素人VSプロ
アイカが戦闘術を教えるのを拒否する理由はなんだろうか。自分のわがままなら諦めも付いたが、いまは姉の命がかかっている。ならば潜入して救い出すのが当然だろう。
最終的に物をいうのは個人が持つ力だ。力とは目に見えるものではない。思考と肉体の両方を併せて、物体や精神を目に映る形へと昇華させるのが力の本質だ。ミソラは自分の身を守れる力を持たない。それが出来る人間は、死に近しい場で戦闘を行った人間しかありえない。
今度こそ、危険のない場所で家族と暮らす。そのためには、あらゆる災害や人災に備えるための『力』がいる。
この力は『暴力』という最悪の代物だが、暴力に対抗できる力は暴力以外にない。
「……あの子が教えないなら、自己流でやるだけよ」
銃は使えなくても、格闘術は学べる。想定するのは複数人。ミソラに襲いかかってきた敵は例外なく複数できた経験からだった。普段から自然が多く人気のない場所で休憩することが多かったので、ミソラは時間の許す限り人気の少ない林の中で自己流の鍛錬を積んだ。
筋肉がきしむまで体を鍛え、衣服が濡れるまで汗を流す。一週間では望んだ成果は得られないかもしれない。それでも何もしないよりは良い。
傍から見たミソラは、がむしゃらという言葉が似合う。やれることをやり、無駄だと思うことも試してみる。トレーニング始めて三日後に、肉体の疲労で体が思うように動かなくなってしまった。
翌日、別の場所で、ミソラはまともに動かない体を鞭打ち、一人で特訓を重ねた。筋力トレーニング、その後に周辺を三十キロ走り、最後に動画サイトで格闘術を学ぶ。アイドル時代から並の人以上に関節が柔軟なので、カポエラーや合気道のような女性でも屈強な人間を無力化できる格闘術を身につけようとした。
しかし、見様見真似で出来るようなものではなかった。手応えがなく、焦りが募る。このままでは、サヌールに囚われている姉を助けることができない。
「……まだ、まだ、これからよ……」
努力が辛くならない方法が一つだけある。確固たる目的がその胸にあるなら、努力している感覚がなくなり、自然と高みへと目指せる。実のところ、アイドル活動は例外なく『努力』が付きまとっていた。歌と踊りは他のメンバーに劣っていたので、その部分にフォーカスして努力を続けた。天才には届かなかったが、凡才の技術は手にしたつもりだ。
ミソラに戦闘の才能がないことは明らかだ。こればかりは、生まれついての環境が肉体と精神、そして思考の動きにセーブをかけている。──人を傷つける覚悟があるのか、と。
疲労のピークを迎えては、呼吸を意識して疲れを分散させる。疲労が回復した錯覚を覚えながら、ふたたび立ち上がる。ふと、視界の端に影を捉えた。
「……なに見てるのよ」
アイカが木の陰からミソラを眺めていた。人に見られないように森の奥でトレーニングをしていたというのに、これでは集中できない
「面白いものじゃないでしょ」
「まあな。けどこっちもいい加減文句の一つも言いたくなる。車の中、汗臭くてしょうがねえからな」
ミソラは急所を突き刺すような痛みにうめいた。言葉のエッジが効いている。それを持ち出されたら反論ができない。
「……風呂入れないんだから仕方なじゃない。それに最低限のケアはしているつもりだけど」
「またそれか。残念だが、匂いにも限界があるんだよ。どれだけ汗かいてるか自覚あるのかよ」
アイカは近づいてきた。目の前に立つ彼女は、金髪のショートボブの可愛らしい少女にしか見えない。その中身が獰猛な戦士の姿を隠しているとは、真正面にやってきて初めて分かる。アイカは言った。
「四日間、よくもまあ飽きずにやれたもんだ。アタシでもあれはできるもんじゃねえ。そこんところは見事かもな」
「じゃあ試してみる?」
鼻で笑うアイカに、好奇心が湧いた。自分の実力が彼女に届くのかどうか試せる機会だ。
「私が貴方に尻もちつかせたら、二度と嫌味を言いに来ないでもらえると嬉しいわ」
「こっちが勝ったら風呂に無理やり入れさせてやる。あ、そうだ」
それからアイカは奥の方へ視線を向けた。あるのはスポーツドリンクと汗ふきタオル。アイカは汗まみれのタオルと手にとった。横に伸ばしたタオルを、アイカは自分の目元に巻きつけた。ミソラは唖然とした。
「何のつもりよ」
「ハンデだ。素人相手には丁度いいだろう」
「目隠しで、私を倒すってわけ?」
アイカが手を伸ばして木の幹に触れた。実際に見えていないのだろう。腕や足元を確認するように動かしていた。
「来いよ」
先制攻撃を促す仕草にミソラは遠慮することないと感じ、周囲の状況を確認した。
昼下がりの気温で、太陽は雲に隠れている。アイカの視界には物体は見えていないが、光は見えているはずだ。背後に回って足払いをかけるか、真正面に突っ込んで体当たりをするか。
彼女はプロだ。歌や踊りは素人でも、拳銃を自分の手のように扱う姿は芸術的だった。体操選手ばりの体の柔らかさは、小柄な体型と長年積み重ねた努力と経験の賜物だろう。
ミソラは身に付けた技術と判断力を併せて彼女に打ち勝つ方法を導き出す。まずは足元に落ちている小枝を三本拾ったあと、アイカに向かって投げつけた。
