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Traveling! 〜旅するアイドル〜  作者: 有宮 宥
【EX】第四章 Happy Hack.
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泡沫



「さあ、次が最後の一曲ですよ! 思いっきり応援よろしく!!」


 この場の歓びが最高潮を迎え、〈サニー〉たちは最後の楽曲で締めようとする。〈ハッピーハック〉の原点に立ち返る。季節外れの花を咲かせてみせよう──。



 観客の顔がかすかに見える程度の明かりが灯り、客席と観客に加えステージの向こうまで自分たちのパフォーマンスを届けるというつもりで披露してきた。

 そんな中で、意識を外してしまう場所があったことを、真横から聞こえてきた慟哭で知った。


 ステージ端から清掃員らしき人物がバケツを抱えてこちらにやってきた。

 女性が絶叫を撒き散らしながら、バケツの中身を勢いよく放り込んだ。


 液体が放物線を描いて一番近くにいた〈スター〉へと降り掛かってくる。

 誰もが突然のことに立ち尽くすしかなかった。

 液体が彼女に被ろうとしたそのとき、〈スター〉は「きゃっ」と発してステージから落下してしまった。

 その衝撃波〈サニー〉がもたらしたものでも、ステージ端から突貫してきた女性でもない。


「……〈エア〉?」


 〈スター〉が液体をかぶる前に〈エア〉が彼女を突き飛ばしていた。

 結果、バケツの中身を〈エア〉がかぶることになった。

 〈エア〉は、髪の毛から顔が濡れきっていた。

 相当量の液体を浴びてしまったようだ。

 誰もが唐突な展開に戸惑っている中、最初に動きがあったのは〈エア〉からだった。


 〈エア〉は頭を抱えて膝を地面に下ろした。

 それが力を失ったように落としたので不安になったのもつかの間、その不安すら吹き飛ばすようなことが起こった。


「あ、あぁ──」


 〈エア〉がこちらへ視線をやろうとしたが、マイクで拡声した音が響いた。

 頭の中に絶叫がこだました。〈エア〉が叫んだ。

 その場でのたうち回り、痛みと嘆きを交互に撒き散らした。

 濡れた黒髪から白い煙が熱い石に水をかけたようにふきあがっている。

 彼女を〈エア〉だと認識するのに時間がかかるほどに、いま起きている状況は現実離れしていた。


「────────」


 痛い。

 痛い。痛い。

 熱い。熱い。熱い。 


 出てきた言葉に彼女からまとわせてきた余裕はなく、純粋な痛みによってもたらした慟哭だけが、その水を浴びた結果になった。


 〈サニー〉は〈エア〉に駆け寄った。その顔が苦痛と涙で──そして物理的に歪んでいた。


 あの女は何を〈エア〉にかけた?

 何を〈スター〉にかけようとしていた? 

 当然の疑問は〈エア〉の苦しみの前には何の思考をもたらさなかった。


 ただ、〈スター〉と〈サニー〉の慟哭ばかりが小さなステージにこだました。






「やった、やった、やった!!」


 努力は裏切らないことを証明した気分で階段を駆け下りていく。背後から黎野を追ってくるものもいたが、予め決められたルートを進んでいくと不思議なことに誰とも鉢会うことはなかった。だがこれは不思議ではなく、愛しい彼が導き出した預言なのだ。それを信じないことが何故あるだろうか。


「予定とは違ったけど、でも終わった。〈ハッピーハック〉は完全におしまい……」


 《P》の提案は、〈ハッピーハック〉の中で一生トラウマを刻みつけることの出来る人物に、希硫酸をかけろというものだった。しかも彼の指示で成分を強めた特別製だった。一ヶ月前からリリースコンサートが行われるビルで清掃員としてアルバイトを始め、作戦当日までシミュレーションを重ねた。


 希硫酸は毎日少量ずつロッカーの中へ持っていき、当日にバケツに流し込むだけで良かった。ミニライブの会場は本格的なライブと違い警備が甘いのも幸いした。あとは機を見計らって突貫すればいい話だ。


 あとは人知れず脱出するだけだ。作戦成功の暁には、いよいよ彼とご対面できる。指示通りに非常階段から店舗エリア内へ降りて、女子トイレで着替えて脱出するだけかと思われたその時、横から「あの」と声をかけてくるものがいた。男の警備員は胸元に付けた無線で何かを言った後、駆け足で近寄ってきた。


