駆けるとき
おぼろげな意識の中、松倉リツカは聞こえてきた言葉に納得していた。どうやら今回の事態をいいように利用する勢力がいたらしい。十中八九、警察庁警備局長の仕業だろう。彼が”特権”を使ってあるものを作っていたことは掴んでいた。ゆえに利用させてもらったのだが、今度はまんまと罠にかかった。
”旅するアイドル”たちが抗議の声を上げるも、きっと聞く耳はないだろう。この機動隊たちはその勢力が差し向けたものだ。彼女らもまんまと罠にかかった。事態を収める都合の良い駒として。
──ここまで、か。
本当はもっと、やるべきことがあった。全国民に発したあの問いかけの答えを知らなければならない。あれがあれば、まだ人類はやり直せる。最後のデータなのだ。あれで計画は完遂するはずだった。
この場から脱出する手段は失われた。”技術特異点”の助けも考えられたが、契約時に互いの利益が得るような共犯関係に過ぎないので、まず助けはないとみていいだろう。体もぼろぼろだ。まさかあんな大胆な方法で宗蓮寺ミソラが攻めてくるとは思わなかった。今日ほど”殺せばよかった”と思わなかった日はない。
彼女たちは対象から外れていた。むしろ自らの力で道を切り開いている、本当の人間とすら思っていた。非情な手を持って彼女たちを相手したつもりだが、ほんの僅かな情が自身の敗北をもたらしてしまった。
リツカは銃をもってにじり寄ってくる機動隊に囲まれ出した。アイカがリツカを差し出そうか迷っているのが伝わる。もちろんリツカを差し出したところで”旅するアイドル”を見逃してくれるわけではない。無意識に拘束する力が緩んでいるのが分かった。もっとも、この肉体では逃げることは叶わないと思うが。
だが不思議と後悔はない。清々しいくらいだ。ただ彼女たちが捕まってしまうのは残念でならないが、助ける手段はなにもない。なにもない、はずだった。
「お母さんから、はなれろおおおおおぉぉぉ!!!!」
突如、ドンと背後から振動がやってきた。聞き覚えがあるのに、その声が宿している感情は聞いたことがない。その場の誰もが振り返って、身長130センチの年端もいかない男の子の怒りを目撃した。松倉悠人はそのままアイカの手を離そうと掴みかかってきた。
「お、おいこのガキ……っ」
「お母さんにさわるな!!」
悠人がそう叫ぶと、アイカの腕に噛みついた。「痛え!!」とアイカが叫ぶほど、六歳の顎と齒は肉を噛みちぎるほどの威力があったらしい。拘束が解かれ、リツカはよろめいて尻餅をついた。だがリツカを捕らえようと機動隊が動いた。悠人の目は彼らを見逃さず、アイカから離れ機動隊の足元へと飛びついた。
機動隊の注意が一瞬子供へと向いたが、振り払おうと足が上がる。悠人は体全体を使って、機動隊員の浮いた足を思い切り持ち上げた。重心が崩れてしまえば、いかに大人の男であろうと制御はできない。倒れそうになる男はもう一方の機動隊員とぶつかりあって倒れた。誰もが悠人の行動に目を驚かせていく中、
「逃げてっ、お母さん! 逃げて!!」
別の機動隊員が迫ってくる。遠くからサイレンの音が聞こえてきた。だが体がうまく動かない。怪我のせいかと思ったがそれだけではない。いまの光景が信じられなかったのだ。実の息子に助けられるという状況は、リツカの計画や設計にはない。悠人はなおも叫んだ。
「死なないで、お母さん!」
その一言が、リツカの胸に火をつけた。
体が勝手に動く。行動と結果の間にある理由がない。ただその言葉に従うまま、リツカはその場からの脱出行動を取った。
痛む体を意思の力でねじ伏せていく。背後でなにやら激しい物音が交錯しているが、振り返る余裕なんてなかった。地下駐車場へと続く非常階段を降りていき、先日借りたレンタカーのドアを開いた。リツカが持つ端末とレンタカーの車の機能が紐づいていたおかげだ。エンジンをかけ、ドライブシフトのちにサイドブレーキを引き、地上へと続く坂を登っていった。
スピードなどお構いなしにアクセルを踏みしめ、信号を何度も無視していく。高速道路はすぐ検問が敷かれる。車のエネルギーも僅かだ。途中で捨てる必要があるだろう。
「……なん、なの」
逃げるために思考が働いていることに、リツカは戸惑っていた。自分は負けたはずだ。これ以上、できることはなにもない。負けたときは潔く終わるつもりだった。今更みっともなく足掻く理由がリツカにはなかった。
なのに、あの一言が理由になってしまった。
「死なないで」と、母親に対して当たり前に思うことを真に受けて、リツカは正体不明の感情に支配されていた。ほろ苦くて甘さが後からくるような、そんな情動に。
いつのまにか前がぐにゃりと歪みだした。頬が濡れるのを止められない。自分にこんな機能があったことを思い出したかのように、リツカは子どものように泣きじゃくった。
