特異犯罪
多くの人は静かな絶望のなか日々を過ごしている。
ヘンリー・D・ソロー 森の生活 より
薄暗いPCのスクリーン上に掲示板のスレッドとSNSのタイムラインが映っている。男は呼吸のようにキーボードを叩き、スレッドやSNSに自分の言葉を吐き出していた。共通項目はトップアイドルのセンシティブな話題だ。明星ノアが復帰したことで、男の憤りが最高潮を迎えたのだ。
「──活動再開しやがって」
ノアがSNS上にあげた活動再開の声に祝福の声が飛んでいるのが見えた。ノアは日本を代表するトップアイドルだ。しかしある事件に関係したとして三ヶ月あまり活動を自粛していた。男はこのことに親が殺されたような怒りを覚えていた。
「理解できねえっ、理解したくねえっ。なんでこの女だけが優遇されんだ。スミカちゃんを差し置いてか!?」
男は州中スミカというアイドルのファンだった。州中スミカもノアと同様に手痛いバッシングを受け、活動休止を余儀なくされた。一部の人間はこの結末に納得いっていなかった。なんでノアだけが優遇されるのだ。あの一件でノアやスミカのファンを辞めた人だっている。だが男はスミカを最後まで応援すると決めた。なのにこの仕打ちはあんまりだろう。
それから男は粘着な明星ノアアンチとして、ネットの海に毒素撒き散らした。ノアのファンに噛み付いたり、掲示板やSNSで誹謗中傷を繰り返した。これは正当な意見だ……そんな大義名分を胸に抱えると人を傷つけることへの罪悪感は薄れていった。
夢中にネガティブキャンペーンを続けていくうちに、男は届いてきたメッセージに顔をしかめた。
「はいはいブロックブロック」
こういう手合いはトイレの水を流すようにブロックするに限る。これでストレスフリー。別に人一人を傷つけたところで多数ある意見の中の一つに過ぎない。有名税というやつだ。つまりこれは明星ノアが受け止めなければならない重責なのだ。だというのに、明星ノアの信者は彼女の行いから目をそらし擁護する。男にとっては許せることではなかった。
”頑張ろうとしている人に対してこの暴言。人格終わりすぎだろ”
”こういう投稿消したほうがいいですよ”
”ノアちゃんの邪魔をするな!”
男はこれらのメッセージに対し、どことない優越感を得た。
「感情論ばっかりだな」
嘲笑気味につぶやいた。画面上の向こうから反論をしている奴の、真っ赤な顔が目に浮かんでついにやけてしまう。結局のところ、反論できないから感情に身を任せた言葉しか吐けないのだ。そんなときだった。
”理詰めで人を貶めている人間よりマシな気がするけど”
一瞬、心臓が跳ね上がった。「感情論ばっかりだな」と口にしたことに対する返答に思ったからだった。まあこういう偶然もあるだろうと結論付けていつものブロックへ動こうとした。だが不可解なことがおきた。
「なんだこいつ……」
即ブロックしSNSのタブを消そうとした。なぜか消せなかった。処理が遅れているのかと思ったが、SNSに新たなコメントが投下された。
”タブは二度と消えない。そしてネット上にも自由はない”
「は? んだよそれ」
末恐ろしく感じながらもショートカットキーでブラウザごと強制終了しようとした。だがそれでもタブが閉じることはなかった。そして次のメッセージが決定的となった。
”小暮順也。口を開けば都合の良い論理を展開しているだけ。自分自身が「福祉都市」に住んでいるから、その弱さを盾に暴言を肯定する。およそ善良な人間のやることではない”
本名の暴露から始まり、現在住んでいるところや「福祉都市」という蔑称をぶつけてきた。
「な、なんだよ……黙れよ、お前は何なんだよ!!」
『知りたいなら教えてあげる。まずは自分の罪を自覚することから始めましょう』
突如、男とも女ともわからない合成音声がPCスピーカーから聞こえた。小暮はデスクから離れて端末を探した。通報しなければと思い見つけた端末で110番をかけた。そこで信じられないことが起こった。
『無駄だよ』
「うわぁっ」
端末のスピーカーから聞こえてきたのは警察ではなかった。
『君はすでに世界そのものと断絶している。縋るべき人間も、発散できる場所すら存在しない。君の罪が償われない限り、この部屋から出ることはできない』
