ザルヴァート
追跡は最新の注意を払い、アイカやユズリハから教わった鉄則を遵守していくなかで、ミソラたちは思った。シャオ・レイほどの人間が、自分たちのような素人の追跡に気付かないはずがないのでは。さらに彼女には正体不明の装備も手にしている。その技術を持ってすれば、誰が自分を追っているのか判別がつくかもしれない。ミソラは常に不安に襲われては、ユキナの手のぬくもりを拠り所に気を保とうとする。まさに地雷原を踏み越えないような慎重さをこの追跡には求められていた。
しばらくは人混みの中を進んでいたシャオ・レイ。姿をさらしているものの、国際指名手配犯その人であることに気付いている者は誰もおらず、人々が目を奪うことがあるのはその端正な容姿だったように思う。つまりシャオ・レイとはその程度の認識なのだ。半年前の”白浜事変”あたりならともかく、その事件が世間的に風化したものになっている以上、気が付かないのも当然だ。しかも五月から正式に施行した”新秩序”の影響もあって、日本はかつてなく豊かな平和を享受し始めている。だからこそ、日本政府を憂慮したのだろう。彼女が纏ったとされる”ドレス”も併せて。
ふとシャオ・レイの進行ルートに変化がおきた。
「……離れて、いきます」
「周回道路を離れていくわね」
山中湖には湖を囲むような周回道路の他に、他の地域から至る国道と面していた。富士山中湖方面、道志みち、御殿場方面の他、コテージや宿舎に続く小さな道路が続いている。シャオが入っていったのは、静岡県小山町へと続く道路だった。いったいどこへ向かおうとしているのか。もしかしたら、彼女の潜伏場所が見つかるかもしれない。そう思ったところに、突然シャオが振り返った。ユキナたちは慌てて立ち止まったものの、すぐ横でタクシーが通り過ぎシャオの前でとまった。シャオはタクシーへ乗り込んだところで、ユキナが慌ててポケットを弄り始めた。
「あったっ……届け!」
手に取ったものを放り投げる。車まで百メートル弱の距離はあったが、なんどか転がったのち車体にくっついた。ユキナはほっと息をなでおろした。
ユキナは端末のエアディスプレイを表示た。画面上に赤い点滅があり、山中小山道上に沿って動いていた。発振器はくっついたようだ。ミソラはすぐさま周囲を確認した。ちょうど近くでタクシーが乗客を降ろしているところにすかさず手を上げた。次の乗客にミソラたちを選んでくれたようだ。老年の運転手に行き先を伝えず山中小山道方面へ進むように言った。少々困ったような反応を見せたものの運転手は車を発進させた。
ユキナは発振器から目を離さず観察を続けていた。ミソラはこの先に何があるのか運転手に訊いてみた。
「この道に有名な建物か場所はありますか?」
「いや、あんまりなかった気がしますね。いま通ってる場所とかは民宿とか合宿所に面していますが、あとはただの峠道ですよ」
なるほどと思いながらエアディスプレイをみた。すでにシャオが乗る車は合宿所の通りを抜けており、急カーブに差し掛かっていた。峠道に入ったとみていいだろう。一層気が抜けない。ふと運転手が声をかけてきた。
「君たちはアーティストフェスティバルが目的じゃないのかい?」
「ええ。さっき観覧してました」
「そうかい。この時期は毎年人がすごくてね。特に今年の盛り上がりは凄まじい。君たちの持つ端末が国民全員に配られて、”新秩序”の施行とともに元号まで変わった。”昭和、平成、令和、公守”と。君たち若いのがどう思っているのかわからないけどね、おじさんのときは令和からまもなく2020年にはいっちゃったからね。ちょっと心配だよ」
「”20年禍”……」
ちょうどミソラが生まれた年になる。全世界に未曾有のウイルス騒動が巻き起こり、様々な余波を現代に生んだとされている。当然、ミソラにその記憶はない。似たようなのでいえば、カルマウイルスがいっとき騒がれたときだろうか。
