幸せの源泉
三年前、まだ事務所にいた頃。
先導ハルは決定的な場面を目撃してしまった。
事務所で話があると聞いて黎野明美の元へ訪れ、ふとレッスンスタジオから声がしたので覗いてみると、Lakersの面々と黎野の姿がそこにあった。何を話しているのだろう、と興味本位で扉を少し開けてしまったのが運の尽きだった。
「ナインセルの社員と接触したのよね、アリサ。どんな情報をもらったか、教えてもらっていいかしら」
「えっと、近々他の事務所と合同のイベントを大々的に行うって……。あの、それしか得られなくて」
瞬間のことだった。黎野がアリサの胴体を蹴り飛ばす瞬間を目撃したのは。アリサは床に倒れ、腹に腕を抱えて痛みにあえいでいた。
「そんな程度の情報しか得られなかったの? なんのためにその男の人生を破滅させたわけ。次は有力なものを手にしなさい。場合によっては、手段を選ぶ必要はない」
「……はい」
アリサはLakersの中で小柄な少女で、ファンタズムでも妹的な存在でもあった。年はハルのひとつ上だが、愛嬌があってハルも妹のように好んでいる。それからエリカはアリサをお姫様抱っこの要領で持ち上げる。聞いたことのない口調と言葉が彼女の口から飛び出てきた。
「社長、そこまでにしておきなって。幸い、ホテルの周りにカメラマンらしきやつはいなかったみたいだし、面倒な案件でもないでしょ。うちの組の奴ら、血気盛んだからつまんんねえなあって文句垂れてたわよ」
「そうなの。では、少しだけ脅しの仕事をさせるかもしれないわね。いつでも準備はしておいてと彼に言っておいて」
あいあいさー、と返事するときの決め台詞をいつものように放つ。だが天真爛漫なエリカの像とハルの中のエリカの姿が噛み合わなった。あちらのほうが素の姿であるかのうようだった。
「トーリヤ、Lakersの人気も先導ハルに流れ込んでいるようね。その調子で人気を落として頂戴。あなた達の役割は、私の教育の実験相手。それを発足時に伝えたと思うけど、それは先導ハルの誕生によって証明されてしまった。あとは他の原石に応用、利用を重ねれば、ファンタズムの地位は不動のものとなる」
「……分かっています。私達はあくまで裏方。他のタレントたちが揃ってきたら、アリサとエリカはそれぞれ別の仕事。私は、海外戦略のほうへとシフトしていくわけですか」
「ええ。トーリヤ、そういう仕事がしたかったのね。私がイチから教えてあげる。そうね、引退時期は先導ハルの人気が絶頂を迎えるのが四月の予定だから、五月の一日には引退してもらおうかしら」
そこでハルは逸る心臓をなんとか抑えながら扉を閉めた。急いで上の会議室へと戻り、心臓の早鐘や背筋の冷えなど、体の調子が狂い始めた。
「……なに、あれ」
あれがどんな種類の会話か理解できなかった。芸能界の中の話だとは思えない。情報を得た、組の者、そして教育の実験。つまり、いままでの出来事全てが黎野が描いたシナリオであったことではないか。
「私は、そんなものの上に立っているの……?」
嫌悪が込み上がってきた。これでは今までと何も変わらない。父と母が欲望の渦に陥ってしまい、ハルやナツとアキを捨ててしまったこと同じではないか。そうやって脳が痛むほど考え込んでいる間に、黎野が何食わぬ顔で会議室へ入ってきた。隣には音楽プロデューサーやライブディレクターなどの面々が揃っていた。
「はあい、ハル……って、どうかしたの、顔優れないけれど」
「……いえ、さっきのロケで体が冷えただけです。あとであったかいもの食べて妹たちを抱きかかえればなんとか治ると思いますけど」
「そう、けど風邪の前兆みたいな感じがするわ。妹さんたちを抱くのはよして湯たんぽでも抱きしめたほうがいいわ。湯たんぽ、あれはいいものよ」
そうします、とハルは空返事だった。つい数分前まで異質な話をしていたというのに、黎野はそれを感じさせない態度で臨んでいた。四月に控えたライブの話をしたと思うが、頭の中はすでに彼女への不信感でいっぱいになっていった。
二月になっても黎野、ひいてはファンタズムそのものが恐ろしく感じ始めていることに気付いていた。改めて、ファンタズムのことに調べてみた。
もともと芸能界でアイドルからタレントとして活躍していた黎野明美。だが当時から黒い噂が絶えなかった。ある芸能人への告発やヘイトスピーチ。裏営業や反社会的組織とのつながり、脱税など、二十年くらい前の黎野明美の記録には華々しい活躍より、負の情報がネット上には記載されていた。もちろん、彼女がこうして表舞台にいるからには真実は真か否かを判別できるわけではない。黎野は引退後の五年でファンタズムという芸能事務所を立ち上げ、徐々に活動の範囲を広げていった。
