手招きしてくる『詞』
『さて、これで必要な情報は揃った。あとはこちらが打って出る番だ』
〈P〉が言った。アイカはそれはいいけど、と切り出して床に転がる松倉を眺めた。拷問の後がむごたらしいなと我ながら引いてしまう。
「日本人って、ちょっと脅しかけるだけで口割れるな。自殺したほうが遥かに楽だろ」
『平和がもたらした美徳と言ってほしい。彼は拷問と聞いて、耐えようとしたのが間違いではあったが、この国の人間にしては胆力がある。結果、この様になったのだから、彼も後悔はないだろう』
松倉は下着一枚姿で、体中に赤い模様が浮かび上がっていた。拷問、とはいったが、血は一切流れておらず、毒を体に注入したわけもない。
アイカは今まで受けた拷問で最も辛かった『くすぐり』を披露した。人によって個人差はあるが、脇腹を刺激すると痛みとも違う感覚に悶絶してしまう。これで人が死んでしまった例もあるらしい。現に松倉の悲鳴が森の中でこだまし、木々に潜んでいた鳥たちが一斉に羽ばたいたくらいだ。
だがくすぐりに慣れてきたのか、松倉は悶えることが少なくなっていった。アイカは最終手段として、針を取り出そうとしたのだが、〈P〉がそれに待ったをかけた。それから懐からピンク色のスマホを取り出した。兎のキャラクターがあしらわれたシールをケースに張ってある。それを見て、松倉から色気がなくなった。
『言っただろう。君が私たちが害意を加えるなら、こちらは容赦しないとな』
〈P〉は人質をとっていたようだ。最初から拷問にかけることなく、こうすればよかったのではと訝しんだが、〈P〉は不敵な笑みをみせるように肩をすくめた。
『最初は優しい刺激を与え、徐々に痛みと苦痛を与えていく。くすぐりは入り口に最適だ』
これでミソラたちを救出する前に次の方向性が決まった。後手に回りっぱなしなのを、〈P〉は良しとしなかった。松倉からある情報を引き出し、反撃の準備へと打っていく。それはアイカにとっても僥倖だった。
『これまでは後手に回らざる追えなかった。今回は違う。同じ生物同士が語り合う虚構の言語の応酬が始まるのさ』
「あん、つまりどういうことだ?」
『いま、彼女たちを救出に言ったところで状況が変わらない。私たちは、彼らと永遠の追いかけっこを余儀なくされる。もはや、ステージに立った意味が薄れてしまう』
つまり、何かをしでかすつもりだ。仮面の下、その思考にどこまでの状況が映し出しているのか。
「アイツらは、平気なのかよ」
『無用だろう。ユキナくん一人では、今頃始末されていることだろうが、あちらには宗蓮寺グループのこれからを担う姫がいる。彼女に害が及ぶようなら、上はすぐさまと目にかかる』
〈P〉はソファに腰を掛け、ラムに言う。
『WIN-WINな関係を、敵方と築くとしようか』
作曲をしてみないか、とミソラからの提案に少なからず戸惑ってしまった。
「伴奏は適当に弾いているから、それにあわせて鼻歌でも歌ってよ。気が向いたらでいいから」
伴奏がひとりでに奏でだす。ミスタッチとよべるものがなく、伴奏だけで一つの世界ができあがっている。ユキナが介入していいことなんてない。
ふと曲の様相が様変わりした。クラシック的なピアノの旋律から、何処か馴染み深い曲調を醸し出したのだ。ミソラは一心不乱に鍵盤を叩いている。すでにユキナが背後にいることを忘れているように思えた。
目的はわからない。ただの暇つぶしと彼女は言ったので、それ以上の意味は存在し得ないのだろう。
しかし次第に、ユキナは不思議な気分が胸の内から溢れだそうとしていた。
真っ白な部屋に色彩が宿り、今見ている世界の『向こう側』の世界が視えた。
そこは不思議な世界だった。誰かがこちらを覗いている。数を数えてみて、戦慄した。九人の影が手招きをしている。『向こう側』への世界の瀬戸際へ、自分は足を踏み入れるべき人間なのではないか。
カルマウイルスによって尊い命を奪われたもの、また特効薬が間に合い生き残ったものなど、たまに生存者の話をニュースで聞くことがあり、同じ苦しみを共有した者としての気持ちを重ねた。そうすることでしか、己を保つことができなかった。
体が病に冒されているのではないか、と特効薬を打った後も病院へ通い詰めた。医者が語る言葉は、原因不明とだけだ。そのうち、一般家庭の給料じゃ、病院へ通い詰めることができないと分かってきたユキナは、一人で家を飛び出した。それがつい、数ヶ月前のことだ。いつ死が手を引っ張ってくるか分からない状態だったが、不思議と道端で倒れたその時は、とうとう来たか、と諦めがついたものだ。
今もそうだ。自分の体のことを知った上で、生きている罪悪感に苛まれている。
旅の途中で何度も死を考え続けた。
──ああ。いま、少しだけ幸せだ。私の生きている糧が、私のために曲をひいてくれている。胸のうちにメロディが湧き出るとは、このことだろうか。
ユキナは伴奏に併せて、喉を震わせた。メロディ的な何かは、伴奏と噛み合わなかったが、浮かび上がる思いのままに声をあげた。
すると伴奏の色が変わった。ユキナのメロディが物悲しい世界を彩った。
今は気分が最高によかった。他人のきらびやかな世界を眺めることしかできなかった自分が、ステージで世界を描き、そして小さいながらも世界を作り出した。
伴奏が切り替わった。物悲しい曲調から、少しだけ希望を感じさせるものへ。メロディが柔らかな暖かさに満ち溢れた。ミソラに教わった発声方法を意識しながら、思いの限り尽くす。体を苛んでいた毒が解けるようだった。そんなことはないと、重々承知の上だ。だからこそ、精一杯忘れないように刻み込んだ。それはいつきても、おかしくないのだから。
「……いい歌になりそうね、ユキナさん」
ミソラが言った。その余韻に浸りたい。だがここが潮時だと思った。
ユキナは口に血が貯まる。声が一瞬詰まり、毒素を排出するようにユキナは咳こんだ。
赤い血がベッドに染み渡った。




