秩序を守る者
その日は、本当になんてことのない楽しい休日で終わるはずだった。
「た、たすけて……」
「黙れガキ。次に悲鳴あげたら、お前の母親を撃ち抜くからな。倒れてるパパみたいにさせたくはないだろう?」
熱さと冷たさが交互に襲ってくる。自分の命が脅かされていることと、足から血を流して吐息を荒くしている父の姿に、水野ユズリハの精神は崩壊寸前だった。なぜかおもちゃにしか見えない銃が顎の下に突きつけられている。少女は非現実な夢を見ているような気がした。
「娘に手を出さないでください!」
母が涙ながらに拳銃を持った男たちに呼びかける。次の瞬間、耳元が破裂する音がした。バスのあちこちから悲鳴が上がった。
「黙ってろ!」
男の一声ですすり泣きを抑え込む程度の静けさになった。バスは依然と走行を続けている。観光ツアーで乗ったバスで、交通機関のバスと違い観光バスに非常事態を外に知らせるシステムは搭載されていないらしい。もしあったとしても、外へ知らせることはできなかったとバス内の誰もが思っている。すでに運転手はバスジャック犯の手にかかり床に転がっている。動く気配はなかった。
「夢の国から目が覚めただろう。だがこういう娯楽が人間を駄目にする。いまはそんな時代じゃない。改革のために我慢するときだってわかんねえかな」
ユズリハに拳銃を突きつけている男が言った。スキンヘッドに刈り込みを入れたハイジャック犯の中でもリーダー格らしい。後に全国指名手配されている凶悪犯だと知った。
「俺たちはお前らみたいなお金持ってるやつが大嫌いなんだよ。お前ら、ネットも使えない貧乏人がいることもしらねえだろ。確かに慎ましく暮らせりゃとも思うさ。だがこの現代はお金を使わせようとしてくんだよ。そして煽りを受けるのはいつも貧乏人さ。昔から、いまでもそうだ」
すると震えた声で乗客の男が言った。
「だ、だからってこんなことをしてもどうにもならないだろう……。このバスを乗っ取ってどうするつもりだ」
「決まってるさ」
男の声が弾んでいるのがわかる。リーダー格の男は血走ったように頬を引きつらせ、口角泡を撒き散らした。
「この国の罪を思い知らせてやるのさ。大勢のために少数を犠牲にする、いや強いてしまうこの国の体制を、根本からひっくり返す。お前らも思い知るさ。人民が人民のための政治が、いかに人で無しであるのか!」
大勢のために少数を犠牲にする。この少数というのは、ユズリハたちのことだろう。彼らが何をしようとしているのか、ユズリハには想像がつかない。ただ自分たちが犠牲になることだけは、バス内の空気感から感じずにはいられなかった。
父の呼吸が穏やかになっていく。偶然、客のなかに医者がいたようでその人が手当をしてくれた。止血はしたようだが、このままでは化膿のおそれがあるとのことで、すぐにでも病院に行ったほうがいいとのこと。もちろん、そんな事を許してくれる状況ではないことは分かっている。
「お父さん……」
「……ユズリハ」
声も絶え絶えだ。絶望が全身に侵食してくる。バスジャック犯が何を為そうが、正直どうでもいい。だが私たち家族は巻き込まないで欲しかったと、ユズリハは切に願った。
「助けて」
ユズリハは目をぎゅっとつぶって、目頭にたまった涙をこぼした。熱い思いが頬に伝っていった。
「誰か、お父さんを助けて」
車やバイクの音が通り過ぎていくばかりの高速道路上では、誰も危険を知らせることはない。携帯は搭乗時に没収されてしまい、運転手が殺害された時点で誰も持っていないとウソを付くことはできなかった。テロリストを捕まえる警察官や父を病院へ連れて行ってくれる救急車がこのバスに横付けして救出を図る可能性は限りなく低いだろう。奇跡でも起きない限りは。
ふいに状況に変化がやってきた。何度目かわからない銃声。誰かが倒れる音がして目を開くと、乗客が全員ユズリハの方を向いて驚きを顕にしていた。何が起きたのか、ユズリハには分からなかった。ただ強い風が肌を撫でていた。それはこの状況においては異様なものであった。
