力は同年代の女子では最強かもしれない。だが警察兵の練度はプロフェッショナルの域にある。アイカでも太刀打ちできないはずだ。
「──リスク、追うしかない」
船長室の物品に触れた場合、次は殴ると扉前の警備隊は言った。だがこのまま状況に流されるのは、反抗の意思を奪い去る行為にほかならない。
むやみにものに触らないようにし、部屋の中を観察する。まずは錨の飾りのほうへ近づき、書斎の引き出しの数や天上に設置された機械の数を数えていく。監視カメラはなく、火災報知器のような形の機械が三つ置かれている。あれが物に触る際のセンサーだというなら、こうして物に近づいている時点で反応してもおかしくない。だが警報がなる気配ない。
部屋の隅には小さな冷蔵庫がある。食料があってほしい。例えアルコール飲料しかなくても、空腹を見たすために未成年飲酒を覚悟するほどに空腹が堪えている。
書斎のデスク部分が開ける構造を見つけた。そこを覗いてみると、機械が微かに覗かせる。船長室には多種多様な機能が揃っているようだ。物に触れると警報がなる警備システムを作ったのは、この機会から端を発しているのだろうと当てをつけた。
「怪しいの発見。あとは──」
ソファやローテーブルの裏側まで散策する。体が物に触れないように距離を取りつつ、船長室内の物を頭の中にしまい込む。一番怪しいのはデスク部分のスイッチだ。だが触ったところで状況が好転するとは思えない。
ミソラのドレスは汚れ、汗や土の匂いがひどい。蛇口はなぜかセンサーが反応しなかったので、水を出して顔の泥を洗った。顔が水に濡れた状態で、ミソラはソファに横たわった。
「やれることは、やった」
正確にはできることしかできなかった。もっとうまくやれたかもしれない。小さなミスがこの事態を招いたのかもしれない。正しいと思っていた選択が、間違いの始まりであることだってある。
いま、ミソラは一人ぼっちだった。体を丸めて微かなぬくもりを頼りに、不安を軽減させようとした。これまでの人生の中で、孤独とは無縁の生活を送った。ミソラの隣には、必ず誰かがいる。言葉をかわしあい、共に生活することもあった。間違えば、誰かが正してくれる。今回は、そんな教師すらいない。身に降りかかるものは、全て自分で払うしかない。
「……どうすれば、よかったのよ」
考えたくない。姉がいないと知り、ミソラの心の奥底での葛藤が表面に出てきた。つまり、ここにいる理由がなくなったのではないか、というものだ。
奴隷船だとかは、あとになって知ったことだ。宗蓮寺グループと縁はあるが、邸宅に火を放った連中とは関係がないだろう。オービスは姉の存在を疎ましく思っていたからだ。奴隷船の事実を知り、姉は憤りを見せた。彼女の正義は正しい。だが、ミソラはその正義に入りたくなかった。
オービス・クルエルに啖呵を切ってみせたのは、姉の生存が危うい状況にあったからだ。姉は「あとは任せた」と、あの映像の中にはいない誰かに言った。もしそれがミソラだったとき、心の底ではそんな力はないし、勘弁してほしいと思っていたのではないか。
「──ネガティブなっちゃダメよ。それこそ相手の思うつぼじゃない」
視界をシャットアウトする。耳を両手で塞いで、音を途絶させる。体の感覚は生き残っていて、心臓と脳は絶えず働いている。心臓に心はない。脳の機能が心を司り、心臓が代弁する。不安が胃に苦痛を与え、憎しみが鳩尾を熱くさせる。楽しみが胸を熱くさせ、悲しみが全身の機能を鈍くする。
限りなく、心を清浄に保つには動くしかない。ミソラは動くことで、心の動きをごまかしてきた。アイドル活動をしていたときも歌や踊りは他の二人に劣っていた分、曲作りの貢献で心をごまかしてきた側面もある。
活動ができなくなったとき、絶望に飲まれなかったのは愛しい家族が側に居たからだ。誰も来ない僻地で、三人で静かに暮らせたことは心の安寧を再びもたらした。
