名もない頃
一人。二人。三人をねじ伏せる。
うめき声を上げる田舎のヤンキーから金銭を奪っていく。合計五千円。しばらく食料には困らない。だが買い物するにも、この格好では目立ってしまう。
「く、くそ、こんなアマに……」
「体が動かねえ、たった一突きされただけなのによ……この女、やべえぞ」
「つ、つーか、この女、どっかで見たことあるような──あ、思い出した、この女、指名手配の──」
瞬間、リツカの掌底が余計な口を叩き伏せた。他の者はリツカに怯えきっていて口を開くことはないと思われた。リツカはその場を離れ、近くのスーパーの様子をうかがった。身だしなみは最悪だったが、構わず中に入り500mlのミネラルウォーターを二本とおにぎりと缶詰、ベビーシートを購入した。小さな駅がひとつあるだけの田舎町だったが、物は揃っていたので手近な婦人服やで適当な服を選んだ。公園のトイレに入りベビーシートで全身を拭いていくと二週間分の汚れがシート全てを消費した。
「……初めてお風呂に入ったとき、しばらく黒ずんだものが流れてたっけ」
湯船は週に一度、それも規定の課題をクリアした者だけのご褒美みたいなものだった。毎日風呂に入る文化を、里が崩壊するまで知らなかったし、あの暖かさに一生浸かりたいのだと初めて思った。
物心ついたときからひとりぼっちだった。異臭にまみれた場所で、裏路地でゴミを漁り残骸を食べて生活していった。そういう子はよくおり、中にはお店の余った商品を分け与えてくる物好きもいた。だが根本的には何も変わらない。生まれ育った場所は土壌の汚染がひどく、人が一人暮らすだけでも精一杯だった。
五歳の頃、ひどく空腹が続きもう動けなくなっていたところを、スーツ姿の女性が抱きかかえてきた。同情を誘うような様子でいたが、嘘をついている人の目だったことは明らかだった。だが空腹で判断力も思考力もない少女には選択の余地はなく、見知らぬ車の中に連れ込まれ、長い旅をするようになった。
正直なところ、目的地へ到着するまでの旅は楽しかった。食べきれないほどにあるご飯、見知らぬ景色、言葉をかわしあう人と人とで、初めて好奇心というものを刺激されていった。不幸なことは、人の話す言葉が何もわからないということだった。
船に乗り、何日間も船旅をした。他にも自分と似たような境遇の子供が乗っていた。彼らはそれぞれコミュニケーションを取っていて羨ましかった。どこへ行くかもわからない目的地に希望を見出すほうが楽だった。たくさんのご飯と温かいシャワー以外の望みはなかったし、望むことも出来なかった。
船からコンテナ、コンテナからトラックの中へと場所を移し、また見知らぬ土地を進んでいく。当時は国を超えたことも気付いてなかった。子どもたちの気分は不安でいっぱいだったのをみて不安になったのはこのときが始めてた。ゴミの中から食べられるものが見つからなかったときの感じに似ていた。
ようやく到着し、トラックの荷台から降りたとき、辺り一面が緑色の景色が広がっていた。声を出すのが苦しそうな音が聞こえてきて、それが一定の間隔でやってきた。緑色の中にその声の主がいることを考えると不気味で仕方なかった。
一緒に来た子どもたちとともに緑の中を歩く。緑に見えたものはほんの一部分で、実際は茶色の土の上と地面から伸びている太い物体の中が視界を支配していた。緑色のは太いものが上で伸ばしている傘みたいな感じで生えていた。好奇心に不安と期待を抱きながら、先導する大人たちが足を止めた。開けた視界の先に、小さな建物が集まって存在していた。あれが人が住む場所だと記憶していた。自分にはその資格がなかったから、ダンボールで暮らしている人の真似をしたことがある。あれと同じ感じなのだと分かった。
建物に近づいていく。大人たちが指示をしていき、子どもたちはバラバラに振り分けられた。とりあえず相手の身振り手振りに従って動く。言葉がわからないことで対応できたのはここまでだった。