「なんで、助けて、くれたの」
自分の息子が願う通りに車は進んでいった。
ここからの道は、本当になにもないことを突きつけていった。
松倉リツカが逃亡してから、機動隊の連携は崩れ始めた。ユキナはガントレットで適宜牽制しながら、アイカやヒトミとの行流を図った。ちょうど五人が集まったところでヒトミが焦った調子で言った。
「ねえ、これってマジの裏切りよね」
「見りゃ分かんだろ。左文字京太郎、ここまで牙を隠してやがった」
アイカが同意してユキナが続ける。
「……でもなんか変だよ。VIPの殺害ってなんのこと?」
「私たちが都市を離れている間に、そういうことが起きたと思うわ。問題なのは、前とは違って身に覚えのない罪を着させられようとしていることよ。なんで礼状まで用意しているわけ?」
ミソラの憤りが頂点に達していた。もともと相容れない関係だが、一蓮托生のつもりで都市騒乱の解決を図り、実際に松倉リツカの身柄まで引き渡せる寸前まで至った。なのに、これは筋が通らない。なによりまんまと引っかかったことが情けない。
どう脱するか考えようとしたとき、ヒトミに背負われているユズリハのうめき声がした。四人の意識がそちらへ向く。ユズリハは重たそうにまぶたを開いた。
「……ユズリハちゃん」
「ヒトミさん……それになんでミソラさんがここに…………なんですか、この状況は」
ゆっくりと自分と周囲の状況を確認した後に出てきたのは、疑問の尽きない様子のユズリハだった。彼女はこのことを聞かされていないと確信した。左文字はユズリハ抜きでこの最後を引っ張っていった。もちろんユズリハが関わっている可能性はゼロではないが、決して短くない期間の衣食住を過ごしてきて、ユズリハが放つ違和感ぐらいは気付ける自信が”旅するアイドル”全員にはある。
パトカーのサイレンが近づいてくる中、中年の刑事が淡々と言った。
「松倉リツカは取り逃がしたようだが、直に捕まるだろう。むしろ都合がいい。抵抗するようなら抹殺もやむなしと上の許可もおりているからな」
「……左文字、警備局長が……?」
当のユズリハが困惑を示した。やはり彼女にとっても予想外のことだったらしい。
そもそも彼らは機動隊員ではないのかもしれない。制圧のための武器とは別に、”抹殺”用の武器も所持しているとみた。包囲網を退くにも、こちらはすでに手負い。ミソラとユズリハは負傷。アイカも少年に噛みつかれた。ちなみに少年は機動隊に羽交い締めにされている。放っておいても問題はないだろう。
「もし大人しく言うことを聞いたら、また警察大脱出でしょ。二回も同じ展開なんてありえない!?」
「無駄口を叩く余裕はあるようね。ユキナさん、足手まといはここに置いて──」
「ダメ」
当然、一蹴されるのを前提で言ってみた。見捨てないという安心感が欲しかったのかもしれない。
「アイカさん、逆転の切り札とかもってない?」
「あったらさっき使ってる」
でしょうね、と落胆した態度をしてみせるミソラ。困った。本当に万事休すか。だからこそ、全てが終わったこのタイミングだったのだ。当然、〈P〉やラムの方にも根回しは住んでいるとみていいだろう。そのときだった。
遠くからクラクションを鳴らしながら玄関前に猛スピードで白いキャブコンがやってきた。機動隊員たちが躱す勢いだったが、ミソラたちの前で止まると運転席からラムの姿が見えた。窓は開いていない。車体はすでに銃撃や凹みのオンパレードだったからだ。
ミソラたちはゲリラ豪雨を凌ぐような勢いで車内へと乗り込んでいった。全員が揃ったところで、ラムがキャブコンを即座に発進させた。一安心、と思ったところにラムからの一言が来た。
「〈P〉が……」
「ラムさん?」
「彼が、捕まりました。……最初から、彼を奪取するために呼んだんです」
「──それは、いよいよね」
ミソラが重苦しそうにつぶやいた。他のみんなも言っていることの意味を理解している反応だった。
”旅するアイドル”がこうして日本で活動できていることの大半は、〈P〉の根回しがあってこそだ。資金、安全なルート検索、施設の手配など、裏方作業がこの世界の誰よりも完璧だったからそ無茶無謀も行えた。
完璧な存在がいなくなった今、自分たちの安全はほぼないとみていい。近い内に、”旅するアイドル”は崩壊するだろう。警察に捕まるのが先か、活動の縮小で終わるかの違いでしかない。
「まずは、逃げましょう。……逃げるところがあるかわからないけれど」
車は進んでいく。
”実験都市白浜”の騒動はただ敗北という現実を突きつけ、逃げ場がなくなった日本という国を当てもなく彷徨うことになった。
それからミソラたちが罪をかぶることになった経緯を知ったのは、三日後に行われた”実験都市白浜”騒動に対する左文字京太郎の声明からだった。