「まさかね、あのウイルス騒動がただのきっかけだなんて思わなかった。それ以前から世界には問題が散らばっていて、あの一件で燃え広がって、日本は経済恐慌に陥り、貧富による差別が横行。極めつけにカルマウイルス騒動に市村創平によるテロ行為。全く、せめて今の平和が続けば良いのにな……」
ミソラはミラー越しに運転手の姿を見た。五〇代ぐらいだと仮定すると、”20年禍”の前後を知っている生き証人だ。彼の嘆きははいまの自分たちの生活に根付いてしまっている。特に市村創平の娘とカルマウイルスに感染した少女と関わりが深い今、全ての事柄が自分たちに集まっているのではと思わせてしまう。
「ああ、すみません。ついおじさん語りが熱くなってしまって……」
「いいえ、いい話を聞けました。──それに」
二度あることは三度ある、という言葉を呑み込んだ。いままさに、テロの魔の手がこの山中湖にも迫るかもしれない。
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──
──公守元年。
この八月に入ったとき、日本の元号はそうなった。この運転手の言う通り、”20年禍”のような時代が訪れる可能性もあるだろう。だがいつだって、時の英雄が誕生する。宗蓮寺グループを引き継いだ姉や兄が”20年禍”の負債を打ち消し、新たな時代を作ったことで、日本はかつてないほどの進歩を世界中に披露した。悲観ばかりすることはないとミソラは思った。
ふと赤点に変化が来た。一旦止まったと思いきや、すぐさま来た道を戻り始めたのだ。
「ミソラさんっ」
「ユキナさん、準備を」
そう言ってユキナは懐からコインを取り出す。しかしそれより先に向こう側からタクシーが見えた。ミソラは車を見てはっとした。タクシーが通り過ぎた後、ユキナのエアディスプレイを確認した。緩やかなカーブの途中でタクシーが引き返していたようだ。ミソラは自分の端末で周辺地図を開き、タクシーが引き返した地点をマーカーを付けてから、エアディスプレイをカーナビ近くへ飛ばした。
「運転手さん、このあたりには何かある?」
「……そういえばこのあたりは富士山がけっこうきれいに見えるスポットがあるような」
「この場所の、少し前で止まってください」
「で、でも本当にそれだけだよ。バスも通ってないし」
「呼びたくなったらタクシー配車しますんで問題なく」
一応もっともらしい言い訳で運転手が納得したようだ。この先は何が起こるかわからない。指定の通りの場所でタクシーが止まり支払いを済ませ二人が降りた後、熱中症には気をつけてくださいね、という運転手の言葉を最後にタクシーはその場で切り返してUターンしていった。
「……ここの少し先でシャオ・レイが降りたんですよね」
「ええ、すれ違ったタクシーが空車表示だった」
すれ違いざまの襲撃も予想したが、空車の表示を見た瞬間に思い至った。彼女は降りたのだと。
「アイカちゃんたちとはまだ?」
ミソラは頷いた。タクシーの走行中に何度も連絡したが返ってくることはなかった。メッセージを飛ばしたので伝わっていることは信じたいが。
百メートルもの坂を登り切ると、そこで小さな広場にでた。運転手の言う通り富士山と山中湖が一望できる場所だった。バイクと車に、そこからの景色を見に来た人影はいない。ただ一人を除いて。
二人は彼女の姿を発見した後、改めて他の面々と連絡を取ろうとしたが、やはり繋がらない状況に変わりはないようだと落胆した。向こうから連絡が来るかもしれないと期待して、シャオ・レイの観察に努める。ふと風のような音が二人の耳に聞こえてきた
「……何か、聞こえてくる」
「鼻歌、ですかね。こんなところまできて?」
シャオが富士山と山中湖を向いているので表情は伺いしれない。けど不思議な感覚だった。シャオ・レイの歌は、純粋に綺麗だったからだ。邪魔するのも無粋で、目的もわからずじまいなので、仕方なく二人は待つことを選んだ。