気付いてはいけない。気付かされてはならない。宗蓮寺ミソラは、一人でも負けないだけの力があると思い知らせる。〈P〉やラム、アイカにもその姿勢は崩せない。
「大丈夫よ。考えるのよ。考えることだけは、絶対にやめちゃだめ」
思考が鈍るのは空腹のせいだ。暴力におびえているのは力がないからだ。無念を無念のまま受け入れるしかできないなら、攻略して乗り越える準備をするだけだ。
それでも心の声はごまかせなかった。
──顔に水を浴びた痛みは、いつでもミソラを苦しませてきたのだから。
眠れない。眠ってはいけない。あの痛みが再び襲いかかってくる。
あれに殺意はなかった。自己表現の一つに、数えることだって出来る。あの場を騒然とさせればよかったのだと思う。結果、目論見通りの結果となってしまった。
自分を見失うことはよくある。反面、自分を失うことは死ぬとき以外を除けばあまりない。ただし日常的に潜んでいる。いつ、どこか、誰かの思惑が、そこかしこに存在し続ける限り、己の喪失から逃げることはできない。
だから戦うことにした。邸宅に火を放ち、生活を脅かした何者かを見つけ、二度と手出しできないような手段を突きつける。あちらが暴力を使ってきたのだ、ならばこちらも使わない道理はない。
ミソラの意思は黒に染まりつつあった。目を開き、周囲を眺める。武器となるものはあるか。外の二人を仕留めるだけの技術はない。あるのは、思考に思考を重ねた上での奇策だ。
泣きたくなるほどの情動は、募っていく憎しみがかき消してくれる。心の機能は万能だ。別の感情が上書きをすることで、人間は前へ進めることが出来るのだから。
ミソラは再びまぶたを閉じた。あの夢が襲ってこようと、痛みは耐えることができる。何度味わっても辛い光景を呼び起こすが、あの時できなかった行動を取るだけだ。
ユズリハは雨が振り始めた景色の中で黒い影を認めた。足を止め、眺める。海鳥なら見逃していたかもしれない。気になったのは、船のスピードを超えていたからだ。ヒトミが振り返って尋ねてきた。
「あら、もう雨が降ってきたのね。梅雨っていうのかしら。ちょっと外に行って浴びてくる?」
「そ、それが命令ならば──」
「冗談よ。雨がシャワーの代わりになんてならないわよ。ほら、汚れを落としに行くわよ。
そう言って、外の景色を外したが、何気なくもう一つの窓を見た。瞬間、ユズリハは足を止めてしまった。黒い物体が窓の中央で佇んでいた。雨の向こう側で、こちらを観察しているように、黒色のドローンはそこにあった。
「あ、あの」
怯えた声は演技か、それとも本気で感じていたことか。ユズリハの脳裏に浮かんだのは、銃口を向けられている自分の様子だった。公安の専門訓練で、実弾を装填した銃口を突きつけるというものがあった。たとえ己が死んだとしても、他の人間がこなしてくれる。国家の犬として、誇り高い最後を思い描くための意図があったらしいが、ユズリハは自分がどれだけ乾いた心を持っていたとしても、死の恐怖は耐え難いと感じた。
「ん〜、どうしたの──」
とヒトミが振り返った瞬間、彼女は窓の外にある黒い物体を見た。瞬間、彼女は駆け出し、ユズリハにタックルを食らわせた。二人は床に倒れ、強い刺激を体に食らった。
「……なにも、ない?」
ヒトミが言った。彼女は危険を察知して飛び出したのだろう。ユズリハはその危険が何なのかをしっていながら、動けずにいいた。
「ねえ、今のドローンよね。窓の外にあったの」
「は、はい。おそらく」
「……観察が目的なら」
思いついたヒトミはユズリハの手を取って通路を駆け出した。彼女の歩幅は慌てているようだった。
「ごめん、ちょっと仕事させるから、シャワーは我慢してね」
ユズリハは慌て気味にうなずき、ヒトミの進む道に従った。どうやらカジノ側が用意したものではないらしい。となると、一体だれが……?
