幸せの対象
ハルの自宅を後にしたミソラは、予定通り会食の会場へ美住の駆るハイヤーで向かった。
会食の場所は都内某所高層ビルの夜景なきれいなレストランだ。会場備え付けの更衣室で、美住に全身を見繕ってもらい、いつも以上に身だしなみをチェックする。厳格な基準をクリアしなければ、ミソラだけではなく美住にも躾がなっていないと落第を押される。自分ひとりならともかく、彼女にまで飛び火するわけにはいかない。
だというのに、帰宅してから頭の中を占めているのは、姉との会食とは関係のないことだった。
「ねえ、美住の給金っていくらぐらい?」
「──えっと、それってどのような意図でおっしゃられているのでしょうか」
「単純な興味。ほら、今日そんな話が出てきたから、そういえば私の家はお金持ちなんだなって思っただけ」
「作用でございますか。私はここへ住まわせている関係上、給金というものはありません」
「それ大丈夫な話?」
「そもそも、奥様と旦那様マンションのに住まわせてもらっていますし、その家賃が月に六十万。その設備の恩恵に預かり、食事まで頂いているのです。なので、お給金など必要ありません」
たしかにそう考えれば、給料なんて必要ない。あくまで生活するためにお金が必要というだけで、衣食住の保証がされている場ではお金はあまり意味を成さないのだろう。
「では趣味の方は? 私や姉さんたちが居ないときは、余暇を過ごされているのでしょう?」
「はい、年に一度、わずかですが主さまからボーナスをいただきます。それを必要な分だけ使わせていただいています」
「それってどれくらい?」
「ボーナスとは主様の査定です。去年と一昨年で額に差があったとだけでご容赦いただけませんか」
「美住、貴方を買いかぶりすぎてたわ。……では他愛のない約束だけれど、貴方の働きを評して私に一つだけなんでも言うことを聞かせる権利を差し上げるわ」
「ふふ、お戯れを。では、いつかミソラ様の演奏会を皆様で観に行きたいですね。それが私の夢です」
それこそ戯れだ。姉たちが自分の演奏を観に行くことなんて、よっぽどのことがない限りありえない。ミソラはそんなことを夢見てしまい、すぐに現実へと戻るのだった。
美住は店の入口まで案内を終えてから出ていった。彼女はしばらくどこかで暇をつぶすのだろう。家族三人の食事会に使用人が間に入る余地はない、という暗黙の了解だ。
店のウエイターの案内で、通常の個室より奥の方にある部屋へ向かっていく。重鎮御用達のフロアらしく、セキュリティの方も万全との噂だ。姉たちに危害を加える勢力がいるかどうかと言われるなら、間違いなくいるはずだ。いまや日本や世界を相手に渡りあるいている企業のトップなのだから。
扉の先の前に立つと、見知らぬスーツ姿の男二人がいた。おそらく姉たちの付き人で、ボディガードの側面もあるのだろう。それらをくぐり抜けたところに、フォーマルな衣装に身を包んだ二人が居た。長机に散らばるように据わっており、机の上には白いテーブルクロスとグラスに注がれた水があった。上座に座っている女性は一層美しく際立っており、斜向かいに座る男性は静かな知性を携えていた。
「あ、久しぶりミソラちゃーん。ちょっと背伸びた?」
「体が細いのが少し気になるな俺は。若い内から節制した生活は関心だが、ジャンクフードの味も悪いものじゃない。なんなら、いまからシェフに作ってもらう手だってある」
「不健康なお兄様はほっときましょう。さて、みんな揃ったことだし、短い時間を存分に楽しみましょう」
相変わらずな応酬に笑みが出てきてしまう。ウエイターがミソラの席の椅子を引き、そこに腰を下ろした。ウエイターが一礼をしたあとコース料理を取りに部屋を出ていった。料理を待つ間、軽い雑談を交わす。
「まずはミソラちゃんの近況が聞きたいわ。学校の方は美住のほうから聞いてるから、それ以外のことね」
「それ以外、というと、やはりアルバイトを始めたことが大きいです。姉さんが紹介してくださったあのお店、個人的にも気に入っています」
「あら、貴方のお眼鏡にかなったのなら何よりだわ。そこでのバイト代、何に使ってるのかしらね」
と、ニマニマと悪戯めいた表情を浮かべている。ミソラは知らぬ存ぜぬの顔で、ここ一ヶ月のお金の流れを振り返った。
「お給料は……ご友人たちと電車での移動に、スーパーで食品の買い物。あとは動きやすい服装に、電子機器を少々でしょうか。それで大体、月に得たお金は消えてしまいました。兄さんから節制を褒めていただきましたが、実のところ自分のお金使いは荒いものだと、反省をいたしております」
先導家までの道中はそんなにお金がかかるものではなく、練習着や音楽制作の機材にほとんど消えていった。特に機材を自由に買えるようになったのが大きい。
「ミソラってば、電子機器なんか買ってたの。なら、最新鋭のものあげたのに」
「──以前、そう申し立てしたのに却下されたのですよ。他でもない姉さんにね」
「あ、あらー、それは……ごめんなさい。実のところ、なぜ却下したのかも覚えていないわ」
でしょうね、と思いながら水を一口含んでいく。ミソラの環境は、必要なものを買うには水澄から姉たちに審議を申し立てる必要があり、大体は却下された思い出しかない。