事務所社長としての黎野は業界でも有力な傑物として捉えられていたように思う。実際、彼女が現場に来ると、様々な人達が彼女によってくるからだ。いま思えば、蜜に引き寄せられた虫のようだった。
Lakersはまさに超新星という如きに出現した。ハルも三人のパフォーマンスは素晴らしいものだと感じていた。だが、改めて見ると、活動初期の方は粗が目立つ。歌唱番組では宛歌なのが見え見えで、初のライブなのに全曲口パクだった。最近のほうが質は上がっている方だが、ハルが経った数ヶ月でその領域に至っている。あと半年もすればLakersの人気を超えるのは予測できた。
「……全部、黎野の計算通り、でも、Lakersだって……」
彼女たちに憧れていなければ、そもそもアイドルを始めようとは思わなかった。彼女たちの曲でパフォーマンスをして、アイドルになることを夢見てもいいのではと思ったのだ。
しかしハルにはハルの目的がある。ナツとアキを不自由のない生活を遅らせること。ここで歩みを鈍らせたら、二人に申し訳ない。だが今の状況のままで、活動を続けていってもいいのだろうか。
そんな相反する心中を胸の中で抱え続けていると、やはり見破ってくるものが出てくる。
黎野ではなく、身近で大切な存在からだった。
「姉さん、なにかあったでしょ」
食事中にアキが尋ねてきた。ハルは条件反射で、仕事が忙しいだけだと返したが、ナツが続けてこうも言った。
「あのなあ、連日家でため息ばかりついてみろ。流石に仕事の疲れじゃ言い訳できねえよ」
ナツにそう言われて、確かに家でも考えることばかりで二人から見たら異様な光景に映ったことだろう。それでも一家の大黒柱として、何よりアイドルとしての笑顔を浮かべてやりすごそうとした。
「心配してくれたんだね。じゃあ、少しだけ寝ようかな」
「……そんな笑顔、スクリーン上でしか見たことない。こんな場所で出さないでよ」
今までで聞いたことのない冷たい声だった。アキは責めてくるような視線を向けている。ナツも同じだった。
二人にはそんな顔をさせたくない。なのに、自分のせいでさせてしまった。あまりの不甲斐なさに、込上がってくるものを必死に堪える。
「私、お姉ちゃんよ。大丈夫だから、絶対に」
「あのねえ。一年ちょっと前のこと忘れたの? 積立が盗まれたときの同じ顔してる。ううん、あのときよりもっとひどい」
「姉ちゃん、俺達に話してみろよ。いつまでもガキのままじゃねえんだよ、俺達は」
二人を見合わせて、ハルは初めて気付いた。いつのまにか、いい顔つきになっている。あれだけあどけなかった小さな二人が、大人へと近づいてきている。
ハルは肩の力が抜けたような気がした。二人のために、どんな辛いことがあっても頑張れると思っていた。逆だった。頑張っていたから、辛いのだ。それは、目の前の二人が原因だと突きつけているようで心が痛い。そんな感情を、持ってはいけないのに。
「……聞いたら、どうなるかわからないわよ。お姉ちゃんのこと、嫌いになるかも」
「それはそれで面白そうじゃねえか。あのアイドルと大喧嘩なんて、なかなか出来ることじゃねえからな」
「もうナツってば調子がいいんだから。けど、このまま黙ったままでも同じだし、ケロって吐いちゃいなよ」
ハルはその言葉にうなずき、ポツポツと話していった。
話し終えてから二人は驚愕を浮かべ、複雑そうな様子を見せた。やはり言うべきではなかったか。すると、アキがこんなふうに言った。
「姉さん、芸能界でアイドルするの辞めたら?」
いきなり何を言うのだと思った。だが次から、彼女が続けて提案を出してきた。
「そんなところとは縁を切って、姉さんだけでアイドルやればいいのよ。たしかに今までより稼ぎとか少なくなると思うけど、やりようなんていくらでもあるでしょう?」
まだ物心を知らないと思っていたが、物の稼ぎかたというものを熟知しているような気がした。
「ま、色々調べてみるわ。姉ちゃん、いつでもやめていいからな。俺たちがなんとかしてやる」
「なんとかって、そんな簡単なことじゃないでしょう」
「簡単なことだよ、姉さん」
アキがまっすぐ見据えて、挑戦的な目を向けてきた。ナツは軽快に笑い、腕を組んで言った。
「毎日ご飯を食べて、学校に行くほうが大変だったでしょう。それと比べたら、お金を稼ぐなんて簡単。だから姉さんは、自分を無理に抑えようとするのやめて。姉さんが、私達のためにがんばっているのは知ってるけど、私達だって姉さんの幸せを一番に考えてるんだから」