一分ほどして歌が終わる。シャオはほっと息をついたあと言葉を発した
「──ここなら誰にも聞かれずにおしゃべりができるからさ、二人とも出てきなよ」
シャオが語りかけている。誰に向けてと考えるまでもない。人数を把握していても、向こうは確証を持っていないのかもしれない。そう思っていたところに、頭を重い物で殴られるような衝撃が彼女の口から出てきた。
「連絡取れてないんでしょ。自衛隊駐屯地とキャンピングカーに何が起きたのか教えてあげる」
それを聞いて思わず二人で顔を見合わせた。駐屯地のことだけじゃない。あとに出てきたキャンピングカーについての発言のほうが、いまの二人にとっては見逃すことができなかった。
ミソラたちは互いにうなずきあった。これは出ていくしかない。ミソラたちは彼女たちの前に姿を表した。武器を握っていることを最初から見せつけ、ミソラは勢いよく言った。
「今の発言、詳しく聞かせてもらうわ。無理やりでもね」
「ハハっ、アイカのマネごとは上手。宗蓮寺ミソラも原ユキナも仕上がってる。前のアタシじゃ、太刀打ちできないかも」
前のアタシ、とシャオがそう口にするということは、やはり今の彼女は”特災”を葬る時に使った装備を持っており、しかも絶対的な自信として保持しているとみていいだろう。ふとシャオがおどけたように言った。
「でも戦うつもりはないんだ。アタシはこの場所で目的を果たすつもりでいるから」
「目的って、なんですか。アイカちゃんたちに何が起きてるんです」
「教えてあげてもいいんだけど、それじゃつまらないからさ。ちょっとばかりアタシたちのことを知ってもらおうかなって思うんだ」
シャオは大きな眼差しをこちらに向けて、友好的な態度をみせて言った。
「もしかしたら、長い付き合いになるかもしれないから」
ミソラたちがシャオと接触する少し前。ちょうど正午を迎えたあたりで食事の時間となった。五人一組の班となって各々好きなものを作って食べるらしい。大半はカレーで豚汁などの煮込み料理だった。ちょうどアイカたちも空腹だったので、ミヤビを合わせた四人でカレーを作りはじめた。毎日の炊事はアイカたちの得意分野でもあった。最初は面倒くさがっていたヒトミであったが、いつしか国々の創作料理をてがけるほどにハマっていた。ミヤビからも手際の良さを褒められた。
別になんてことのないカレーだ。ルゥも市販のもので材料もオーソドックス。特に代わり映えがないというのに、アイカは胸が踊っていた。
それはやはり、昔のことを思い出したからだろう。ザルヴァートが壊滅にあったあとアイカは失意のさなかにいた。日本からも自衛隊が派遣され、アイカの面倒をみてくれた。
そんな中食べたのがカレーライスだ。自衛隊員とは口を利くことはなかったが、彼女が炊き出しで作ったカレーの味は格別だった。なぜ忘れていたのか。きっとそれほど、当時の出来事が今の市村アイカを形成した原点で、他のことに対する意識が向かなかったのだと思う。いま、アイカは他のことを見る余白がある。
他の班も和気藹々といった感じで、厳しい訓練の日々で唯一気が休まる瞬間なのだとアイカは思った。ふと彼女の姿を探す。上官はこんな場には出ないと思うが、できればあのときの話を聞いてみたいと思い、ミヤビにたずねてみた。
「なあ、あんたの上官ってやつはここにはこないのか?」
「……普段は来ませんよ。でもさっき、私達と食事を取るとおっしゃていたので、もうすぐで到着すると思います」
そうか、と答えて安心しきったところに、それはやってきた。
悲鳴が一斉に鳴り響いたのだ。
振り返ったところに、喉元を抱えて苦しむ男が配膳を終えたテーブルへ突っ込んだ。それも一箇所だけではなく、昼食を取っているあちこちで巻き起こっていた。アイカはふいに自分たちのテーブルへ目をやった。すでに遅かった。ミヤビはすでにカレーを食べていた。アイカは叫んだ。