該当者が一人、いいや一団いる。彼女たちが動いたということだろうか。
雨の音が響いてくる。水が船の表面や海面を叩く音が耳心地悪い。だからこそ、歪な音がもう一つ増えたことでミソラは微かなまどろみから目覚めてしまう。
船長が帰ってきたのか、と最初は思ったが違った。目線の先にある窓に黒いものが張り付いていた。ミソラは仰天して上体を起こした。
「なに、あれ……」
四足の吸盤が窓の外へ張り付いている。ミソラは警備員に報告するかを考えたが、変化が訪れるほうが早かった。
腕の方から振動がやってきた。携帯のバイブレーションみたいに、ミソラが身に付けている謎のアイテムからだった。みると謎の機械部分が淡く発光している。あのドローンと連携しているようだ。
あのドローンらしきものが、〈P〉からの届け物であることは明白だ。ユキナのMV撮影したときに用いたドローンに酷似している。だからといって、同型機である可能性も否めない。
「ど、どうすればいいのよっ」
点滅を繰り返す腕のアイテムの使い方は添付されていなかった。とりあえずミソラはその機械部分に触れてみた。すると時計部分から粒子のようなものが吹き出てきた。淡い水色で、不思議な現象以外に感覚はない。その粒子はミソラを包みだし、やがて船長室を覆い隠しだした。
ミソラは瞬間移動したかのような気分に陥った。
目の前にある景色は閉じ込められた場所ではなく、青空が広がり、人が行き交う広場の一角だった。
「〈P〉ったら、この機械になんてもの搭載しているのよ」
小型化が著しいとはいえVRまで時計型のサイズに縮ませることなんて異能に近いのではないか。突然のことではあるが、これが何を意味するのかを知るには周囲を観察するしかなかった。
だからこそ、突然隣からやってきた声で観察する目的を忘れさせてしまった。
「ミソラ、さん?」
聞き覚えのある声に振り向いた。どうして、と思う前に、日本には居ないはずの少女の姿を確認するほうが早かった。
「ユ、ユキナさん」
原ユキナはミソラのすぐとなりで目を丸くしていた。だが驚くのはそれきりで、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「すごいなあ。まさか姿と一緒にお話できるなんて。あ、もしかしてミソラさん腕にこれ付けてませんでしたか?」
自分の腕につけているのは、ミソラが持っていたものと同じものだった。
「貴方、どうしてそれをもっているの?」
「出発前に〈P〉さんに渡されたんです。お守り代わりだっていうけど、特にこれといった機能はなかったのですが……。あ、でもスマホは常に持っておくように言われましたよ。こういうことなら、ちょっと納得です」
はにかんだ彼女姿に目が潤む。ミソラは視線をそらして、やりすごそうとした。
「ミソラさん、大丈夫ですか? どこか具合でも悪かったり」
「いいえ。違うの。まさか、こんな形で会えるとは思っていなかったから」
孤独だったはずの空間に彼女の姿がある。ミソラは目尻を拭い、呼吸を整えた。ユキナの手前、涙は見せたくなかった。
せっかく元気で治療中だ。負のエネルギーを与えてはいけない。そう努めようとしたのに、ミソラの視界にユキナの姿が入ってくる。
「……ミソラさん、あまり泣きませんからね。痛かったり、苦しかったり、あとは寂しかったりすると、普通はそうなるんです。私が側に居ます。貴方に、返せるものがあるとしたら、これぐらいです」
ユキナの手がミソラの手に添えられた。感触はなく、透き通るだけ。なのに実感と似た感慨は、ミソラに溜まったものを吐き出す要因となる。
ミソラはユキナに、事の経緯を明かすことにした。




