引き金
〈ハッピーハック〉とLakersが入れ替わりに部屋へ入ってくるなり、黎野明美はこらえていた激情を爆発させた。まず書斎の上の置物をなぎ倒し、飾ってあった瓶を壁に叩きつけた。けたたましい破裂音が部屋中に響き、残骸が撒き散らされる。Lakersたちは、何度も見せられたように飽きたようすで、黎野の激情の発散を眺めていた。
「生意気、生意気、生意気なんだよおぉぉぉぉ!!」
座っていた椅子を掲げて、強化窓ガラスや机に叩きつけていく。何度も叩きつけて、骨格が歪んでもなお、元の形から変形するまで叩きつけていた。その間、彼女の口からは思考の領域から逸脱した言葉が出てくる。
「私を馬鹿にしやがって、殺してやる、殺してやる殺してやる。せっかくのチャンスをふいにしやがってっ。私を怒らせるとどうなるのか、思い知らせてやるわああ!」
椅子を床に投げつけた後、彼女はLakersのほうへ視線を向けた。まずは小柄なアリサへと駆け寄ってきた。黎野は奇声を上げながら固く握った拳をアリサの胴体へ振るった。
「……うっ、い、いたいぃ」
「我慢しろよっ、誰のおかげで飯が食えてる思ってんだ。アタシが、このアタシのおかげでしょううう? 人形になって、わんわんないて、私の心を満たしてよオオォォォ!」
顔はさすがにまずいと感じているからか、アリサの胴体のみに暴力の嵐が降り注ぐ。「あーあ」とトーリヤの隣にいた少女がトーリヤに聞こえるように耳打ちをした。
「こういうとき、弱い人はイジメられるんだ。あの女、絶対に私達に手を出さないよな」
「ああやって怒りに身を任せているけれど、あれって感情の支配じゃなくて、理性で殴ってるのよ。正直、最悪の暴力よ」
もう一発降り注ごうとするアリサへの暴力をトーリヤががしっと掴んで止めた。彼女の血走った目がこちらへ向いた瞬間、トーリヤがつぶやいた。
「エリカ、いつもどおりに」
「あいあいさー!」
エリカは跳躍して懐からスタンガンを取り出した。その首筋に一瞬で気絶させるほどの電流を流し込む。黎野は痙攣をしたあと、絨毯の上に倒れ込んだ。トーリヤはすかさずアリサへと手を伸ばした。
「ん、あとで治療室行くよ。痣の写真も取らせるから」
「……あ、ありがと。いつもごめんね」
「いいのよ。貴方がヘイト受けてるおかげで、準備が捗るわけ」
エリカが黎野をソファの上に寝かせたあと、首を傾げて言った。
「社長、アチシたちに何のようだったのかな?」
「年末ライブの段取りでもしたかったんでしょ。あのライブ、各界の大物が駆けつけてくるみたいだし」
「じゃあ、パパとママも来るかな。パパの方はわからないけど、ママは来そう!」
「……ママさんって、どっちのほうだっけ?」
「ヤクザじゃない方。家元系の女だよ」
「自分の母親を女って呼ぶな」
トーリヤはひょいとアリサを抱えてから、部屋の惨状を眺めた。黎野明美の精神がすでに限界をきたしていた。彼女がそうなったのは、二十年前の「20年禍」の影響も大きいと調べでわかっている。
「ま、他人に依存して行きてきた結果がこのザマか」
「悲劇のヒロインってやつ? 最近は主人公になったほうがお得なのにねーん」
「ヒロインはどうしても主人公のために……という傀儡になってしまう。この女は、心だけではなく体も尊厳も陵辱され尽くした。ある意味では、ヒロインの役割となっているな」
トーリヤは感情のない目で床で気絶している黎野をみた。彼女に関しては同情に値する部分がまるでない。視線を外した後、三人は何事もなかったのように部屋を出ていった。
人生で華やかな時期だったのが二十年以上前のアイドル活動だったと、今振り返るとそう思う。黎野明美は小さい頃から蝶よ花よと愛でられていき、しだいに芸能界という道を志した。アイドルグループの一員になり、時代のおかげもあってか売れ行きは良かった。一大資産を築き上げた、というほどはないが、贅沢をして暮らせるくらいには懐が潤った。
しかし順調に上り詰めていたときに、それはやってきた。
「20年禍」──その年の災厄は、人々の生活を一変させた。ウイルスが蔓延し、イベントや外出を控えることが当然になっていった。当然、芸能界にもしわ寄せはやってきて、黎野明美はそれを機に置いていかれるようになった。