「吐き出せ! それに毒がある!」
ヒトミたちが驚いた様子でカレーから離れた。あたりは混沌極まりない状況で、食べ損ねたおかげで無事な自衛隊員が救護活動に動いている。しかし一斉に食事をしたのか、一部のテーブルでは五人以上倒れているところもあり、人為的な仕業だとアイカは考えた。
だというのに、ミヤビは二口目を当然のようにいただいていた。
「おい、馬鹿っ、なにをやって──」
「大丈夫ですよ。このカレーには毒を混ぜてませんから」
篠原ミヤビが言った。三人は信じられない思いで彼女の言葉を汲み取り、一つの答えに行き着いた。
「このカレーには──では、他の料理には混ぜたのは……」
「え、マジ? この子が、アレ?」
「そう考えるのが妥当だろうよ。──この女が、シャオの協力者だ」
ミヤビは先程の溌剌な態度とは打って変わって、静かな佇まいをしてみせた。
「シャオ様は終わってしまった世界を救ってくださる救世主よ。この藤の大地に救世の凱歌を響かせる。私達はその役目を果たすために選ばれた」
「そのために、自衛隊の武器を盗んだと?」
「私達には武器が必要だったので。バレないように仕込むのは骨が折れた」
ミヤビはスプーンを置いてゆっくりと立ち上がった。すでに臨戦態勢を取ったアイカたちだったが、ふと車の走る音が耳に入ってきた。
陸自仕様のオフロード車が数台ほど駆けつけてきた。騒ぎを聞きつけてやってきたのか。いいや違う。アイカは先程のミヤビの言葉を思い出した。
次の瞬間。オフロード車の上からアサルトライフルを構え、一斉射撃が始まった。
毒を受けて倒れた自衛隊員が無抵抗に血を吹き出し倒れていく。車が動きまた一人と撃ち殺されていった。その様相は害虫の駆除そのものだった。
毒の騒ぎから数分もしないうちに、この場で平穏を享受していた者たちが惨殺された。あまりの惨劇に言葉も出ない。
「……どうして、アタシたちを殺らない」
「シャオ様から手を出さないように言われているので。それにどうしようもないでしょう? 思い出を呼び起こされたら、人は先入観に囚われる。だから、彼女が協力していることにも気付かなかった」
ミヤビがそう言うと、車から一人の自衛隊員が降りてきた。迷彩柄のヘルメットと先ほど人を撃ち殺したであろうアサルトライフルを下げている。メットが取られアイカは目を見開いた。高野中尉だった。
「お勤めご苦労さまです。これからシャオさんに連絡します」
高野中尉が端末を操作しはじめたとき、アイカたちの端末にも一斉に通知が来た。アイカはエアディスプレイを表示した。十件にも渡る不在着信に、メッセージが数件。アイカはメッセージを開き戦慄した。悔しさに歯噛みするしかなかった。
「アイツら、シャオを見つけやがった。だが、通信がこっちには届かなかった」
「本当だ。でもなんで?」
「大方、彼女たちの仕業でしょう。こんな回りくどいやり方をして、一体何が目的ですか」
自衛隊員の殺害、シャオ・レイとミソラたちの接触。全てが一つの計画になっていると思わずにはいられない。
「彼女からメッセージよ」
高野がそう言うと、巨大モニターとなったエアディスプレイが現れた。そこに富士山と山中湖を一望できる景色とシャオ・レイの顔が映った。
『ハーイ、久しぶりアイカ』
「──シャオ!」
『え、アイカちゃんと連絡を!?』
『アイカさんっ、無事!? こっちは今のところは大丈夫!』
そんな二人の声が聞こえたが、安心感はなくならない。むしろ憂慮な事態だった。
「お前ら逃げろ! そこから早く!!」
『もう、せっかくアタシを追ってきたんだから無下にするわけにはいかないでしょ。それにこれから、この子達に伝え聞かせようと思っていたの』
底意地の悪い声音に嫌な予感が拭えない。
『ザルヴァートの存在理念と市村アイカが何万人殺したのかについてね』
