そのとき
喫茶店を後にしたユズリハたちはヒトミの案内で歩き始めた。この場所からそう遠くない場所にあるらしく、なんの変哲もない住宅街には地元住民らしき人しか見当たらない。さすがのユキナも見向きしていない。
ヒトミは時折足を止めて端末を眺めては、進行方向を何度も変えていった。元の場所に戻っているのではと思うほど、同じ景色ばかりが続いていく。三〇分が経った頃、ユキナはしびれを切らしたのかこう言った。
「ヒトミさんはこれから向かう場所にどんな思い出があるんですか?」
「そうねー、十歳くらいまでこのあたりに住んでいたかしら」
「へえ、そうだったんですね……って、え!?」
ユキナが言葉をつまらせるのと同じくユズリハも衝撃を受けた。
「ここの出身だったのですか。なら京都を巡った意味とは」
「違うの。初めて訪れた場所だったのは本当のこと。そもそもここが京都府であることも、私は知らずに育ったのよ。こんないい街だって知ってたら、ここの観光ガイドとして一生を過ごすのも悪くないと思ったわ」
「知らずに育ったって……」
言葉に意味が理解できなかった。ヒトミはそれを見越したようにこちらをくすりと笑った。
「ユズリハちゃんやユキナちゃんは理解できないでしょうけど、国の中にはね社会から受ける教育や観念を遠ざけようとする勢力が必ずいるのよ。もちろん、そんな勢力は社会的な圧力で抹殺されるのがオチだけども、私のところは違った。知っての通り、あの”大空家”だもの」
彼女の口から初めて、自らが「大空家」の人間だと明かした。2040年の日本に置いては、旧華族の名前はネットで調べでもしない限り知る機会はないが、経済に携わる者なら自然に知ってしまう存在ではある。
「以前のドキュメンタリーでも言ってましたけど、大空家ってそんなに凄いんですか?」
一般的視点からユキナが疑問をこぼした。当然だろう。華族とはいっても、旧時代の遺物であるのは間違いない。その中でも大空家は今でも強い影響を日本の社会に及ぼしている。
「明治から一山当てた資金を元手に、様々な企業を興した華族というのが一般認識よね。平成の時代は「大空家」、「宗蓮寺家」が双璧を成していた。企業どころか政界にまで影響があったらしいわ」
「らしいって。自分の家のことでしょ」
「私。十歳まで過ごした大空家しか知らないし、さっき言ったことだって日本に戻ってから初めて知ったことなのよ。あの家がそんなに大きな群体だったこともそう。ただまあ、あの家で受けた仕打ちの数々を思えば納得できる部分はあるのよねえ」
まるで他人事のようにヒトミは言いのけた。だが信ぴょう性は無いに等しい。たしかに大空家は京都を発祥としたグループ企業であるが、それはネット上にも載っている既知だ。そもそも彼女は日本国籍を持っていないことは調べで明らかになっている。現在の大空家当主には二人の男児がおり、女児の話は一度たりとも聞いたことがない。
「先程おっしゃっていた教育や観念から遠ざけられていた話と関係があると?」
「そうなの!」
ヒトミが振り返って周囲を見渡した。物珍しそうに、そして懐かしそうな目も同居している。
「私が戸籍登録されていないのは、家の意向に因るもの。だからどこへ行こうとも、私という存在は社会に認められないわけ。だから四ヶ月前に私を大空家の娘だって見破られたときは、なんだか嬉しくなっちゃったわ。先導ハルちゃんの仕業だと思うけど。今頃、家のほうは大騒ぎになっていることね」
そう言って、ヒトミは弾むような鼻歌をうたいながら軽やかなステップを刻んでいった。彼女は京都に来てから機嫌がいい。京都に来てから張り詰めてばかりのユズリハとは対象的に思えた。
さらに道は進んでいく。川を超えて、まっすぐ整った通りに入った。先程の住宅街とは違い、木造家屋らしき建物が増え、京都の山々と通りの雰囲気が千年以上前の厳かな都を想起させた。ユキナがしみじみと景色を眺めている。
