2040年
「ここ数年で、東京都の人口がどれぐらい減ったか知ってる?」
先導ハルは手持ち無沙汰の松倉幸喜に尋ねた。彼の猫背が困惑を覚えながらも、ハルの質問に答えた。
「なんかニュースでやってたな。二割ぐらいだっけか。東京の物価が他所と比べて高くなったせいだって聞いたぜ」
「理由はそれだけじゃない。“20年禍”で生活スタイルが増えて、その時の若者たちは新たな労働手段を獲得していったのも要因の一つね。最も大きかったのは、都市機能の脆弱さを、みんな知りはじめたからかも。だから地方への移住が加速し、さらには”実験都市”という出来の良い都市へ移り住んだ。東京はようやくちょうどいい都市になっていくから、良いことではある。そうは思いません? 松倉さん」
久々に本社で仕事と思いきや、特別顧問室で元アイドルと世間話を興じている。羨ましがる人もいると思うがそんなことは全く無く、この先導ハルから放つ話題は想像以上に精神を使う。
「別にどこで働こうが、やることは変わんねえだろ。コミュニケーションもまともにできない奴らばかり増えちまってるし、こっちが気使わねえといけねえ。日本だけじゃなく、海外でもそうだぜ」
松倉の呟きに、ハルは呆れ返った様子で言った。
「仲良しこよしが苦手な人だっているの」
「それが人を尻に使うヤツの言葉かあ?」
「あのねぇ、私をブラック企業の顧問みたいに言わないで。私が就任してから、労働環境はマシになってるはずよ。特に中小。労働意欲なんて価値がないわ。それで人が死んだり心や体を壊すほうが最悪よ」
「なら、直属の部下を気遣ってやってほしいんだけどなあ」
あら、と悪戯めいた笑みをハルが浮かべた。他の人間ならこの笑みで許してしまうに違いないが、松倉はより一層憤りを募らせた。それ以前から、松倉は全身に穴があきそうなほどストレスを抱えてきたのだ。
この会社がいつの間にか雇っていた半グレ組織を取りまとめたり、銃弾が通じない仮面野郎に誘拐されたり、テロリストの娘にくすぐり拷問をくらい、一回り年下の上司にこき使われている現実が、胃の痛みを加速させていた。そんな苛烈な日々が続いては、酒を飲まずにはいられないし、タバコは一日に二箱吸わないと気が済まない。最近は出張と称して海外の射撃場に通いストレスを解消している。宗蓮寺グループの子会社を視察し、その報告をまとめて先導ハルに提出するのがここ数ヶ月の業務だ。
「で、お前さんが言いたいのは最近の若者は労働意欲がなくて困ってるって話か?」
「ぜんぜん違うわ。もっと適当に仕事をしてって話」
「甘ちゃんだね。だからここしばらく経営不振なんだろ」
ハルは眉をひそめて松倉を睨んだ。すねた子供みたいだった。
「経営が悪くなったら、少し勢いを落とせばいいだけ。どこの企業もスピード出し過ぎ。消費行為が加速で高騰化を引き起こして、結局業界そのものが人を使い潰さないといけなくなった。一人ひとりの問題でも、企業の問題の範疇では決してないというのに」
「違いねえが、お前さん。外でそういうこと言うんじゃねえぞ。それ、某テログループの主張とまるきり同じだからな」
「……そうね、気をつけるわ」
消費に果てはないと言われている。人間の欲が深淵という底無し沼ぐらいにあると目され、それに慣れきった現代の人間たちは『満たす』ために『消費』に励んでいる。いや、もはや『消費』したから『満足』という境地まで至っているのかもしれない。
ハルはデスクに向かい仕事を始めた。真面目な口調で仕事に精を出しているのかそうでないのか、最近はわかるようになってきた。
ここしばらく、彼女の仕事は特別顧問室に篭ってデスクワークをしている。内容も雑用の範疇でしかなく、特別顧問の立場を利用して特別な品の取り寄せを要求したり、部署ごとで社員旅行の企画を立てたりと、肩書きが泣きそうなことばかりさせられている。
しかし同情はできない。いまの状態を生み出したのは、先導ハルが招いたことだ。経営不振程度で済んでいるのが奇蹟ともいっていい。『宗蓮寺グループ』ひいては、先導ハルが行ったことを考えれば、特別顧問をクビになっていてもおかしくないのだから。
「なあ、先導ハル。お前さん、あいつらのこととか気にならないのか?」
ハルが珍しく興味ありげに松倉を見た。意外な話題だったのだろう。ハルは思案のあと、こう話していった。
「別に。いまもどこかを旅しているんでしょう」
「野垂れ死んだかもしれねえぜ。あんだけ世間を騒がせたんだ」
「けど、彼女たちが沈黙を破るときはいつだって何かが起きたとき。なにより、大切な何かを取り戻すときによ」
先導ハルがそう断言した。松倉も同意見だった。彼女たちはすでに起こっている事件に飛び込むタイプの異常者なのだ。
ふと、ハルが一面張りの窓へ向き直ってこうつぶやいた。
「2040年。テクノロジーが超越し、現存の社会を決定的に変える。──技術的特異点の年になっても、昔にあった滅亡の大予言よろしく、他人事としか捉えないこの状況。すでにもう起こっているのだとしたら、私たち人間はどう向き合うべきなのでしょうね」
「はあ?」
「なんでもない、忘れて」
そういって、ハルは高級チェアに思い切り寄りかかり目をつぶった。数秒後、寝息を立てたようだ。
自分が若者だったときは、彼女のような上場思考のある人間をよく笑ったものだ。だが残酷なことに、笑った人間が十数年後の未来を左右することになってしまった。そういった弱者は、社会とのつながりを断ち切り、孤独を募らせることとなった。
先導ハルの眼は、世界すべてを照らす太陽になりえるのだろうか。
人や社会の暗影をすべて照らし、誰もが幸せになると信じているのだろうか。
松倉は端末を取り出し、メッセージを開いた。息子からの定期連絡が来ることを期待したが、まだ来ていなかった。そこでふと、珍しく妻からのメッセージを見つけた。日付は数時間前だった。
『友達と北海道に行ってきます。あとはよろしく』
愛想のない文章に何も反応する気が起きない。
「また浮気か。……いい加減、ここらが潮時だな」
今に始まったことではない。数年前から、妻の生活事情は把握している。証拠も掴んでいるが、いまは息子のために仕方なく沈黙している。だが息子が小学生になり、浮気の証拠を叩きつければ、養育費の支払いもせずに縁を切ることもできるだろう。
「クソ、なんで俺ばかり」
松倉が吐き捨てたつぶやきは誰かに届くわけでもなく、ただ自分に跳ね返ってしまうだけだった。