 黎野は身を翻して、先程の階段までかけていった。足を限界まで振り絞り階段を降りようと思った。だが降りていくのは逃げることを見越して他の警備員が待ち構えている可能性がよぎった。なので上の階へと上ってしまった。

 指示と違う。黎野は逸る気持ちで《P》に連絡をした。返事はいつもどおりのレスポンスだった。


「……このまま一回下のテラス席から脱出してほしい。ふふ、謝罪の言葉まで」


 さすがに何もかもが指示通りにいくわけがない。彼の申し訳無さそうな気持ちが嬉しかった。黎野はひたすら上の階へとあがっていき、一番上の階で降りた。レストランフロアで家族連れで賑わっていた。数階下で起こった惨劇のことを知らない様子だ。


 テラス席は階段から右手にあった。その中へ入ると、端末に通知がやってきた。その指示は、今までの指示の中で初めて疑念を浮かべるものだった。


「ここから、飛び降りて脱出しろ、ですって?」


 それ以外に手段は書いてなかった。黎野は眼下を覗いてみたが、真下には緩衝材となるものはなく、コンクリート床の通りを人々が闊歩している。落下したら、何らかの奇跡が起きない限り天に召されることは間違いない。これには《P》に信望している黎野も躊躇いを持つには十分な理由だった。


「む、無理よ。こんなこと、出来るわけが──」


『いいや。君にしか出来ないことだ、アケミ』


 どこからともなく、合成音声めいた歪な声が響いた。声の発生場所が自分のところから来ている。もしかしてと思い、懐から端末を取り出してみた。何故か通話アプリが開いており、画面上に待望の名前があった。


「《P》……? あなた、なの?」


『ああ。だが時間がない。警備員がまもなくそちらへ急行してくる。これが最後の脱出機会だ』


「け、けど。ここを飛び降りるなんて」


『安心しろとは言わない。だが君を必ず救うと約束しよう。君は自由になるべき人類の宝だ。今まで君が受けてきた苦痛を乗り越えるくるたびに、大きな決断を迫られていたはずだ。──私が必ず、君を幸せにする。そのことだけは信じてほしい』


「……あぁ、もちろん。信じるに決まってるわ。貴方から、そこまでの言葉をもらったのだもの」


 飛び降りることに後悔はない。今まで〈P〉のがなしてきた預言めいたものを的中させてきたのだから、自分を助けることなんて朝飯前に違いない。黎野は意を決して椅子からテーブルへと上っていき、弊の上へと立つ。瞬間、黎野が金切り声を上げているのを眺めていた連中が悲鳴を上げた。構うものか。これがたった一人の人間を愛した者が行える、大いなる決断なのだから。


 足に力を込めて、黎野は弊の向こう側へ跳躍した。


 一瞬の浮遊後、落下が始まった。


 恐怖は飛び終わったときに霧散した。空気の圧を浴びながら、開けた視界が徐々に狭まってくる。コンクリートの足場に着地する体勢を取りたかったが、そのまえに〈P〉助け出してくれるはずだ。なのに一向にその気配はなく、黎野の視界はコンクリートでいっぱいになった。


 落下が終わった後、黎野は不思議な気分でいた。都市が一瞬で更地になったようだ。全身を駆け抜けた衝撃で人が変わったのだろうか。体を全く動かそうとも思えない。かゆいのか痛いのかも分からない。けど、心が晴れやかな気分でいるのは、まもなく彼に会えると信じているからだろう。


 悲鳴があがっているなかで、黎野は耳を澄ませ真っ赤に染まった視界で彼の姿を探した。


「……ぴぃ……」


 彼じゃないものが駆け寄ってくる。邪魔だと思いつつも、ある方向に意識が向いた。自分のスマホを拾い上げるものがいたのだ。視界は朧げになって姿が掴めない。だがその人はスマホを拾い上げたあと、黎野から背を向けてどこかへ消えていこうとする。


「……まって……わたしを、しあわせに……」


 呼び止める言葉も虚しく響き、黎野明美の生涯はこうして幕を閉じた。

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