一月の十五時には空は茜色に染まり始めているのが、なんともノスタルジックな空気を醸し出している。そんな状況の中、前方にスーツ姿の二人組の男たちが通りから現れこちらに歩いてきた。スーツの上に暗めのコートを羽織り、威圧感のある体格を披露している。男たちは特に会話もなく、まっすぐと道を進んでいる。ユズリハたちに視線を送ることなく通り過ぎようとしていた。
その瞬間に、作戦は開始された。
二人組の一人がユキナの腕をつかみ、真上へひねり上げた。うめき声を発するユキナに反応したヒトミだったが、もうひとりの男がヒトミの全身を拘束しようと動いていた。しかしヒトミが伸びてくる手を軸に腕の外側へと逃げようとするほうが早かった。無論、男の反撃も続こうとしているが、ヒトミはすでにターゲットをユキナを拘束した男へと焦点を定めていた。
「ユキナちゃんになにしてんの!」
といって、隙だらけの男の顎を思い切り蹴り上げた。顎への衝撃は脳震盪させるに至ったらしく男の拘束がゆるんだ。そのあいだに、ユキナが体を横に転がして男から距離を離した。
「ちょっとアレ使わせてねっ」
そう言って、ユキナのコートのポケットから何かを取り出したようだ。ユズリハは瞬間的になにか察知した。知らぬうちに〈P〉がユキナに与えた武器を男に使うに違いない。硬貨程度の大きさで、人間一人にスタンガンのような電流を発生させる”スタンコイン”は戦闘能力が皆無なユキナが使う代物であるが、基本的に誰が使っても汎用性の高い効果を発揮する。だが知っていれば対策は可能だ。
ユズリハは低い体勢からヒトミの懐へと入り込んだ。”スタンコイン”を握っているであろう右腕の手首を掴み両腕を使って固め技を決める。するとヒトミがいたましそうな声をあげ、手に握っていたものが地面に落ちた。やはり”スタンコイン”を所持していたようだ。それを使われないように遠くへ蹴り飛ばしたあと、足ばらいをかけてヒトミを転ばせた。
地面に伏した状態のまま、ヒトミが目あげてきた。抵抗できなくしたのに、どこか挑戦的な目つきだった。
「──やってくれたわね、ユズリハちゃん。こんなタイミングで仕掛けるなんて」
「あなたに振り回されすぎて先延ばしの可能性もありえたのですが、まあ結果オーライでしょう。本当に長い旅でしたよ、まったく」
つい口調が崩れてしまう。彼女たちの引き渡しが完了するまで油断はできないのだが、ここには〈P〉やアイカはいない。ヒトミたちとは違い、大幅な人員をあちらに割いているため、逃げ切れたとしてもここへ来ることはないだろう。ユズリハは男二人に言った。
「車はどちらに?」
「そこの曲がり角に止めてある。手錠をかけておいたほうがいいだろうか?」
「当然。そこにいるのは国家を揺るがす犯罪者。決して油断なさらないように」
承知した、と言い、男がユキナを無理やり掴み上げた。顎を蹴られた男はいたましそうに顎をさすり、ヒトミを憎々しげに見た。憎悪が滲み出ていて、公安として些か品の無さを感じた。男二人が手錠を手にしたところで、ユキナは呆然とユズリハを見つめていた。
「ユズリハ、さん──」
切実に訴えかけてくる彼女の問いに答えるような真似はしない。代わりにおしゃべりな女が答えた。
「ねえ、私たちを拘束するだけの証明書出したら? まさか無いとは言わないよね」
緊急性が高いと考え後回しに考えていたが、彼女にそう言われては出さずにはいられない。ユズリハは視線でそれを提示するように促した。ユキナを拘束した男がコートの内ポケットから一枚の書類を出しユズリハに投げ渡した。空中でそれを受け取り中を開いたあとで、お決まりの言葉を二人に告げた。
「大空ヒトミ、原ユキナ。他四名の人物に対して逮捕状が請求されている。器物破損、凶器準備集合罪、銃刀法違反、公務執行妨害、そして国家騒乱の容疑であなた達を逮捕する」