ハイジャック犯たちが慌てだし、ユズリハの背後に駆け寄ってきた。自分の体にのしかかっていた男の重圧がなくなっていたことに気づく。振り向いてみると、間宮の額から鮮やかな赤い丸が出来上がっていた。
死んでいた、と呼ぶには芸術的な様相だった。間宮は表情を浮かべる途中のような顔になっていて、死ぬことに気付いてすらいなかったように思えた。事実それはあっているのだろう。予想だにしない場所からその銃撃はやってきていたからだ。
「とんでもないもの見せてすまない。だが必ず助けるから──」
どこからともなく声がしたところで、なにか転がる音がした。外を見た。バスの窓ガラスが割れており、そこからちょうど何かが投げ込まれた。椅子から中央の通路へ落ちた瞬間、気の抜ける音を響かせ白い煙が辺りに広まった。驚きに声を上げるもの、咳こむものと様々だが、ユズリハは全身のふらつきを覚えた。眠る前のまどろみに近い感覚だ。これはもしかして、と思っていると、外から声が届いてきた。
「では、仕事の時間だ」
その言葉を最後に、ユズリハの意識は遠ざかっていった。
ユズリハにとって、正義とは大切な誰かを助けてくれるシステムに他ならない。
父は足に後遺症を患い歩くことができなくなったが、そんなことすら気にしない素振りで大好きな父親で有り続けている。母は少々過保護になってしまったが、ユズリハも自分のみを守る最大限の努力をハイジャック事件の後に積むようになった。必然的に警察官への道を前に置くことは当たり前だった。
バスジャックを救ったのは警察の電撃作戦によるものであったが、あのときに煙のようなものを撒いた者が誰か明らかになっていない。刑事にその事を言っても、分からないの一点張りだった。彼が何者かは、警察のことを知っていくうちに察するところがあった。
身近な犯罪とはスケールが変わり、国家規模の犯罪に立ち向かう”公安”があのときユズリハたちを助けた連中ではないか。疑いを持ち始めたのは、中学生の頃に警察という職業について調べているときだった。ユズリハはなんとなく警察官になると決めていたが、女性警察官はほとんどが生活安全課や交通安全課への所属することになる。捜査一課に加わるのは稀で、ましてや公安に所属する女性警官は前例にないと言われている。職務上、身体的に有利な男性が務めるのが当たり前で、知謀を張り巡らせなおかつ心身ともに負担を強いることから当然のことだと思う。
よって、ユズリハは警察官を将来の職業として決めていたものの、初っ端から刑事になることを諦めた。
中学の頃から警察官に必要なスキルを得るため、中高で武道を極め、東京大学法学部に進学したあとは射撃部へと所属した。東大法学部に進学したのは、好きな刑事ドラマの主人公がその道を歩いていたからであったが、そこに合格した瞬間にユズリハの中で予感が走った。法学部に進学した時点で、弁護士や検事、裁判官の道もあったが、子供の頃の謎を消化したく国家公務員試験に合格した。
運命の日は、すぐそこにやってきた。
大学を卒業し、警察学校で優秀な成績を収めて同期から一目置かれるようになったユズリハにある事例が降りた。警察庁公安部からのスカウトだった。このとき、ユズリハは決して忘れることのできない声を耳にした。
「君はたしか、十年以上前にバスジャックに巻き込まれていたな。よく覚えているさ、あのときの面影そのままだ」
その男の声を忘れることなんてできなかった。一体誰なのか、子供の頃は毎日のように考えていた。それが今、目の前で警察庁警備局長という肩書を抱えていた。
「ようこそ。ともに日本を守ろう、ユズリハ」
人生に意味なんて無いと思っていた。人は簡単に危機に陥り、死を迎えると知った小学六年のあの日からずっとそうだった。警察官になろうとしたのは、一種の諦めで、無意味な人生に何かを彩るのに手っ取り早いと考えていたのかもしれない。
ここが意味のある場所なら、命を救ってくれた人がいるなら、この無意味と感じる心に意味をもたらしてくれるはずだと、ユズリハは初めて自分を肯定できたような気がした。