そこから苦しい日々が続いた。何を言っているのかわからない。すると大人が手を上げて顔を叩いていく。言葉が分からないことに大人が気付いたのは、ここへ来てから三回目の夜のときだった。
他の子どもたちは外で何かをしていた。それに参加できないことに異様な不安感が過ぎった。自分だけは部屋の中で年老いた女の人と二人きりになった。白く平べったいものと細長い棒状のものが目の前にあった。これがどんな道具なのかも理解できていなかった。
お婆さんは何かを話したあと、この言葉を最初に教わった。
「リ・ツ・カ」
「ィ。ッ。ヵ……?」
それを一日中続けた。リツカ、という言葉が自分を指すのだと理解したのは、部屋にあるものを同じようにお婆さんと続けて言ったときだ。つくえ、えんぴつ、かみ……リツカ。
リツカの響きだけはなにか特別なものを感じた。リツカと呼ばれると気分が弾む。胸がじんわりとした不思議な感覚でいっぱいになった。
それから何ヶ月かかけて、日本語を覚えていった。
自分の名前、一緒に暮らしている人の名前、物の名前、食べ物の名前。言葉を覚えていく過程は楽しかった。だが不思議なことに、一緒に来た子どもたちはリツカの言葉を理解していないようだった。交流なんてできなかったし、この場所の真の姿を知るのは、それからまもなくだった。
ある程度、お婆さんから言葉を学びおえたリツカ。たどたどしさは残るも、あとは色んな人の交流で自然に身につくらしい。リツカは一緒に来た子どもたちと合流した。違和感を覚えたのは、子供の数が減っているような気がしたからだった。それは事実間違いなかった。
過酷な訓練に耐えられず、逃亡を図ったものの脱出を図ったものは例外なく処罰されていった。
リツカが連れて行かれたところは人殺しを育てる場所だった。生き残るためには、過酷の訓練に耐え、人殺しの知識を身に着け、いずれやってくる仕事に備える以外になかった。他の子供達は恐怖の中、辛い訓練をこなしていたようだがリツカは違った。生きるためにと割り切っていた。彼女にとっては、毎食やってくるご飯と週に一度の入浴が生きがいだった。
実務訓練の成績は芳しくなかったものの、知識だけはスポンジが水を吸うように取り込んでいった。言語、算数、物理化学、社会歴史を始め、医療の分野でも知識を伸ばしていった。ひとえにお婆さんの特別なはからいだった。それもこれも、お婆さんは古い時代から語り継がれる一族の末裔で、子をなせなかった代ができてしまったことで唯一の生き残りになってしまったとのこと。お婆さんはある日、病に伏せて亡くなってしまったが、彼女から授かった知識とその使い方は今後の人生において有意義に働いた。ただ、リツカの人格形成にまで至らなかったのは、極限な環境とリツカ自身の自己が確立していなかったからだった。実のところ、村が何者かに包囲され、燃やされるときまで、人殺しの術を使ったことはなかった。初めての人殺しは、リツカを殺そうと拳銃を持った黒服の男に持っていたナイフを一突きしたときだった。
この村の真実を知るのはおよそ十年後。中国で身寄りのない子供を集め日本へと不法入国させたあと、限界集落の村で暗殺の兵として育て上げるということを、人知れず行っていたという。時の権力者からの依頼を受けたときは、何人かは駆り出されては二度と村へ戻ってくることはなかった。リツカは運良く、中途半端な成績と知識の吸収があったのか、村の外へ駆り出されることはなくこの生活を終えた。
今思えば、あれは無意識下で子供を洗脳してコントロールしていたのだと思う。リツカには分かっていた。誰が外へ出るのか、どうすれば外に出ずに済むのか。あまりに使えないと村から排除されてしまうし、出来すぎると依頼をこなすために外へ出ることになる。そして生きてかえることもないと。生き残るためには、強くも弱くもある必要があった。
