歩き出すものたち
逃亡生活から二週間以上も経過した。なんとか生きてる。昔の自分に戻っただけだ。
「……生きるだけなら、もうどうでもいいのに」
生存で満足できるほど、この惑星の知性体は甘くない。見知らぬ刺激を欲しがり、新たな刺激を追い求めてしまう。人類の進化が急激化したときに衰退が始まるのは、明白な事実だ。
そう、考えることができるなら人間らしさを保てる。いくら異臭を発していたとしても、考えて動けるなら、まだ松倉リツカでいられる。
「また、着かない……」
白浜から逃亡し、人気に付かないルートを進んでいく。困ったのは海を渡る手段だった。いくかある隠れ家の内、最も安全にたどり着けるのが九州方面にあった。端末は途中で捨て去った。公安が位置を特定してくるからだ。なので通ったときにみつけたスーパーのATMで現金を下ろし、一通りの食材を買い込み、適当に買ったリュックにつぎ込んだ。あとは四国発のフェリーに乗れば安全に九州へ行ける。そう思っていた。
四国方面へ向かう途中で警察に見つかり逃亡するはめになった。まるで四国へ行くのを予期していたような対応だった。仕方なく路線を変更し、山口県方面からどこかしらの車に忍び込み、九州入りするつもりだった。だが山の中から県道沿いに出たところで、待ち伏せしていた警察と鉢合わせした。このあたりになってくると、疑念が確信に変わってしまう。
唯一の協力者、〈P〉がリツカを見限ったのだと。
躍起になって九州の隠れ家へ向かってもそこで確保される。そう見越したリツカは何日もかけて本州の中部地方まで戻ってきた。行く宛はあるが、九州入り阻んだ経緯から他の隠れ家もマークされていると見ていい。となれば、あとは意味のない日々が続くだけだった。
「……二人は、何しているんだろ」
ふと自分の家族のことを思い出した。家族なんて関係は、最初からまやかしでしかないとリツカ自身思っていた。それが、リツカが”旅するアイドル”に敗北し、捕らえられようとしたとき、あの子が助けに来た。
なんで、という疑問が最初に出てきた。だが悠人の叫びはリツカを突き動かした。逃げる。その目的が、いまもこうしてリツカを生きながらえさせていた。
リツカはどこもしれない場所へと足を進めた。自分の死に際をたくさん想像し、それに対処する方法を頭の中で導き出す。
「あの人と、同じような死に方だったら、いいな……」
リツカは記憶からある記憶を呼び起こす。
──互いにボロボロの服装で、いまのようなあぜ道を歩いている。夕日が差し込み、お互いの汚い顔を見て笑いあった。
彼は俗言う、世の中でこぼれ落ちた存在だったのだろう。識字率99%の中の1%。それがあの人だった──。そんな彼にリツカはかつての地獄から救い出してくれた。名前は知らない。最後に会ったのは、六年前のあの日。変わり果てた姿で対面し、リツカの中に激情の炎が燃え広がった──。
「そうよ、なに怖気づいているの。……まだ、終わってない」
忘れてはいけない。彼の無念を、世界と人間の非情さを。
リツカの炎は消えていない。絶やしていけない。
ではければ、あの日、あの時、彼はなぜ死ななければならなかったのかわからないのだから。
連日による警察の取り調べで、すっかり体力を奪われていった松倉幸喜は、久々の我が家に戻って安堵した。この家に戻って安心するなんて今までなかった。悠人は可愛かったが、リツカとは口を開けば言い合うのが常だった。憂鬱だったし、いなくなってせいせい──。
「はぁ、お前さんがいなくなってから、悠人は元気がなくなっちまったよ……。ったく、なんなんだよ」
刑事の取り調べには正直に答えた。嘘を付く理由がない。妻があんな事態を引き起こした以上、庇う理由がない。そのことを警察にも知ってもらうために、彼女との出会いから結婚に至るまで、はては結婚生活の全てを話した。また妻が浮気しているのではないかという疑いから探偵を雇い、某企業の役員との浮気を突き止めたことを話したことで、その役員こそ妻が都市入りできた理由だと判明した。疑いの目はすっかりなくなったが、以後は警察が自宅周辺を張り込むと告げられ、松倉の心労はかつてないほどに落ち込んでいったのだ。
幸いなことに、上司からしばらくの休暇を言い渡され、一ヶ月ほど息子と過ごすこととなった。だが肝心の息子は、あの日から呆然とする日々が続いていた。リビングのソファでぼうっとしているかとおもいきや、リビングを亡霊のようにうろつく姿は見ていられないほどに痛ましかった。普通、母親がいなくなれば子供らしく泣くものだが、悠人の行動は大人が陥る症状そのものだった。
「悠人、大丈夫か。なにか出前でも頼むけど、どうする」
「……まず洗濯と掃除しないと。すぐに汚くなるから」
