はじまり
スリーアースでの演奏会も定番になり始めていた。高校生になり、今までピアノで演奏してきた分の給料を、いきなり差し出してきたときは驚いてしまった。もちろん謹んでお断りを入れた。
「……あの人、本当に何をしているんだか」
この一年で先導ハルは想像以上の出来事を起こしていった。鮮烈なデビューから目まぐるしい活躍を果たし、その果てには二週間くらい前の引退だ。少女は毎日のように呆れ返るほどの文句をつぶやいていた。
「約束、やぶって」
一番怒っているのはファンでもなく、約束を破られたほうだ。いつか自分の曲を歌いたいと語っていたのに、なぜ不意にするような行為をするのか。もちろん、何かしらの事情があるのは察することが出来る。ならば、事前に連絡の一つでもよこしてほしかった。自分なら、そこらの人間より有意義な解決ができたかもしれないのに。
「演奏前のため息が多くなったね、ソラちゃん」
「……那珂さん。いたんですか」
「いたよ、いましたよ、存在しましたよ。けど、ため息の原因が分かっちゃうから、文句はここまでにしておいてあげる。……ハルちゃん、なんかすごいことになってるね」
那珂はこの一年でハルを共通の話題として仲良くなった従業員だ。以前はハルの先輩だったらしい。
「凄いなんてものじゃないですよ」
ファンは裏切りを許さない。自分の心を弄んだものを、生涯に渡って恨みを吐き続けるだろう。
「連絡はしてみたの? 私からは全然来ないけど」
「するわけありません。あの人が勝手に選んだことです、私には関係がありません」
「あらあら、ファンみたいな反応だね。私、結構好きだったんだよねえ。スパって自ら幕を下ろすことなんて、普通はしないでしょ。こと、ビジネスに於いてはさ」
確かに潔さは感じた。だがそれとこれとは話は別だ。約束を守れない人に、潔さで人格を語られても仕方がない。
「あ、そろそろピアノの時間じゃない? ていうか、なんでオーナーは当時中学生だった人を働かせたのかしらね」
「それは私からお願いしたのです。ピアノの上達には、どうしても人前での緊張感が必要だと考えまして」
「ふーん。でも受験時期にもいたよね。もしかして中高一貫校だった?」
「はい。なので十月からは金曜日まで日にちを増やしてもらいました」
「……君、オーナーに言えば何でも叶えてくれる娘だったする? あのぉ、給料を、上げてもらえるように──」
「いやです」
そんな軽いやり取りをするくらいに、店内の従業員と親しくなった気がする。これも、彼女と出会ったからだ。この一年で、人生のなかでも貴重な経験を彼女からもらった気がする。
時間になったのでピアノへ向かうことにした。店は相変わらず繁盛が続いている。一度、まかないを食べさせてもらったことがあったが、大変美味だと感想が溢れるほどに素晴らしいものだった。
そしてピアノ席の前で立ち止まり、一礼を交わすと拍手が起き始めた。最近はすっかりその様相だ。
約三十分の演奏が終わり、スマートに立ち去ろうとしたその瞬間のことだった。一つの影がピアノに落としている。誰だろうかと振り返る。落ち着いた心がざわめいた。
「……どうして、貴女が」
「ここにいてくれて本当に良かった。うん、やっぱり何回考えても、君じゃなきゃダメ。だから、約束を果たしにきたんだ」
明るい髪色にくすみは一切感じない。変わらないその姿に安心したのもつかの間、彼女が向けてくる眼に心臓が跳ね上がった。
その目を見ているだけ体が熱くなっていく。新しい世界が襲ってくるような、背筋が吹き出るような予感が押し寄せてくる。
先導ハルは右手を差し出して、こう言った。
「私と一緒にアイドルやりませんか。──みんなを幸せにするアイドルには、あなたと貴女の作る曲が必要です」
突然のことに、彼女に対する儚き想いが吹き飛んだ。
目は本気で訴えている。
表情が心の底から待ち望んでいる。
そうして、自分は気付かされる。
今まで作ってきた曲たちは、このためにあったのかもしれないと。
約束通り、手を差し出し握った。ハルが嬉しそうに笑うものだから、こちらも嬉しくなる。ふと一層輝いた眼が太陽みたいだなって思った。