「……なんだと」
特に自分が犯した罪のことは、州中スミカにしか話していない。あれは彼女だから話した。憎まれるのを覚悟だったものだ。
「やめろシャオ」
『やめろ、ねえ。くだならい感傷を気にするほど、アイカはこの子たちのこと──』
「黙れ!」
返す言葉がない。言ってしまったら終わる。今までの市村アイカと、これからの市村アイカが。すでに”旅するアイドル”はアイカにとっては──。
『そもそも”ザルヴァート”は、アマゾンジャングル守るために組織された先住民族による自警団だったの。世界の自然そのものたるジャングルは、技術革新という大義名分を掲げて”世界”が戦争を仕掛けてきたのよ。表沙汰にならない、先住民虐殺をね』
アイカは歯噛みした。悔しさで奥歯が砕けそうだった。シャオは事実しか口にしないと分かったからだ。
『それを憂いたパパが戦う術をアタシたち先住民に授けた。アマゾンジャングルが伐採され続ければ、地球の崩壊は免れない。ならばこちらから仕掛けるしかないでしょ。──アイカにはお父様から授かった知識で、私達を助けてくれたのよ』
最初はそうだった。人殺しの知識を幼少期から学び、そのための思考をさせていた。それがいずれ、地球のためになる良いことだとすっかり信じ込んだ。
だが違った。それは全て野望のための犠牲だった。
『武器の使い方に作り方、戦術に戦略。あとは人だけを効率的に殺せるエコロジーな毒の開発も、全部アイカの功績。正直、ザルヴァートを崩すとなったら、お父様よりアイカを殺すべきだった。こういうところが”全体組織”の爪の甘さというのにねえ』
確かに自分が生きているのは不思議だ。おかげでどこへ行っても忌み嫌われている。たとえ脛に傷を持った”旅するアイドル”内であっても、自分の行いは罪深すぎた。
『お父様は人と自然の調和も求めて戦っていた。今では世界最悪のテロリストなんて言われているけど、真実はそうじゃない。自分たちの利益のために犠牲を強いる世界から、真正面に戦っていた。アタシのような、先住民をひとり残らず虐殺していった奴らみたいにね』
アイカは何も言えなかった。口ではどうとでも言える。先住民の犠牲は本当のことだが、その後のことはただ大義名分にしただけだ。
『アイカはアタシたちにとって英雄。アタシたちの命と誇りを守ってくれた。……なのに、アイカはパパを裏切った。自分の犯した罪から逃れるために”国連”と取引した卑怯者に成り下がったわけ』
「違う!」
力拳を握って叫ぶ。
「お前たちは、なんの関係もない人間を巻き込んでテロの実験台にしやがった! アタシが作った毒をより効率よく改造して、ただ自分たちの存在意義を知らしめるためだけにだ!」
『本当は自分でわかってるくせに。人を殺すつもりで作らなきゃ、あんなものは生まれない。ていうか、なんで今さら被害者ヅラをしているのかわからないけど……そっか』
ふとシャオが納得を示す。
『そういえば、お友達にいたんだっけ。名前は確か……州中スミカ。その子の母親がアンタの毒で骨もひとつ残らずに消えたんだっけ。ま、”国連”の良いように弱者扱いの国をなだめて点数稼ぎさせたある意味では被害者。あーあ、英雄がどんどん弱体化されてんね。パパはそんな子に育てるつもりはなかったのに』
怒りが頂点に達し、行き場のない感情をぶつけられないもどかしさに悶える。
そのとき、ぱしん、と乾いた音が聞こえた。
画面を見るとシャオの顔が横に逸れていた。近くにはミソラの姿があり、腕を振り下ろしたあとがあった。ミソラがシャオの顔を張り手で一発殴ったようだ。
『ごめんねアイカさん。本当は貴女が殴りたかったでしょうけど、代わりに一発お見舞いしてあげたから』
そのあとミソラはブーツの高速移動を使って距離を取った。シャオは自分が殴られたことにようやく気付いたようで、感情を押さえつけた目でミソラを見ていた。
『……なんのつもり?』
