かつての使用人
ヒトミの提案で、京都府の知る人ぞ知る割烹料亭へ食事をとる運びとなったが、移動中の空気は過去にないくらいに最悪なものだった。もっとも、提案した本人は鼻歌を歌うほど機嫌がいいらしい。ユキナには、先程のこともあって視線を向けることもできなかった。
脱出の機会を伺うが、手枷から脱する方法がない。いまは状況を伺いながら先程の問答がユズリハの意思とは関係なく頭の中を駆け巡っている。
どう答えればよかったのか。救えない者は切り捨てろと自らの口で宣言しろと、ユキナは言った。確かに世の中はままならない事情を抱えている。思惑が別の思惑を生み、雁字絡みになって抜け出せない領域へと人々を誘う。ちょっとした悪行やちょっとした善行が、その人にとっては悪であって、善にもなりえる。決めるのは秩序が保たれるかどうかだ。切り捨てることで保たれる秩序なら、それを良しとするのがこの立場の人間たちだ。
切り捨てる、と答えるのは簡単だった。そうした場合、警察としての矜持を失うような気がしてすぐには答えられなかった。いや、むしろ人間として嫌な気分になった。
──私はそこまでお人好しではない。
本当に悪い人間が、本当にいい人間を食い物にする光景を何度も見かけてきた。それは十四年前に自身が味わったバスジャックであり、そこから連なる世界のテロ事件、警察官になってから目の当たりにした人間の業深さ。どれも耐え難いもので、苦痛を伴うものだった。しかも今でも癒えることのない傷だ。それを思えば、多少の犠牲はやむを得ないのではないか。そこまで思い至って、こめかみが激しく傷んでくる。
──本当に嫌になる。なにか正しいか間違っているのかを考えるのは、一番気分が悪い。
割烹料亭は深い山々のなかにあり、まさに知る人ぞ知る料亭といった風合だった。〈P〉は車に待機するとのことで、ラムとユキナ、ヒトミとユズリハが食事を堪能することとなった。女将さんは快活な笑顔が素敵な人で、ユズリハたちの気まずい空気感などお構いなしに気遣い上手なおもてなしを振る舞った。
座敷のローテーブルに並んだ山菜や川魚の料•理は香り深く、思わず腹の虫を呼び覚ましてしまう。ラムやヒトミも思わず頬がほころんでいた。ただユキナだけは神妙な面持ちでおり、時折対面に座っているユズリハに視線を送ってはすぐに目をそらす。そういうものだから食事に集中できそうにはないと思った。
ふと隣りに座っていたヒトミがユズリハの手首の手枷を外し始めた。思わず目を瞠る。
「はい、ここぐらいは手は自由にしてあげましょうか」
「……いいんですか。逃げるかもしれないんですよ」
ユキナがいぶかしげに問いかけるも、ヒトミがあっさりとこう返す。
「ユズリハちゃんは変に真面目だから、ご飯食べ終わるまでは大丈夫。じゃ、早速いただきましょ」
いただきます、とユズリハ以外の三人は料理を食べ始めた。ヒトミが名前も知らない川魚を皮ごと噛みつき、美味そうなくらい目をつぶった。ラムは汁もの、ユキナは山菜の天ぷらを口にしている。表情だけでその美味しさが伝わってきて、自然に口の中で唾液が分泌しだした。
「食べないの?」
「……では、遠慮なく」
箸で焼き魚に切れ込みを入れて食べやすい大きさに切る。口に運んだ瞬間、舌先で香ばしい香りと脂がとろけて広がっていった。空腹だったこともあり、味の余韻より先に食欲に身を任せた食べっぷりをユズリハは見せていった。
山菜の漬物や天ぷら、鮎の塩焼き、鹿の燻製肉など、ジャンクフードばかりの現代人にとってはこの上ない新鮮な味わいをもたらしていった。ユズリハたちも例外ではなく、美味しいと口にすることなく黙って目の前の食事に取り掛かっていった。
仕事が辛いときは食事すら喉を通らなかったことはよくあった。今も辛い瞬間であるはずなのに、不思議と食欲が湧いてしまう。どうしてだろうと考えて、いま目の前に出されているものが本当に美味しいものだからかもしれないと思った。コンビニ弁当やファストフードが主食になっていたユズリハは、新鮮な食材をふんだんに使った料理を長らく食べることがなかった。唯一、旅するアイドルに入れてよかった点は、そういったものにありつけたことだろう。
お腹も満腹になり、ごちそうさまと自然に溢れてしまった。だがすぐに現実が襲いかかってくる。
「さて、ユズリハちゃん。ここから長い尋問になるかもだけど、覚悟してね」
もちろん分かっていたことだった。ここからが公安の見せ所と言ってもいい。誘導尋問に誘われず、拷問を耐えきり、ユズリハ自身を標として応援が来るのを待つ。いまからそういう時間になるのだから。
「お腹が空いた……」
取調室に入ってから半日以上が経過し、ミソラの空腹も最高潮に達していた。立て続けに襲いかかってくる罵声を耐えつつ、食欲にも打ち勝たないといけない。いまテーブルの上で丼が誘い込んでくる。だが手を出した瞬間が彼ら警察の思うつぼだ。正面で足を組んで貧乏ゆすりする京都弁の刑事が痺れを切らせて言った。
「別に毒なんか入れたりせえへんって。うちらを悪者扱いにしたいんか?」