村が燃やされてから空腹の日々が続いた。何百キロ歩いたのかわからない。
人に会うのは怖かった。結局の所、お婆さん以外の村の人とまともに会話をしたことがなかった。
舗装されていない山道をひたすら進み、山から山へとひたすら進んでいく。季節が夏だったのが功を奏した。冬だった場合、命はなかった。
時折、畑に行き着くことがあったので作物を掘り起こし夢中で食べた。暗殺の鉄則は夜中、という知識を、人がいないときに事を為すと無意識に解釈して及んだ。食べたあとは次の場所へ移動した。たまに見かける川や沢の水を飲み下す。サバイバルの知識は身につけていなかったが、お婆さんからは「知らないものに手を出すな」という教えがあったので森の中できのみなどを食すことはしなかった。これは以前の生活で身につけていた習慣でもあったのだろう。
何度山や丘を超えたのか、そんな生活にも限界がきた。倦怠感が襲い、リツカの足取りは重くなっていった。気分が悪い時は食事で回復する。すぐさま近くの畑へ降りて補給しようと動いたが。その途中で力尽きた。
「……死……」
仕方ないと思った。元々、死に近しい状況にあった。体に良くないものを食べていったら、十歳を超えないうちに死んでいたかもしれない。あの村での出来事はボーナスのようなもので、他の人にとっては地獄でもリツカにとっては頑張っていく日常でしかなかったのだから。
意志を反して体が動かなくなったとき、リツカは初めて人を殺したときのことを思い出した。あの時は夢中でなぜ村が燃やされ、あそこにいる全員が殺されなければならなかったのかが分からなかった。殺さなければ生きられないという学びを最後に得たぐらいだ。
だから受け入れた。ここで朽ち果てるのはひとえに弱いからだと。弱い者は明日を生きる資格を得られない。それがこの世界のルールだった。
視界が遠ざかっていく。そこでようやく全身が浮き上がるような不思議な感覚がやってきた。死ぬ時、人は魂そのものが天に登るということか。せめてその景色が見たくて視界を開いてみた。
「──あ、れ」
空の果てから世界を見下ろしているイメージはリツカにはやってこなかった。体は自分の意志とは反して浮いていた、それは確かだ。横たわったまま、一メートルほど浮き上がっただけだった。すぐに誰かがリツカを持ち上げていると分かった。
首を動かして顔を見ようとしたところで、リツカの意識は今度こそ落ちていった。
重いまぶたを開いて周囲を見渡す。肌寒さはなく、ほんの少し暖かい感触があった。以前と体は重かったが、ここがくちた小屋の中だったことに安心感をおぼえた。だがすぐに警戒心をつのらせ、周囲の状況把握に務めた。
ここへ自力で来た覚えはない。だとしたら誰かによって連れてこられたと考えるべきだろう。衣服の上には汚れた布切れが一枚のみ。部屋の中央には村でみかけた囲炉裏があり、日がたかれていた。その隅っこに何かがいた。古びた服を何度も重ね着したようないびつな格好。ヒゲは何日も剃っていないことが分かった。ニット帽をかぶり、ゆらゆらと不規則に体を揺らしていたその人は、リツカが目覚めたことを知ってくぐもった声を上げた。
「──っ──ぁ──」
「……だ、誰」
お互いにたどたどしい言葉の応酬がそれから始まった。また異国に来たのかと思ったが、数時間ほどして目の前の男の事情を理解した。
男は言葉を話せなかった。耳が悪いわけではない。彼は言葉を知らなかったと考えた。お婆さんから聞いたところに依ると、日本の人は大半の人間が日本語で言葉を話すことが出来るとのこと。つまり彼は、この国に渡る前のリツカと同じ状態にあった。大人の人間でそんなことが起こり得るのか。
この人が無害であると信じ切るわけには行かないが、体が動かないいまはお世話になるしかなかった。
結局、リツカの人格形成はこの浮浪者の暮らしから始まった。