アイカに小枝が打ち払われることなく直撃する。何もダメージにはなっていないが、危険に対する警戒は高まっているのは分かった。数日前のコップに水を浴びてしまったのは、アイカが完全にリラックスしていたからだ。つまり同じ人間の域を出ていないという証だろう。
ミソラはランダムにアイカの周囲を駆け回った。反応の仕方がわかったら、今度は撹乱をする。幸い、森の中では木々が乱雑に並んでおり、撹乱にうってつけの場所だった。
向こうは木の幹に手を置いて微動だにしない。意識をミソラの動く音に集中しているみたいだ。ミソラは走り回っているあいだに、落ちている小石を拾っていた。無論、投げつけるなんて卑怯な真似はしない。彼女を認めさせるには、正々堂々と体一つで尻もちをつかせる必要がある。
片手に溜まった小石を、ミソラはアイカが寄りかかっている木の幹に向かって投げつけた。彼女に当たることなく、音が響くだけだ。アイカは驚いたように手を離し、飛びずさるように木の幹から遠ざかった。ミソラはアイカが離れたところを見計らって、小石をぶつけた木の影に潜む。
静寂が漂う中、アイカは左右に視線を向ける。音を探っているのか、または光の加減を伺っているのか。木の幹を寄る辺にしたのは、方向感覚が狂わないようにするためだろう。
相手はましてや銃やナイフを持たない素人だ。アイカの戦略が一通り分かったところで、ミソラは攻撃の機会を伺う。
尻もちが付いて勝利なら、下半身を制圧してしまえばいい。その部位を狙いを定めるために態勢を変える。中腰からしゃがみ込むスタイルに。
先に動くのを待つ。風になびく木漏れの音にアイカは逐一反応してみせた。最初の余裕はどこへ行ったのやら。そうして、アイカが先程の木の幹に近づいていき、その手が触れようとした瞬間。ミソラは疎かになっていた下半身に向けて、全身の力を発揮させる。まるで獲物を定めた肉食動物のように。音に気づいたのか、アイカの膝がこちらへ向く。しかしときすでに遅し。下半身の力を奪われた人間に、力の発揮どころなどないのだ──。
ただし、その下半身が突如目の前から消えた場合はその限りではない。
「──ぇ」
目を見開くのが先か、アイカがその場で跳躍するのが先か。分かっていることは、アイカがミソラの攻撃を予測し、躱しきったことにある。ミソラの体は地面を滑り、慌てて受け身を取ろうとする。だが先に落下してくるアイカの体が、覆いかぶさるほうが早かった。
背中に衝撃がやってきた。小柄なのに、自分の体重と同じものが乗っている圧迫感に呼吸が奪われた。マウントをとられたミソラは身を捩って逃れようとする。尻もちは付いていないが、このままひっくり返せばお尻がつく。現にアイカは肩と胴体を引っ張ろうとしている。
「くっ、はなしな、さいっ……」
抵抗が強まる。このままでは負ける。耳元にアイカのため息交じりの声が届いた。
「アタシの必殺技、くらえ」
瞬間、両方の脇腹に鋭い痛みが走った。筋肉痛によって全身にしびれが走る。脇腹に両指をあてがっているということは、これからアイカが行うのは一つ。
軟体動物のようにうごめく指が脇腹の微妙に刺激が加わった。痛いかと思えば痒みがやってきて、痒いかと思うと今度はくすぐったさを感じる。総じてくすぐったかった。ミソラはこそばゆさに身悶え、己の笑い泣いている悲鳴を聞いた。
「アヒャひゃ、や、やめえ、てえ……ひゃっははっは、いたい、いたい……くるし、くるし─」
呼吸するのが辛くなっていき、か細い声が喉から吐き出る。最終的に苦しみを味わい、尻餅をついてしまったことなどどうでもよくなった。森の中に、ミソラの阿鼻叫喚がいつまでも轟いた。
勝負に負けたミソラは近隣の温泉旅館でひとっ風呂浴びる羽目になった。
アイカは情け容赦無く、ミソラを抱きかかえて浴槽へ投げ入れた。
ミソラは風呂の中でもがき苦しんで気絶してしまうのだった。
夜中、ミソラは目覚めた。いつの間にか着物を身に付けており、布団の上で寝ていた。闇夜の中から寝息が聞こえる。隣ではアイカとラムが穏やかに眠りこけていた。アイカは布団が下半身にしかかかっておらず、全身を投げ出すような体勢をとっていた。反面、ラムは横向きの姿勢で綺麗な寝相だった。
「……最悪よ」
完全に眠気が覚めたミソラは、二人を起こさないように立ち上がり、窓辺によった。小雨が辛うじて聞こえてきたが、窓を開ける気にはならない。上から降り注ぐものに恐怖を覚えてしまったあのときから、ミソラは空を見上げるのが怖く感じた。
世界が自分と姉と兄の世界。なんて素晴らしいのだろうと思う。もし何らかの手段で実現できるとしたら、是非実現させたい──。
『ミソラさん、アイドル続けてくださいね』
ふいの風の音にミソラは視線だけ向けた。そこにあの少女の姿はない。約束を交わしたことを思い出す。
この世ありとあらゆるものに、意味なんてない。そんな真理を味わったというのに、ミソラは再びステージに立った。衝動に身を任せ、狂い、咲き誇ろうとした──。
それが狂った人生の幕開けになるとは、なんという皮肉だろうか。
抱いた願いは常に奪い去られるために存在しているのかもしれないと、ミソラは思った。