それからコース料理がやってきた。前菜は彩りのいい野菜とフォアグラのソースがかかったものだった。たとえ家族の前であっても、テーブルマナーで得た食事は息をするように行える。ただ兄の志度はそんなものお構いなしに、サラダをかきこんでいった。麗奈がそれをみて眉を顰めた。
「貴方は相変わらず気品のないことを……」
「あのな、飯ぐらい自由に食わせろっての。年に一回か二回出来るかわかんねえんだぞ、この食い方。牛丼、かきこみてえ」
立場上、会食の多い兄ではあるが、根っからの庶民派である。健康度外視の食事で、二十代で痛風を発症したときは、麗奈はかんかんだった。食生活の改善で、ある程度は持ち直したようだが、二人が宗蓮寺グループのトップに付いてから、食事というのは栄養補給や娯楽ではなく、仕事の一つになってしまった。食事が娯楽である兄にとっては多大なストレスに違いない。
「姉さん、せっかくの食事会ですから、好きなものをいただきましょう。もちろん、コース料理をいただく傍らですが」
「言うようになったわねミソラも。だったらファミレスにでも連れて行けばよかったかしら」
「だとしたら、私がいただけるのはドリンクバーの紅茶ぐらいしかありません」
そう言ってミソラと麗奈はお互いに笑った。兄はよし来た、言わんばかりに店員を呼び、料理の追加注文をしていった。兄の料理と次のコース料理が届いてから、今度はミソラが二人に近況を聞いた。
「そういえば、ある地方都市で次の革新技術を取り入れているそうですね。次はどのようなものが都心に配備されるのか楽しみです」
「そうね。みんながそればかりに注目しちゃうんだけどね、あれって大量に宝くじを買って大当たりを引くようなことなのよね、実は。都市部から改札をなくしたことができたけど、今度は電車までの道を短くしろって要望が大きくなった。利便性を手にすると、人間はどこまでも怠け者になっていくわけ」
「豊かさの弊害か。我々は革新的な技術より、人間社会の影響を考えなければならない。たとえその技術が便利で快適だとしても、それで人間の大切な何かを失ってしまうことだってある。……ミソラは、もし人間が歩かなくて済む社会ができたらどう思う?」
兄の質問に息を呑む。ミソラは一瞬のうちに想像を張り巡らせ、思ったことを口にした。
「それは……恐ろしく感じます。つまり歩けるのに歩かないということですよね。人間が持つ機能を、自ら捨て去ってしまうのはいささか想像がしにくい。ゆえに恐ろしいと感じます」
「いずれ、人間自体が機械化していく可能性もあるわ。けど先に、価値観が機械化しちゃうほうが早いかも。これをするのが幸せ、それが正しいこというような感じでね。個人主義や全体主義でくくるには、問題は複雑になりすぎているわね。本当、どうしてこうなったんだが」
「俺は食欲を封じられているが、麗奈はもっとひどい。身に付けているものから、口にする食べ物に至るまで、この世の全ての人間が監視しているといって言い。そんなこいつを、世間がパワースポットみたいに扱われるのは、バカバカしくて笑ってしまう」
「あら、私はこの扱いを割と気に入ってるわ。経済が困ったとき、私が世の中を動かせるということじゃない」
まるで他人事のように、宗蓮寺グループ総帥が語った。宗蓮寺麗奈が表に出ることで動くお金は何億、何兆にも及ぶと聞くが、それは麗奈が発言するときは必ずといっていいほど世間に影響を与える証左だ。SNSである場所で食事をしたと書くと、その数時間後に行列ができてしまう。ある意味では不自由な立場に麗奈は立っている。それを補佐するのがミソラの兄の志度だ。彼は参謀的な役割だと、以前に言っていた記憶がある。
「お前が戦争をやめるだって言ったら本当に終わりそうだな」
「日本国内で起きているのなら頑張るけど、海外は無理よ。どこから生まれたかもわからない概念を信望して、あのテログループは──」
と、麗奈ははっと口を閉ざした。ミソラのほうへ見て申し訳無さそうな顔を浮かべた。
「ごめんなさい、せっかくの食事なのに」
「いえ、お二人が気楽にそういうことを話せること自体珍しいことです。とにかく、心の往くままにお話を聞かせてくださいな」
家族水入らず、いろんな話を三人で行った。ここでのことは、ここで完結する話で、表に出ることは一切ない。だがみんな、誰かを深く思い合って、何かを探し求めていることだけは、ミソラにも分かった。
コース料理はデザートを残すだけになったところで、ミソラはあることを二人に尋ねてみた。
「姉さん、兄さん。お二人は『みんなが幸せになれる』ということについてどう思います?」
二人は驚いた様子でミソラを見た。自分でもなぜこの言葉が出てきたのかわからない。みんなを幸せにするという、〈サニー〉の思いがどれほど困難なものかを知りたかった。この二人からの言葉なら、納得の材料となる。
「みんなを幸せにか……。みんなの範囲しだいでは、まあわたしの立場と権力を存分に使ってかなあ」
「つまり、お金やら、愛やらを、世界の全員に振りまく──というより、ばらまくだな。振りまくもばらまくも、特定の個人というか対象だな。芸能人で言うところのファン、スポーツ選手で言うところの応援団、みたいにな。けど、それで幸せになったことはねえだろ。たいてい、もっともっとと、強欲になってしまうしな」
という二人の所感に、なるほどと頷いた。特に志度の「振りまくばらまく」の考えは頭の中に残っていた。
〈サニー〉……〈ハッピーハック〉がみんなを幸せにするのは、一体誰なのだろうか。