理由は単純で、黎野をそれほど欲しいものではなかったと、芸能界が判断したからだ。黎野は上手くいっている方だと自負していたが、それはまやかし以外の何物でもなく、ただ単に他のメンバーが重宝された、それだけの話しだった。黎野自身、なんの取り柄もない少女だと思い知らされた。
そのとき、すでに20代を超え、アイドルとしての賞味期限が迫っていた。生き残るためになんでもやった。不正、裏営業、ヤラセ、炎上など、ヘイトを集めることでなんとか生き残ってこれた。二十代後半、黎野はある転機と出会った。
「……《P》、貴方の知恵を貸して頂戴」
ある日、SNSのメッセージに《P》と名乗る人物から、メッセージが届いた。有り体に言うなら、黎野の悩みの根源を看破したものだ。内容はこんなものだった。
“君の悩みは世界が生み出した悪しき風習がそうさせた。これからは人の時代ではなく、システムの運営によって成り立つ。君は、いち早く個人の世界を脱したほうがいい”
別にその時は、胡散臭い意識高い系の人間が言ったものかと考えた。だが引退する後押しにはなった。芸能界を引退した後は、〈P〉という人物と接触して文句の一つでも言ってやろうと思った。
だが彼との話は常に刺激的で、文章だけのやり取りだけで今までの悩みの解決方法や、これからの時代について話していき、黎野はしだいに芸能界がいかに簡単に生存できるかを知っていった。三〇代なかばで芸能事務所を立ち上げ、《P》は外部の顧問として雇い入れた。彼と直接出会い話したことも、直接声を交わしたこともない。だが彼の助言によって、ファンタズムは大きく成長したし、芸能界という荒波を乗り越えることもできた。
いつのまにか、この活動が黎野にとって唯一と言っていい生き甲斐であったし、信じてい疑っていない。たまにこの理念を反する愚か者も出現するが、そこは芸能界の先輩として厳しいお灸を添えてあげた。
「《P》、裏切り者、どうやって始末すればいいの?」
ファンタズムに忠誠を誓い、最後の最後まで挽回のチャンスを与えたのに、それを不意にするものが一人だけいた。
「先導ハル……〈ハッピーハック〉。私に屈辱を与えたのだけは、本当に耐え難い」
屈辱は二十代の出来事を思い出してしまう。今までの苦労を思い出すようで辛かった。記憶を忘却できる機能があるなら、真っ先に二十代の忌むべき出来事を削除して欲しいほどだ。
《P》が何者なのかどうでもいい。彼と話がしたい。有意義な未来を交わし合いたい。そして願わくば、一緒に未来を見たいのだ。
「──っ、きた」
四〇代の女が忘れた乙女の顔をした黎野だったが、一瞬で老け込んだように画面を凝視した。
「……もう、期待は、しない……?」
返事はいつも早い。送ると二分ほどでレスポンスが返ってくるのだが、たった二分で見限られてしまった。
「うそ、うそ、だって、貴方が、貴方が……」
自分は何も悪くない。精一杯、歯を食いしばって頑張ってきたではないか。心と体を捧げてまで、ここまでたどり着いたのに、どうして《P》はこの状況下で見限ってしまうのか。
「まだ、私はやれる。やれるのよおおおおおお」
叫びながら、懇願するようにキーボードを叩く。瞳から落ちてくるものがキーボードを濡らし、必死の形相でF5キーを連打する。数分後、レスポンスが来た。メールを開き、心が踊った。
「……挽回するには、アイドルフェスティバルをなんとしても成功させるね。話はその後で……。あはは、そっか、年末にあったわね。これで私は安心できるんだ!」
安心と口にして、それが安心ではないことを黎野は気付いていなかった。黎野が受けたトラウマは、芸能界全体に対しての憎悪となっていることすら、彼女は認知できていなかった。
最後のほうの文面で、黎野は絶頂に近い感動を覚えた。
”わたしは期待はしない。常に君は頑張っているからね。期待をするまでもないのさ”
冷静な頭なら、なんと都合のいい文章だろうかと怒りが込み上がってくる。しかし黎野明美は十年以上もすがっていたので思考停止に陥っていた。そして〈P〉も、それを理解してこの文章を送っていたのだ。
”私は君を幸せにするために生まれてきたんだ。そのために、一緒に挽回しよう、明美”