部屋中から合成音声が響く。小暮は事態の異様さを理解し、慌てて扉のほうへ駆け出した。扉の鍵を開こうとしたが、錠前がびくともしなかった。
「おい、開けっ、開けよぉ! おい、誰か助けてくれ! ここから出してくれ!!」
何度も扉を叩いて助けを求めた。拳が真っ赤に腫れ上がる。痛みなんて気にならなかった。いまここで出なければ正気を失ってしまう。
『もう遅い。一ヶ月も更生の機会を待ったにもかかわらず、それを拒んだのだから自業自得というほかあるまい』
声の方を振り返り、小暮は今度こそ背筋が凍るのを感じた。そこには本来ありえないもの、いてはならないものがいた。自分以外の人間が、この部屋にいる。いつからそこにいたのか、人の形をした何かは歩く動作をせずに前進してきた。幽霊の移動のようだった。ではそこにいたのは幽霊か。
「俺に、何をするつもりなんだ」
『償いを。贖いを。言葉は人を傷つけた。明星ノアではない。──彼女を心から愛するファンがだ』
「ふ、ふざけるなっ。俺は自由に意見を言ってるだけだ! 言論の自由を阻害するのか……!」
『そう、自由だ。だが責任のない自由は、ただの無法。君は安全圏にいると勘違いしているようだが──』
小暮の全身が恐怖ですくみあがる。謎の人影が小暮を捉えた。目や鼻などの人らしい要素は微塵もなく、目の前の存在が異形のものであると認識するには十分だった。
『こうして反撃される可能性を考慮しなかった時点で君は終わっていた。意見があるなら、せめて本人にだけ届くようにするのが最低限の誠意でないかね』
「……あ、あぁ……」
影の手が伸びてきた。瞬間、小暮順也という人間の理性が崩壊した。
渇いた叫びが部屋中に響き渡った。それは誰の声でもない。自分のものであると、最期のときまで気付くことはなかった。
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「諸君、ご覧の通り”実験都市白浜”で立て続けに起こっているこれらの事案は、事件性があると判断した。今月末に国際シンポジウムが開催されるとなるに、この事件の存在は明るみにしたくない。警察庁の介入は本来ありえないことだが、事態が事態なためどうか留意してほしい」
二月一日午前十時の捜査会議にて、夥しい遺体発見時の写真が端末上に表示されている。ほとんど首吊り自殺体で占めているものの、風呂場でのリストカットや心臓へ向けて包丁を突き刺している死体もあった。ここ数ヶ月の中では他殺体より見慣れた光景だ。
今回の事件の指揮を取っているのは、警察庁警備局長である左文字京太郎だった。五十五歳とは思えない若々しい見た目もさることながら、”20年禍”の世を最前線で戦ってきた公安としての名誉もある。それに彼ほどの人物が出張っていることには理由がある。二月末に控えている国際シンポジウムの開幕場所で自殺者が多発していたと明らかになったからだ。
「自殺者は全員、”実験都市白浜”へ希望し移住を経たことが判明した。御存知の通り、ここは別名”福祉都市”ともよばれ、本来は働けなくなった者や社会での生活が困難となった者にかぎり居住が許される。しかし数年前からその意義は失われ、怠惰な人間が寄生する場所となってしまったのは、知ってのとおりだ」
ただしそのことは実験都市側にとっては悪いことではなく、シンポジウムの開催地にできるくらいの見返りを怠惰な人間から得ている側面もあった。
「自殺の動機は様々だったが、共通している箇所が一つだけある。全員、なんらかの誹謗中傷的な書き込みをしていたことだ。特定の人物や思想などな。その後、善良な人間が咎めたらしいが自殺者はお構いなしに誹謗中傷を続けている」
スクリーンや各警察官が持つ端末に、自殺者が死亡前に実際に行っていたとされる各SNSのメッセージ記録や大手掲示板サイトの書き込みが表示された。
「信じられないことだが、客観的に見れば、誹謗中傷に対する非難が立て続けに起こったショックで自殺した……としかみえない。そして自殺者の命を終わらたきっかけである”連続した謎の書き込み”。これらの特定を進めたところ、驚くべき事実が明らかになった」
自殺者と最後のやり取りをしたもので、その直後に自殺へ走らせたきっかけとなる出来事のことだ。