『そっちこそ、黙って聞いてれば昔話ばかり。飽きたわ、そろそろ。私達は今を生きているの。消えない過去を必死に背負って』
ミソラはシャオにそう言い放った。こころなしか怒っているように聞こえた。でも自分のことではないのに、なぜ。
『アイカさんの罪は私達には関係ない。それを聞かされたところで、彼女に恐怖を持つことなんてない。なにより──』
たとえ相手がテロリストであろうと、宗蓮寺ミソラは揺るがなかった。
『今のアイカさんは人を守ることができる。殺すことより遥かに難しいことをよ。弱体化なんてとんでもない。”旅するアイドル”市村アイカは、誰よりも優しくて強い。それが分かっていないなんて、観察眼も養えてないようね、ザルヴァートというのは』
さっきまで憤っていたのが嘘のように別の情動をもたらしていく。アイカはうつむいて誰にも聞こえないようにつぶやく。
「……なに、いってやがんだ、ばか……」
最悪の敵を前にして一発かましたなんて、冗談だったら笑える。だが笑う気も起きない。
「ほんとうに、バカすぎだろ……」
いまはこみあげてくるものをなんとか表に出さないように努めた。いま誰にも見せられない顔をしているだろう。後ろにいるヒトミたちにも気付かれたくない。
『──宗蓮寺ミソラ』
シャオ・レイがミソラの名前を呼ぶ。嫌な予感がよぎったが、すぐに杞憂だと思い知った。
『いい啖呵をどうもありがと。”旅するアイドル”なんて正直どうでも良かったけど』
シャオの声が弾みだす。まるで新しいおもちゃを見つけた子どものようだった。
『ミソラのおかげで楽しめそう♪ 待っててね、最高の祭りがそろそろ始まるから』
そう言って、通信が切れた。最後にミソラへ放った言葉の際の表情は伺えなかった。
分かっていることは、あんな享楽的なシャオ・レイは見たことがない。まだ何も始まってもいないこと。
「……シャオから連絡よ。即時に撤退せよって」
「あれ、通信終わったら殺す計画では?」
「いいや、多分殺せない」
そのとおりです、とユズリハが口にしたそのとき。
「防御フィールド、展開!」
彼女の背後で大型バイクが姿を表し、縦向きに体勢を変えたあと青白い半円の幕がアイカたちを取り囲んだ。周りの自衛隊員が一斉に射撃しようとしたものの、高野が手を上げてそれを制した。
「無駄よ。全員の掃射でもこれは崩れない」
「でもエネルギー切れを待てばこんなものっ」
ミヤビが遠慮なく銃口を向けてくる。彼女の中では敷地内を散策した記憶はすでにないようだ。きっと殺すことにも罪悪感はないのだろう。だが彼女たちは撤退を余儀なくされる事態に陥った。警報が一斉に鳴り響いたのである。
「悠長に話しすぎたか。これからが本番なので、皆さんも一層引き締めるように」
高野の言葉に一斉に「はい」と返事をしてから、各自撤収を始まった。自衛隊の武器を奪ったシャオの協力者はこれで判明した。数年前、アイカに親身にしてくれた高野中尉をはじめ、篠原ミヤビも今回の一件に加担していた。
裏切りの自衛隊員と入れ替わりに、本物の自衛隊員がやってきた。こちらも撤収しようと考えていたところ、端末に通信が入った。〈P〉からだった。
「アタシだ」
『無事だな。では私達の元へ人を送ってほしい。状況は最悪だ』
「何があった。つーか、シャオの方はどうなった」
『逃亡した。ミソラくんたちも果敢に追っていったが、向こうが上手だった。いろいろな意味でね』
防御フィールドを解除した後、三人は駆け足でその場を離れながら、〈P〉の話を聞いた。
『キャンピングカーがシャオの手先に襲われた。──私があの身体にうつってラムへの凶弾はなんとか免れたが、ある物を奪われた』
画面上にその物が映りだす。実のところ、昨年に手にしてから正体不明なもので不気味なあれを。
『富良野で手に入れた機械の脳。あれを奪うことが彼女たちの第一目的だったようだ』