「信頼できない人間のご飯は食べない主義なの。ていうか、いつまで取り調べなんて続けるつもり? そろそろ留置所で休ませてほしいのだけど」
「……もう少し待ってほしいなぁ。いま留置所に空きがなくてな」
「そんなことあるの?」
むしろ人まとまりに犯罪者を集めているのは危険ではないだろうか。普段ならそのことを追求するはずが、頭がぼうっとして的確な言葉が浮かび上がらない。迂闊な言葉は向こうに反撃の機会を与えてしまう。
アイカは大丈夫だろうか。警察の厳しい取り調べに耐えかねて手を上げていないといいのだが。空腹に苦しんでいないだろうか。案外、一人で耐えきっていて涼しい顔でいるかもしれない。あのとき、アイカを置いておくべきだった。警察に捕まろうとしたのは、ここ最近の疑念を晴らすのに適切なタイミングだと思ったからだった。
いまここでカードを切るべきか。いや刑事からそれらしい情報は漏れていない。彼はこちらからの質問をそれとなく受け流し、ボロを出す機会を与えない。もちろん犯罪者を捕える職業だからおいそれと話すわけがないのだが、それでも彼らから情報を得なければならない。
「なにか企んでいるかい、宗蓮寺ミソラ」
「別に。ただ無様に捕まった犯罪者に、どんな思惑があるというの」
「やけに準備ができている気がしてるんよ。俺としては、あえて捕まったんじゃないかと思ってはるのだけど、気の所為かいな」
肩をすくめてどうだろうかと返す。彼から視線を外しパイプ椅子に寄りかかって斜め上の天井を見つめる。
これはもう耐えられないかもしれない。サヌールの船長と相対したときの底知れない凍てついた感覚を思い出す。自分の意見を発することと、相手に意見を言うのとでは、どうにも勝手が違ってくる。ミソラは前者、ハルは後者の方に長けている。相手に届けようという意識の違いだろうか。そして相手の心を明かす弁論技術をミソラは持ち合わせていない。むしろ苦手な部類だ。
理性的にであればあるほど、感情的になってしまう。常に冷静で、理論的であろうとしたいのに、ほんの少し状況が狂っただけでこんなにも辛い気持ちになってしまう。甘かった。戦いだけではなく、一対一での駆け引きも苦手だとは。ふいに刑事が言った。
「先程、君を留置所に連れていけないわけを知りたがっていたね。教えたあげよう」
彼は立ち上がり、ミソラの横までゆったりとした足取りで移動した。
「数時間前に市村アイカが取調室から逃げたみたいでなあ。なるべくなら、この状況を保ちたいというのが上の仕業なんよ──長期戦、覚悟してもらわんとこっちも辛いねん。なんで、大人しくゲロってくれると助かる」
「……そう、なの」
ミソラの肩が下がっていく。どこか諦めに似た感情がミソラを支配していった。アイカが忠告を聞かず、勝手気ままに動いた。それがどんな状況を招くのか、彼女は知らないのだろうか。
「話す気になったかい?」
「……いえ、ここでは話す気にならない。実はあなた方に捕まる前、弁護士を呼んでおいたの。あからさまな不当逮捕におけるカウンターとして、念の為ね」
すると刑事たちの顔が変わっていった。捕まる前、ノアに不当逮捕されたことを報せ、ハルに弁護士を用立ててくれないかと頼んでいた。今のハルの連絡先を知らなかったので、花園学園に滞在しているときに連絡先を交換したノアから経由するしかなかった。昔のよしみ、なにより花園学園の件を引っ張り出せば、弁護士を読んでくる可能性は高まる。あとは弁護士が有能なものであればいいと、ほんの少し贅沢な気持ちもあった。
弁護士を呼んだことを伝え一時間後、刑事が外からの連絡を受け外に出た。すぐに戻り、ミソラにこう言った。
「……面会の時間や。用意周到やね、宗蓮寺さん」
「もちろん、そろそろだと思って身構えていないと話にならないでしょ。私たちは、そういう立場に立たされているもの」
半日以上ぶりに取調室を出ただけなのに、清々しい気分になった。あの取調室という空間には、人を憔悴させ口を割らせるだけの魔力が潜んでいる気がしてならない。だが一時しのぎであることも分かっていた。あとはいかに弁護士に現在の状況を伝え、釈放までの道筋を最短で行えるかにかかっている。
応接室の前でミソラは開いた先の扉を凝視した。中に一歩入り込み、透明な板の向こう側にいるスーツ姿の人間を捉えた。その人はミソラをみて、口元を覆った。まるで大切な人間と再開したように──それはミソラも同じ思いに駆られた。ミソラは慌てて駆け出して、彼女の顔をまじまじと見つめた。思わぬ再会にミソラの声が震えた。
「……美住……美住よね……」
「……はい、はいっ、私です。お嬢様。ああ、やっぱりお嬢様でした。こんなに嬉しいことはありません」
かつてみた使用人の衣装ではなくビジネススーツの面持ちであったが、長年共に過ごしてきた使用人の顔は健在だった。美住は嗚咽を漏らしながら再会の喜びに打ち震えていた。ミソラも思わず涙を流した。彼女とは血の繋がりはないが、確かに家族の一人だった。