姉の幸せを願っている。渇いた心に潤いが満ち始めたような感覚だった。それは、初めて二人をみたときと似ていた。あの時と違うのは、二人の成長を感じることが出来たことだ。それが姉として、家族として、そして先導ハルとしてこんなに嬉しいことはなかった。
先導家総出で、これからのことを連日のように話していった。まずどうやってファンタズムから離れていくか。これに関してはハルの触れてきた芸能界の掟が役に立った。スキャンダルこそが、芸能界に一番ダメージの与える方法だと。
ハルは借金返済にやってきた志島に積立費を盗んだことと、そのお金が計上されていないことを理由に従わせた。それから出版業界でゴシップ関係の知り合いと出会い、スキャンダル計画を実行した。ハルと志島がホテルの中に入るところを、知り合いの記者が撮影していく。それからホテル内の非常用出口から脱出し、あとはそのとき撮った写真を、お世話になった人たちへと極秘へ伝えに言った。番組プロデューサー、ディレクター、スポンサーなどを周り、スポンサーの人たちには予め用意した違約金を支払った。四月付で番組を降板させると、事務所側にも伝えてほしいという要望も聞き届けられた。こういうときに、大きな組織は損をしたくないからか、疑問もなくあっさりと受け入れてくれた。
それから、Lakersに事実確認も行った。彼女たちは事実を認めならがらも、それを甘んじている様子だった。これ以上関わるとろくな目に合わないという忠告を受け引き下がった。彼女たちのことも頭の隅で引っかかっていたが、それは〈ハッピーハック〉の発足時の目標の一端を後押ししてくれた。
今回の件で、一番の被害を被るのはファンタズムではなく、ハルのファンだろう。ファンについては誠心誠意、対応していくしかない。引退宣言をして去っていくときの悲鳴は、しばらくは悪夢としてやってきた。
だが引退してからは次第に楽し身になってきたように思う。五月はどんな方向性で次のアイドル活動を目指すかという期間だったからだ。
「姉ちゃん、まだアイドルやるのかよ」
「いやいや、二人が芸能界でのアイドルを辞めたらどうかっていってたでしょ」
「ごめん、私の言葉が足りなかった。でもお姉ちゃん、無意識にアイドルやりたいって言ったよ」
ふと振り返れば、ナツとアキは芸能界でアイドルを辞めたらと言っただけだ。芸能界を辞めるというのはそのままの意味だ。アイドル活動もできない。だがアイドルを辞めるというのは、芸能界で他の選択肢があることを示唆している。どちらにも取れる言い方だったので、てっきり芸能界でアイドルを辞めるというのは、ほかの場所でアイドルをしようという意味と捉えてしまった。
だが不思議と、他の場所でアイドルというイメージが浮かび上がってきた。あのときは、ファンに引導を渡すために嫌われ役を自ら買って出た。しかし、本当にあの言葉たちが嘘から出たものとは考えにくい。
場所にも寄るが、ライブではファンの顔は見えない。サイリウムの光がファンの存在証明となっているが、ファンの人達がどんな人間で趣味嗜好が有り、先導ハルをどうやって知ったのかを知らない。
そしてアイドル活動自体、悪いものではなかった。むしろ、続けられるなら続けてみたい。そう思っていた。
天啓が走ったのはその時だ。線が一つになる感覚とでも言うのだろうか。その点自体が大きかったのも要因の一つだ。一緒にオーディションに来てくれたお嬢様、逃してしまった星のような少女。彼女たちが自分の隣りにいる光景には、どこか不可思議で神秘的で、未知なる道が満ち溢れているような気がした。
──これがやりたい。
自分の知らないアイドルをやりたい。
誰も知らないアイドルになりたい。
私は、アイドルになりたい。
色んな感情を言葉にするのに一晩もかからなかった。しばらくの間、頭の中で次々とアイデアを広げていき、その形が描かれた。自分の境遇、偶然の連続を確定させようとする意思、必然を作り出すために虚構を撒き散らす悪意、それら全てに正面から立ち向かうものは、きっと史上初だ。
いまだかつて、世界の誰も皆が幸せになったことはないはずだ。
「みんなを幸せにするアイドル……なんて、口にして頭が痒くなるけど」
元から狂っているなら、いつまでも狂っていてもいい。そっちのほうがきっと、後悔しない。
「悪くはないかな」
先導ハルの新しい世界がこうして幕を開けた。夜明けはすぐに到来し、人々を照らす光となる。もうすぐで、その時間がやってくる。