「ああ……そうだな。じゃあ、さきそっちやるか」
そういえば帰宅してから、やけに家が綺麗だったことに驚いた。どうやら悠人が家事を引き受けていたらしい。洗濯機は乾燥まで全自動でやってくれるものだし、食器洗いも食洗機に突っ込むだけのものだったので、そこまで苦労はしなかったようだ。食事のほうが心配だったものの、悠人は近くのコンビニでレトルトや冷凍食品をチンして食べていたようだ。彼の生活力は頼もしくはあったが、それが却って母親を待ちわびているように映ってしまった。
悠人は未だに、母が帰ってくることを願っている。いい子にしていれば必ず帰ってくるという子供らしい幻想を抱き、毎日時計を見ながらいまかいまかと願いが叶うのを待っている。ここに籠もっている限り、そんな機会は訪れないというのに。
家事を済ませふたたびリビングへ戻る。すると悠人が端末を操作していた。一世代前のものなので、最新の覗き見防止装置は働いていなかった。見ていたのはニュースの記事だった。松倉はすぐさま端末を取り上げた。
「あ……」
「悠人、こういうのは二度と見るな。頭おかしくなるぞ」
「……でも、お母さんの手がかり、あるかも」
それ聞いた瞬間、頭の中で衝動が湧き上がった。
「いいかげんにしろ! お前の母さんはなあ、人を沢山殺したんだぞ! こんな家に帰ってくるわけがねえ、絶対だ!」
我慢の限界だった。利口な息子が意味のないワガママを言っていることに腹が立って仕方がない。
「あいつはな、最初から家族なんかじゃなかった。お前は──」
松倉とリツカが望んだ子供ではない、と言いそうになって口をつぐんだ。悠人は呆然と肩を落とし、前に大玉の涙が出来上がっていた。雫は静かに落ち、頬を伝っていった。それから顔を歪め、堰を切ったように泣きあげた。
耳元をよぎる不快な音。それが本来の子供が発するものだと知った。そこで松倉は悠人に対する感情を初めて理解した。
「……くそっ」
身を翻し、リビング出て玄関を飛び出した。扉を締めて、胸に湧き上がった感情を整理する。
「悠人を望んでなかったのは、俺のほうだったのか……?」
泣きはらした瞬間、悠人に対する幻想が崩れ落ちた気がした。理由は明白だ。自分の息子は利発で頭がよく、松倉の受け答えをはっきりと返したからだ。だがそこまでのコミュニケーションが可能だったのは、誰のおかげか。言うまでもない。リツカがそうできるように教育を施したからだ。悠人が一人で歩けるようになったとき、言葉を話すようになったときのことを、松倉は一切覚えていなかった。そしてリツカから報告されることもなく、ただ当然のことだと受け取っていた。
「ざまあねえな、俺……」
なにより、思っていたよりその事実にショックを受けている自分に驚いた。理由は単純だ。悠人と遊ぶ日々や話す日々は、この六年の中でも色付いていたからだ。誕生日には欲しい物を必ず与え、リツカがいないときは内緒でファミレスに連れて行った。少しでも悪人の罪悪感を減らせると思ってのことだと、今ならわかる。
「少し、頭冷やすか」
玄関から近くのコンビニでタバコでも買おうと思った。途中で張り込みの警察車両があったので、中の人にタバコのジェスチャーをして知らせておいた。徒歩五分のコンビニでタバコと悠人をなだめるためのチョコやポテトチップスを買っておく。リツカがいたら小言の一つはありそうだ。
自宅へ戻り、恐る恐るといった感じでリビングへ戻る。そこに悠人の姿はなかった。自室に閉じこもっているのかと思い二階へあがる。扉の前に立って呼びかけてみた。
「悠人、さっきは怒鳴ってわるかった。……お菓子買ってきたんだ。それで機嫌直してくれ」
応答がなかったので中へ入った。ベッドの上はもぬけの殻だった。ここ数分で悠人が入った形跡はなかった。二階の部屋やトイレ、風呂場をあたったところで頭の中で警報がなった。
「悠人! どこだ、返事をしてくれ!」
自宅から家へ飛び出したか。だが悠人に家の鍵を渡した事実は聞いてない。まさか誘拐か。しかし警察がいるなかでそんな芸当ができるわけがない。
考えられるとしたら一つ。悠人自身が家を出たとしたら……?
松倉はすぐさま、リビングへ戻り窓の鍵を確かめた。窓に形跡はなかった。だがキッチンそばの裏庭に通じるドアの取っ手を手に掛けた。難なく開いた先には、塀に向かってハシゴがかかっていた。何を意味をするのか理解した瞬間、松倉は家を飛び出した。
息子の名前を叫び、塀の向こうの家に息子が来ていないかを尋ねたもの見かけていないと言われる。それから何時間も探したものの、悠人の姿は見当たらなかった。松倉の行動に疑問持ったのか、張り込み中の刑事が出てきたので、事情を説明した。
──悠人が忽然と姿を消した、と。