「この書き込みを行った人物たちは存在しない。プロパイダに連絡を取ったものの、どのプロパイダに該当するものではなかった。もちろん公共の電波や海外サーバーから送られたものではない。明らかに日本のサーバーを使っているのに特定が不可能ということだ」
資料に載っていたことでも、この場の誰もがどよめきを隠すことが出来なかった。ただ左文字は不安を一切見せることなく毅然とした態度で言った。
「これが何を意味するのか一部の諸君には分かっていただけただろう。……自殺者を自殺に走らせた書き込みの主は、完全匿名でネット上を渡り歩くことができる。昨今のSNSは電話番号や住所等の入力を必要としないものばかりで、特定となる要素は限りなくないものとなった。つまり言葉巧みに人を傷つけてもどこの誰か特定することは我々には不可能。しかもこの者は、よりによってこの時期、この場所で、痕跡を残すようにして現れた。まるで、我々への宣戦布告のように──」
左文字がそういうも、未だに事態を飲み込めていない刑事が多い。事なかれ主義がはびこる日本の官僚にありがちな反応だ。すでに切迫した状況にあることも気づきもせず、生活安全課の僅かな希望すら”事件性は認められない”というお決まり文句で逃げてしまった捜査一課や二課の責任は甚だ大きい。よって警察庁が出動するはめになった。
「これからも自殺者が増えることだろう。白浜はどの実験都市のなかで人口の多い部類だ。今こうしている間にも自殺者が増え、また別の何かが蠢いていてもおかしくない。君たちに要請するのはただひとつ、一人でも自殺者を減らし事情を聞くこと。それ以外に期待はしていない」
以上だ。そういって左文字が立ち上がったところで捜査会議は終了の合図となった。
左文字は白浜署を出てから、部下の駆るセダンに乗りながら目まぐるしい思考に追い立てられていた。二月に入ってから、シンポジウムに参加する科学者が各々の成果を披露するために来日。そして月末から各国の重鎮が来日し、新時代の科学技術を体験する第一人者となるため国際的にも意義のあるイベントだ。様々な国の科学技術がお披露目となるなか、日本も宗蓮寺グループ主導で2040年代に相応しい革新的な技術を披露するらしい。
すでに技術的には落ちぶれている日本。世界評価がどうひっくり返るのか個人的にも見ものだと左文字はほくそ笑んだ。
「──ここは、保険を用意したほうが得策か」
何が起こってもおかしくない国際シンポジウム。不確定要素が多くなり間違いなく収集はつかなくなる。ならば、あえて不確定要素を加えて、少しでも最悪ではない状況を引き寄せられるかもしれない。
左文字はある人物へ連絡をとった。コール音が何度も続く。まるでこちらの様子を伺っているようだ。一分ほど経った頃、おそるおそるといった感じの声が届いてきた。
『……もしもし』
「元気そうで何よりだ。旅は順調かね」
『……要件はなんですか』
「電話口では少々味気ない。他の勢力が盗み聞きしているとも限らないからね。なので直接会って話がしたい」
息を潜む声がしてから黙ってしまったようだ。おそらく例の存在に相談しているのだろう。しばらくしてから彼女がこう告げた。
『盗聴の恐れないとのことですが、貴方の端末のGPSは監視されているらしいです』
「ふむ、それは厄介だな……ならば招待状でも贈ろう。話はそのあとでもいい。来るか来ないかは、君たちの自由だ」
左文字は端末を使い、ある文書を作成した。警察庁警備局長という立場ならこれぐらいの工作は容易だ。たったいま、彼女の端末に送信したものは、本来なら手に入ることのない特等席の切符だった。
『──受け取りました。ですが、これは』
「だから言っただろう。好きにしろと。私としては、少しでも楽に事を終えたくてね。良い返事、待っているよ」
左文字は連絡を切り、後部座席の背もたれに寝転がるように寄りかかった。
未来は誰も予測がつかない。だが今回の技術革新によっては、日本や世界の命運が大きく変わるかもしれない。
特にこの日本という魔窟に巣食う悪鬼を食らうには格好の機会だろう。
「時代の移り変わり、か──」
複雑な糸が絡み合った先に何が残っている。善良な秩序か、不安定な芸術か。答えはこのシンポジウムを乗り越えたものが知る。




